読売日本交響楽団 第16回大阪定期演奏会
【日時】
2017年3月9日(木) 19:00 開演
【会場】
フェスティバルホール (大阪)
【演奏】
指揮:下野竜也
ヴァイオリン:アレクサンドラ・スム
管弦楽:読売日本交響楽団
(コンサートマスター:長原幸太)
【プログラム】
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K. 216
ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調 (ハース版)
※アンコール(ソリスト)
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 より 第4楽章
読響の大阪定期を聴きに行った。
前半は、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番。
まずは、オーケストラによる呈示部から始まるのだが、ここからして何とも言えず良い。
泡立つシャンパンのような、軽やかさがある。
指揮の下野竜也は、京響の「オーケストラ・ディスカバリー」という子供のための演奏会に行った際に初めて聴いたのだが(そのときの記事はこちら)、このとき演奏されたホルストの「火星」「木星」やJ. シュトラウス2世のポルカ「雷鳴と電光」の、あまりに生き生きとした躍動感に、「子供向けの演奏会でここまでのレベルか」と驚いたのだった。
その後も、彼の演奏会ではいつもその躍動感が聴かれた。
日本人らしい生真面目さ、ぼてっとした感じを、彼は突き抜けたようなところがある。
今回のモーツァルトでも、彼のその性質は遺憾なく発揮されていた。
8型の小編成で奏されているが、古楽器の団体のような打撃的でアグレッシブな演奏ではない。
モダン・オケならではのふくよかさ、ゴージャスさも備えた上での、躍動感なのである。
洗練とともに、華やかさもある、このようなモーツァルトを引き出してこられる日本人は、彼以外にそう多くはないのではないか。
オケの呈示部が終わると、ヴァイオリン・ソロが入ってくる。
ソリストは、アレクサンドラ・スム。
下野竜也の指揮によく呼応した、躍動感がある。
彼女の演奏は、録音も含め初めて聴いたが、けっこう細身の私好みの音で、かつ分厚くないが豊かなヴィブラートでモーツァルトらしい華やかさもあり、かなり良かった。
私の好きなユリア・フィッシャー/クライツベルク/オランダ室内管盤に、肉薄するかもしれない(むしろ華やかさの面では勝るかもしれない)。
第2楽章もオーケストラがしばらく奏したのち、ヴァイオリン・ソロが入ってくるのだが、ここでは「ミーソードーミー」(階名表記)とヴァイオリンが無伴奏で奏したのち、オケの伴奏が加わることになる。
この無伴奏の4つの音、シンプルなアルペッジョ(分散和音)の上行音型だが、一音上昇するごとにどんどん繊細な音で奏されていき、とりわけ最後の「ミー」の音のまるでシルクのようにつややかな繊細さが、大変印象的だった。
細身でヴィヴィッドな音ながら、華やかさもある、まさにモーツァルトの音である。
ただ、速いパッセージなどで、情熱的に弾き飛ばすような箇所がときに聴かれるのが、私の好みとは違っていた。
別の速い箇所では丁寧に奏されていたところも多々あるので、技術的な問題というよりは、彼女の解釈なのだろう。
上記フィッシャー盤のように、羽目を外すようなところでも、あくまでも丁寧さ、典雅さを失わないのが、モーツァルトにおいては私の好みである(フィッシャーは、ロマン派の起伏の激しい曲などではやや優等生的に過ぎるような印象を受けることがあるが、モーツァルトでは彼女のその特質がプラスに作用していると思う)。
しかし、そういったアレクサンドラ・スムの情熱的な側面は、アンコールのイザイにおいては、曲に内包された激情を的確に抉り出していた。
