読売日本交響楽団 第15回大阪定期演奏会
【日時】
2016年12月22日(木) 19:00開演
【会場】
フェスティバルホール(大阪)
【演奏】
指揮:マルクス・シュテンツ
ソプラノ:アガ・ミコライ
メゾ・ソプラノ:清水 華澄
テノール:デイヴィッド・バット・フィリップ
バス:妻屋 秀和
合唱:新国立劇場合唱団
(合唱指揮:三澤 洋史)
管弦楽:読売日本交響楽団
【プログラム】
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱付き」
もうすっかり年末になってしまった。
第九の季節である(日本では)。
平日の夜というのに(明日は休日ではあるが)、また天気は雨だというのに、広いフェスティバルホールの座席はかなり埋まっており、さすが日本の年末の第九人気はすごいものである。
来週もあちこちで第九が演奏されるが、私が聴きに行くのはおそらく今日が今年最後である。
さて演奏だが、前回の大阪定期である2016年6月のカンブルランのマーラー交響曲第5番のときとは、まるで違うオーケストラであるかのように全く異なる音づくりだった。
また、2016年9月に聴いた西本智実&大阪交響楽団の第九とも、まるで違う曲であるかのようにやはり全く異なる演奏だった。
全体的にゴツゴツした肌触りの演奏で、「洗練」を目指している様子はあまりなく、「質実剛健」という言葉の似合う演奏だった。
淡々としたテンポでずんずん進んでいき、ものものしい表情付けはしない。
フォルテ(強音)の部分では、しっかりとしたゴツいフォルテを出し(ティンパニも硬めの音でしっかりと鳴らさせていた)、いかにも「ドイツの職人」といったイメージがぴったり来る演奏である。
ただ、彼ならではの特徴的な表現も数多くみられ、例えばフォルテで奏している中、ふっとちからを抜いてピアノ(弱音)にしたのち、また徐々にクレッシェンド(徐々に大きく)してフォルテに戻っていく、という手法がかなり頻繁にみられた(例としては、第1楽章の再現部冒頭や、終楽章のオーケストラのみによるフガートの部分など)。
また、しばしばパウゼ(休止)をかなり長めに取るのも特徴的だった(第2楽章や終楽章など)。
これらの手法はときに効果的となりうるが、あまりに多用していると恣意的で気になってしまい(統一感があるともいえるが)、このあたりが、例えば同じくドイツ音楽を得意とする指揮者ブロムシュテット(先月にベートーヴェンの「運命」を聴いた)の、あくまで自然なスタイルとは違っているように感じた。
シュテンツの特徴的な表現が、曲のドラマティックな印象を高めるという面において、あまり効果的とはなっていない、というべきか。
これはこれで面白く、十分に楽しめたが、聴きながら私は、前述の西本智実の第九が懐かしくなってしまったのも確かであった。
あのときは、これ見よがしな表現がほとんどないにもかかわらず、曲が内包する劇的なナラティブが実に遺憾なく発揮されていた。
今日の演奏が16型の大編成だったのに対し、西本智実のときはもっと小編成だった(確か12型くらいだったのではなかろうか)にもかかわらず、よりドラマティックだったのである。
第1楽章展開部から再現部へとなだれ込んでいく部分の大きな迫力、終楽章で歓喜の歌が低弦によりかすかな音で奏される部分の、まるで遠い遠い遥か彼方から徐々に近づいて迫ってくるかのような印象的な表現、こういった一つ一つが未だに鮮明によみがえってくる。
この違いは、おそらくきわめて絶妙なテンポやデュナーミク(強弱)の設定によるものなのだろう。
また、あのときは第3楽章も本当に美しかった。
テンポが取り立てて遅いというわけでもなく、往年の巨匠たちの演奏に比べるとずっとさらっとしたテンポであるにもかかわらず、決してそっけなくならず、馥郁たる歌心は大変すばらしく、弦も管も驚くほど美しかったのをよく覚えている。
このときのオーケストラは大阪交響楽団だったが、この違いがオーケストラの違いによるものだとは、私には到底思えない。
指揮者によって、かくも違う演奏を聴かせてくれるからこそ、演奏会通いがやめられないのである。
なお、ソリスト4人の歌唱はまずまずのものだったように思う。
特に、バスの妻屋秀和の声はよく通り印象的だった。
しかし、一番感心したのは合唱である。
新国立劇場合唱団を聴くのは今回が初めてで、80人程度の人数で歌っているのだが(確か西本智実のときはもっともっと多かったように思う)、かなり強力な声であった。
歓喜の歌がこれほどパワフルに鳴り響くのを聴くのは、初めてである。
ただ、西本智実のときの合唱団だって、かなり力強い発声を心がけていたように感じたし、あのときはあのときで特に不満は感じなかった。
いずれにしても、関西にいながらにして新国立劇場合唱団を今回聴くことができたのは、幸いなことであった。
ところで、今回の演奏では、どの「版」の楽譜を用いたのだろうか。
第1楽章の第2主題のメロディは、「D」ではなく「B」の音程になっており、ブライトコプフ旧版かと思ったのだが、終楽章のオーケストラのみによるフガートの部分の末尾のホルンの付点音型は、ベーレンライター新校訂版のようにところどころ付点をタイでつないでいた。
基本的には後者に準じながら、好みに応じて部分的に前者をも採用したということかもしれない。
個人的には、せっかくベーレンライター版を用いるのであれば、第1楽章の第2主題の音程は「B」でなく「D」にしてほしいところである。
自筆譜、初版譜、およびプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世への献呈浄書譜、いずれにおいても「D」になっており、「B」への変更はおそらくブライトコプフ社の独断による改訂だからである(おそらく「修正」のつもりだったのだろうけれども)。
ここが「D」だと、メロディラインが少しいびつになり、聴いていて「おや」と感じるが、聴き慣れるとこれはこれでなかなか耳に心地良い。
まぁ、以上はこの大きな交響曲を聴くにあたって、ささいなことではある。