モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団 大阪公演 西本智実 チャイコフスキー 交響曲第5番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

西本智実指揮 モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団


【日時】

2016/5/29[日] 14:00開演


【会場】

フェスティバルホール(大阪)


【出演】
指揮:西本智実
演奏:モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団


【プログラム】
ビゼー:カルメン組曲 第1番、第2番より

 前奏曲

 ハバネラ

 セギディーリャ
 第3幕への間奏曲

 アラゴネーズ(第4幕への間奏曲)

 闘牛士の歌

 ジプシーの踊り

スメタナ:モルダウ
チャイコフスキー:交響曲第5番


アンコール

チャイコフスキー:花のワルツ






この演奏会は、すごかった。

私は今まで、とてもたくさんとはいえないまでも、それなりに多くのコンサートに通ってきた。

しかし、少なくともこれまでに聴いたオーケストラの演奏会で、この日ほど感銘を受けたものはなかったと思う。

もちろん、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの演奏会もすごかった。

しかし、今回は指揮者の存在が大きいのだと思う。

西本智実の演奏会も何度か聴いている。

それらも本当に素晴らしかったが、「白鳥の湖」はバレエだから管弦楽以外の要素も大きいし、ベートーヴェンの交響曲第7番も本当に素晴らしかったが、小編成による室内オーケストラで、また趣が違っていた。

今回は、大オーケストラによる正攻法の演奏会である。

また、西本智実の得意曲というのも大きいかもしれない。

とにかく、私は圧倒的な感銘を受けてしまった。


前半は、カルメン組曲とモルダウ。

ダイナミズムといい、旋律の歌わせ方といい、変に縮こませることなく、のびのびと音楽を展開していく。

カルメンの有名な前奏曲では十分に音楽を盛り上げ、聴き手の期待に応えてくれるし、モルダウの有名なメロディーも悠然と歌い上げてくれる。

カルメンの第3幕への前奏曲(フルートとクラリネットのかけあいの美しい曲)、それからモルダウの水の妖精たちが舞う場面、こういったところも息をのむほど美しい。


ただ、圧倒的な感銘を受けたのはむしろ後半、チャイコフスキーの交響曲第5番であった。

このすごさを言葉で表現することは難しい。

冒頭の弱音部から、相当に重いテンポ。

これこそ運命の動機、かくあるべきという表現である。

そしてここでの細かなデュナーミクの変化、重いアクセント、そして低弦の重量感!

この冒頭の数小節を聴いただけでもう、完全に音楽に引き込まれてしまう、本当に感動してしまう。

ここからゆっくりと、しかし確実に音楽を盛り上げていく。

そして、フォルテ(強音)にいたるのだが、ここでの迫力、そして美しさ!

強音が、何とも美しいのである。

比較するのはとても恐縮なのだが、篠崎靖男の指揮で聴いたチャイコフスキー4番、またドミトリー・リスの指揮で聴いたチャイコフスキー6番、それ以外の演奏もだが、強音はどうしてもうるさいものになってしまう。

それが西本智実で聴くと、なぜここまで美しいのか。

弱音も強音も、そして弦も管も、すべてが美しい。

それでいて、音自体の美しさを保つために、控えめに鳴らされるといった感じは全くない。普段ならちょっと広すぎて、大オーケストラの演奏でさえ音が届きにくいと感じるフェスティバルホールでも、かつ2階席でも、十分に音が通って過不足なく聴こえた。

モンテカルロ・フィルの力量という面も大きいかもしれない。

この団体、私はあまり知らず、生演奏のみならず録音でも聴いたことがなかったのだが、今回聴いてみると明るく美しい音色で、それこそ地中海の海や日差しを思わせるようなところがある(私は地中海には行ったことがないのだが、イメージである)。