それでいて粗くはならず、音程の確かなヴィヴィッドな音は保たれていて、アリーナ・イブラギモヴァによる同曲の名盤に肉薄する出来であった(イブラギモヴァ盤の、あのあまりにも透徹した表現、安定性にはやや及ばないにしても、それとはまた別の魅力がある)。
アレクサンドラ・スム、注目すべきヴァイオリニストである。
休憩をはさんで、後半はブルックナーの交響曲第7番。
この曲は、昨年ズービン・メータ/ウィーン・フィルの演奏会で最高の名演を聴いてしまったので(そのときの記事はこちら)、私の中ではハードルがかなり高い。
しかしそこは下野竜也である、彼はこの曲をどのように料理するだろうか、彼のスタイルからして、まさか躍動感あふれるブルックナーになるのだろうか、そのようなことを考えながら期待して聴いた。
第1楽章は、私の予想に反して、かなりゆったりとした重めのテンポで開始された。
メータ/ウィーン・フィルのときと同じようなテンポか、あるいはさらに少し遅いかもしれない。
ヴァイオリンによるトレモロ(細かく刻むような音)が、ふわっと柔らかく、今生まれたかのように奏される。
そして、低弦により第1主題が奏されるのだが、そこは下野竜也のこと、メータ/ウィーン・フィルのような分厚い音ではなく、豊かでありながらもすっきりとした音になっている。
この間、ヴァイオリンはずっとトレモロを奏し続けているのだが、低弦による第1主題が高まるにつれて、ヴァイオリンも上昇してひとしきり高まったのち、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンとが1音ずつ交互に下降して収まっていくこととなる。
この高まりは、大きなうねりはあるもののまだ静かな第1主題の一部なのだが、下野竜也はもうすでにかなりのフォルテ(強音)で大きく盛り上げる。
エネルギーを込めて奏させている、といった感じ。
メータ/ウィーン・フィルのように、分厚い音が自然に高まってより分厚く豊かな音になったというのではなく、また私の好きなケント・ナガノ/バイエルン国立管盤のように、高まりながらもすっきりとしたスタイルでさらっと通りすぎていくというのとも、また違う。
すっきりした音から始まりつつも、その後あえてエネルギーを込めて早くから大きな高まりを作っていく、といった印象なのである。
これは、自然なブルックナーというよりも、「解釈」という作為を感じさせる。
このようなブルックナーを嫌う人もいるだろう。
しかし、ここの高まりは、本当に美しかった!
この箇所は、メータ/ウィーン・フィルの演奏会でも大変素晴らしかった部分であり、未だにそのときの印象が耳から離れないのだが、それを一瞬でも忘れさせるような美しさ、パワーが今回の演奏にはあった。
特に、ヴァイオリンのトレモロはあくまで第1主題の伴奏なので、高まってもそれほど大きな音にしないのが普通だと思うが、これをかなりのエネルギーで強く感動的に、かつ洗練された音で奏させており、きわめて美しく印象的だった。
ウィーン・フィルのようなコクはなくても、透明感のある美しさがあった。
ゆったりとした壮大なテンポも相まって、作為的であるにもかかわらず圧倒的なスケールの大きささえ感じられた。
フレーズの高まりでここまで強く奏してしまうと、その後もっと盛り上がる箇所では大丈夫なのか、という心配もあったが、そういった箇所ではさらに上をいくエネルギーで奏されており、全く問題なかった。
同様の、フレーズの高まりでかなりのフォルテにし、音にパワーを込めるというやり方は、第2楽章の第2主題や、第3楽章のトリオ(中間部)でも聴かれた。
このようなやり方は、自然なフレーズ感とは言い難いかもしれないし、少なくとも今まで聴いてきた井上道義、佐渡裕、大植英次らのブルックナーからは聴かれなかった。
「自然児」井上道義は、このようなブルックナーには反対するかもしれない。
しかし、彼らのブルックナーにはない、有無を言わせず聴き手を感動させるパワーが、今回の下野竜也のブルックナーにはあったのも、確かであった。
