バンベルク交響楽団 京都公演 ブロムシュテット ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

第20回京都の秋 音楽祭

バンベルク交響楽団


【日時】

2016年11月5日(土) 16:00 開演 (15:15 開場)

 

【会場】

京都コンサートホール 大ホール


【演奏】

ヘルベルト・ブロムシュテット(指揮)

諏訪内晶子 (ヴァイオリン)

バンベルク交響楽団

 

【曲目】

ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61

ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 op.67「運命」

 

※アンコール

ソロ・アンコール

バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より 第3楽章 アンダンテ

オーケストラ・アンコール

ベートーヴェン:劇音楽「エグモント」op.84より 序曲

 

 

 

 

 

ブロムシュテットの指揮を実演で聴くのは、今回が初めてである。

何といっても今年で89歳!

いつまでも元気でいていただきたいが、とはいえ実演で聴くのはこれで最後になる可能性も覚悟しておかなければならない、と思いながら聴いた。

 

前半プログラムは、諏訪内晶子とのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。

諏訪内晶子の演奏は、伸びやかでとても美しく、この曲にぴったりだと感じた。

残念ながら第1楽章は聴けなかったのだが、第2、3楽章だけでも本当に美しく自然で素晴らしい演奏だった。

アンコールのバッハでは、さすがに五嶋みどりやイブラギモヴァほどの究極に突き詰めた表現は聴かれなかったけれども。

 

後半プログラムは、ベートーヴェンの「運命」。

これを聴いて、少し驚いた。

もっとドイツドイツした、重厚で巨匠的な演奏かと思いきや、意外にもすっきりとしていたのだ。

例えば、この曲には、激しく急速なパッセージの連続する合間に、フェルマータ(通常よりも音を長く伸ばす)などの長めの音がそこかしこに出てくる。

このような長めの音で、彼は強い音を強いまま保持することをしない。

音の出し始めには強いアクセントを置くが、伸ばすときにはむしろ、ノン・ヴィブラートですっきりと弱まり、収束していくのである。

まるで、近年主流のピリオド楽器(古楽器)奏法のようである。

テンポも、まるでピリオド楽器の団体のように軽快である。

ブロムシュテットは、より若い頃にシュターツカペレ・ドレスデンとこの曲を録音しているが、そこではもっとゆったりとした重厚なテンポを取っており、長めの音にもしっかりとヴィブラートをかけ強い音を保持していた。

しかし、よく考えてみると、この録音は1970年代後半になされたものである。

今聴くと十分に重厚な演奏だが、ベームやカラヤンの活躍していた当時としては、意外とすっきりした演奏だったのではないか。

この録音では、第3楽章のリピートを行っており、当時としてはこのリピートは珍しかったものと考えられる(この少し前の1968年のブーレーズの録音で初めて一般に認知されたものではなかろうか)。

なお、このリピートは、最新の楽譜校訂版であるベーレンライター新全集では原則なしになっているようである。

そして、今回の演奏会ではブロムシュテットはリピートを行っていない。

つまり、彼は新しい校訂譜に従ってリピートを取りやめたのではないだろうか。

少し枝葉末節と思われそうなことをつらつら書いてしまったが、私の言いたかったのは、ブロムシュテットという人はドイツ音楽の伝統の継承者のように私は考えていたし、一般的にもそう考えている人も多いだろうけれども、実は長い音の扱いといい、テンポといいリピートといい、常に研究に研究を重ね、自問自答しながら、あるべきベートーヴェン像を探求してきた、そして今も探求し続けている人なのではないか、ということなのである。

ただ単に、伝統をかたくなに守り続けているだけでは、このような演奏の変化は絶対に生じまい。

このような彼の厳しい探求心を垣間見たような気がして、私は胸が熱くなった。

しかし、彼の演奏にあるのは、それだけではない。

ピリオド楽器の団体による演奏と全く同じかというと、そうではないのである。

上記のようにすっきりとしたスタイルでありながらも、ベートーヴェンらしい力感にも欠けていないのだ。

それは、(比較して申し訳ないが)先日聴いた小林研一郎の同曲演奏のような、一種これ見よがしな大時代的演奏とは、また違う。

もっと自然で、聴いていてひっかかりがないにもかかわらず、とても迫力のある、充実したベートーヴェンになっているのだ。

この迫力は、特に第3楽章、そして第4楽章で、遺憾なく発揮された。

このきわめて充実したフォルテ(強音)やクレッシェンド(しだいに強く)は、ピリオド楽器の団体や、いつも聴いている日本のオーケストラからは、なかなか聴かれないものである。

これこそ、ドイツの伝統を思わせる音である。

飽くなき探求心による最先端の解釈と、長く受け継がれてきたドイツ音楽の伝統との、幸福な融合――これこそが、ブロムシュテットの巨匠たるゆえんなのではないかと、今回感じたのだった。

 

バンベルク交響楽団は、オーケストラのレベルとしては、日本のオーケストラ+α程度で、それほど大きくは変わらないように感じた。

管楽器のひっくり返り度合いも、似ている。

ただ、弦や管の音色に、まろやかな独特の風味を少し感じた。

また、あのような充実した和音を聴かせてくれたのも、ブロムシュテットの技であるとともに、彼らオーケストラ団員の実力の賜でもあるだろう。

 

アンコールの「エグモント」序曲も、「運命」と全く同様に至極充実した演奏だった。

ブロムシュテットは、東京ではベートーヴェンのほか、ブルックナーの交響曲第7番なども演奏し、大変な好評を博したという。

古典の作曲家ベートーヴェンでこのような伝統と革新の絶妙なバランスを聴かせてくれた彼が、爛熟した後期ロマン派の作曲家ブルックナーではいったいどのような演奏をするのか…。

興味はつきず、今後彼が少しでも長生きして元気にまたベートーヴェンやブルックナーを振りに来てくれることを切に願う。