それに、確かに実力もありそうである。

ただ、私の印象では、やはり指揮者の影響が大きいのではないか。

というのも、西本智実がロイヤル・チェンバー・オーケストラを指揮した演奏会でも、同じことを感じたからである(室内オケではあるが)。

それに、音の美しさもさることながら、音楽づくりのすばらしさは明らかに西本智実の貢献が大きいだろう。

音楽のつくりが、実にドラマティックなのである。

絶望、憧れ、闘争、勝利といった物語に聴き手をどんどん引き込んでいく。

南欧の明るい音色をもつオーケストラから、その明るい美しさだけでなく、重苦しい音楽、すさまじい迫力を引き出してくるその手腕は、やはり西本智実ならではのものだろう。

弱音から強音に至るまで、すべてがドラマとして表現しつくされ、かつその音楽はとても自然で、人工臭を感じさせない。

これでもかというほどに大きな起伏があるのに、バランスが取れていて洗練されており、田舎臭くないのである。

これまた比較で申し訳ないのだが、例えばデュメイの指揮は起伏はあっても「濃ゆさ」を感じさせてしまう演奏であった(悪く言うと「ぼてっとした」感じ)。逆に、ウルバンスキや高関健の指揮は洗練されているが、何となくさらさら流れていってしまう感があった(デュナーミクの起伏自体はちゃんとあるのだが、淡々と流れるからか、ぶわーっとくる迫力には欠ける印象)。

このバランスがとても難しい。

その難しい域に、西本智実は達しているのではないかと思う。

こう書くと、「それではまるでフルトヴェングラーのようではないか」と思う人もいるかもしれない。

私は、西本智実がフルトヴェングラーだとはいわない。

フルトヴェングラーほどのすごみ、高みに達した人は、まだいないだろう。

ただ、意外に思う人も多いかもしれないが、この2人には共通するところが多いのも事実だと思う。

あの、和音の鳴らし方 ― トスカニーニ流の鋭い和音ではなく、たっぷりした時間を取った、かといって長すぎてだれることのない、エネルギーが凝集し発散するような充実した和音 ― もその一つである。

現代で、フルトヴェングラーに近い音楽性を持つ指揮者を挙げるよういわれたとしたら、私はティーレマンでもバレンボイムでもなく、迷わず西本智実を挙げる。


なお、余談だが、今回の演奏会で終楽章のコーダ前の小休止部分で、曲が終わったと勘違いした一部の観客により拍手が起こってしまったのだが、私はここでフルトヴェングラー/トリノRAI管弦楽団のライヴ録音を連想してしまった。ここでも同様の拍手が聴き取れる。

1952年のトリノと2016年の大阪、時代も場所もまったく異なるけれど、聴き手の状況としてはほとんど変わっていないのかもしれないなと思い、何となく感慨深かった。


ともあれ、演奏終了後の拍手はものすごかった。

大阪は西本智実の出身地ということも大きいかもしれないが、多くの人がスタンディングし、熱狂的な歓声、拍手を送っていた。

これほどの拍手はめったに体験できないと思う。

ハイティンク指揮、ロンドン響のブルックナー7番の演奏会のとき以来かもしれない(あのときも拍手は本当にすごかったし、前席ではほとんどの人がスタンディングしていた)。

そして、アンコールの花のワルツもすばらしかった。

特に、序奏でのハープのパッセージの扱いがすばらしく、ときおり入れるほのかなルバート(テンポの変化)が絶妙で、印象的だった。

これは西本智実による演奏指示なのではないか、と私は思っている。


本当に貴重な体験ができた演奏会であった。

私は、もしタイムスリップでフルトヴェングラーの演奏会が聴けるのであれば、金に糸目は付けないつもりだ、と常々考えているのだが、今回の演奏会では演奏の質といい観客の熱狂といい(共同体験、ともいうべきか)、それに近いものを体験できる大変貴重な機会だったのではないか、という気がする。

西本智実のブログによると、この日がツアー最後の日だったということもあってか、オーケストラのメンバーも涙しながら演奏していたという。

きっと、メンバーたちも無我夢中で、心からの演奏をしてくれていたのだと思う。

そういった点でも、フルトヴェングラーが指揮するときの、オーケストラの団員の陶酔を連想させずにはおかない。


追記:なお、チャイコフスキー5番の第3楽章の出だしは、西本智実のCDやDVDでは、無から少しずつ生成・昇華していくような、憧れを秘めたため息のような、絶妙なものであって、私にはまさにフルトヴェングラーのあの有名なブラームス4番の出だしを思わせるものであった。

しかし、今回の演奏では、よりさらっとしたインテンポの出だしになっていた。

これはこれでさわやかで美しいのだが、あのため息のような出だしも一度生で聴いてみたかった…。