第1楽章の第3主題では、下野竜也はテンポを速くして、彼ならではの躍動感を遺憾なく発揮する。
そしてその速いテンポのままで、展開部冒頭の木管アンサンブルによる第1主題反行形を奏させる。
そしてその後の、低弦による第2主題反行形のあたりから、またゆったりしたテンポに戻すのである(冒頭ほど遅くはしないが)。
彼の解釈に沿ったその場その場のテンポの変化が自然になるように、という彼の工夫の賜とは思うし、ある程度成功しているとも思う。
しかし、呈示部冒頭と展開部冒頭とが、ここまでテンポが異なってしまうと、ソナタ形式としての整合性が取れにくくなってしまうのも、避けがたいところである。
細かなテンポの変化はあれど、基本的には重いテンポで一貫しているメータ/ウィーン・フィルや、速めのテンポで一貫しているナガノ/バイエルン国立管盤のような統一感が、下野竜也の演奏からは失われてしまっている。
感動的な演奏とはいえ、こういった問題点というか、違和感はどうしてもあった。
これは、ソナタ形式をあまりにも肥大させすぎたブルックナーの書法にも一因はあるのだが、やはり下野竜也による網の目のような「解釈」とその帳尻合わせからくる矛盾という面も、否定はできないだろう。
第2楽章でも、第1楽章と同様に美しい高まりが随所に聴かれた。
頂点の部分では、(プログラムにはハース版と記載があるけれども)シンバル、トライアングル、ティンパニありで絶大なパワーが表出されており、これでこそ下野竜也、と感じた。
しかも、ここで最初はシンバルとトライアングルを前面に押し出し、ティンパニは比較的抑えておいて、シンバルとトライアングルがなくなった後にティンパニを大きくクレッシェンド(だんだん強く)させ、迫力を出すというやり方を彼は取っており、これがきわめて効果的であった。
ただ、これもまた、作為的に過ぎる、ブルックナーとはそういうものではない、という人もいるかもしれない。
前半の2楽章に比べて、第3、4楽章は、ブルックナーの曲の中でも比較的重々しさの抑えられた、軽やかさの前面に出た曲調となっているということは、よく言われることである。
特に終楽章は、ごつい箇所もあるものの全体的に何とも軽やかで、コアなブルックナーファンからは「軽すぎる」と言われることさえある。
そんな第3、4楽章においては、下野竜也の躍動感あふれるスタイルが、大変自然な形で表れていた。
前半の2楽章のような「作為」をあまり感じさせない、彼の自然な特質の面目躍如、といった感があった。
それにしても、「重厚」の代名詞のようなブルックナーでここまでの躍動感が出せるのは、すごいと思う。
それも、これ見よがしの躍動感では決してなく、あくまでブルックナーであることを失ってはいないのである。
このような躍動感は、いったいどこから来るのだろうか。
キレのあるリズムの扱いや、デュナーミクのめりはりの良さに起因するのかもしれない。
そんな中でも、終楽章の最後の最後、ここは第1楽章と似たような終わり方で書かれているのだが、下野竜也は第1楽章では比較的短めの音でさらっと終えたのに対し、終楽章の最後の一音では音をかなり長めにとって、「終結感」を出していたのが、やはり「解釈」せずにはいられない彼の特質をよく物語るようで、面白かった。
色々と考えさせられるブルックナーだったが、少なくとも、これほど美しく感動的なブルックナーを日本人の演奏で聴けることは、多くないと思う(外国の人たちにもぜひ聴いてほしいと思えるほどである)。
オーケストラも、さすがだった。
大フィルやPACオケも素晴らしいが、良い指揮者が振ったときの読響は、その洗練の度合いが頭一つ抜けている気がする。
特にヴァイオリンの美しさは比類がないと感じた。
今月末に飯守泰次郎/関西フィルで同曲を聴く予定だが、どうしても今回と比べてしまうだろう。
どうなるか不安もあるが、全く違った良さが聴かれるものと期待したい。
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