さて、
今回は、鉱山調査や遺構の所在地調査、聞き取り調査以外の依頼で福岡県 宮若市の旧貝島炭鉱跡へ来ている。
現在もコロナが収束しておらず他の依頼等はほとんどが中止、延期となっている。
それ以外の依頼は詳細を公表していないので、
知らない方もおられるかなとおもいます。
実際にどんな依頼かと申しますと、
「元々、筑豊の炭鉱町で産まれて育った」
「先祖が坑主をしていた」
「先祖が筑豊の炭鉱で働いていた」
「筑豊の炭鉱町で商いをしていた」
との事で、
「自分の育った炭鉱町は現在どうなってるか」
「先祖の墓を探してほしい」
「先祖の足取りを知りたい」
「親族を探してほしい」
「先祖の商い場所を知りたい」
という依頼です。
今回は、山口様(仮名)の依頼。
祖父母が炭鉱町で、
お店をやっていたのですが幼い頃の薄い記憶でしか覚えていない。
その位置や現在どうなってるかを知りたいとの事でした。
このような形の依頼は、少なくはなく今まで何度か調査を行ってきました。
しかし、昨今 個人情報の保護の関係で役所はおろか住民の方々にも警戒が高くなっていて失敗に終わる依頼も多い。
困難なのは承知の上ですが依頼を受けたからには
できる限りの事はやらせていただきました。
そして、今回依頼者様から記事や動画にもして良いとの了解を得た為に今回更新させていただきます。
依頼者様からいただいた記憶のヒント、
1、祖父母がある業種の店舗を営んでいた。
2、東区の店と呼んでいた。
3、近くにボタ山。
4、油の浮いた池。
依頼者様の情報から鶴田ではなかろうかと頭に浮かんだ。
さあ、現地へ向かおう。
依頼者様の記憶を元にして旧貝島炭鉱跡地内にある東区という地区へ来た。
遠くには、削られたボタ山が見える。
目の前 1段下の住宅街が昔 東区と呼ばれていた旧炭鉱長屋が立ち並ぶ地区であった。
急坂を下りて住宅街を歩く。
入口付近から長屋や社宅等の建物が残っている。
というか、現在も誰かお住まいになっていた。
地区の端っこまで来た。
長屋がそのまま残っている。
嘗ては、棟割長屋が隣接して立ち並んでいたのだろう。
長屋の側面に周ると、土壁の竹小舞と間渡竹が剝き出しになっていた。
小舞と間渡とは土壁を塗る前に竹で編む下地の事である。
人が住まなくなった家屋は、痛みが早い。
年月の経過をこのような形で知る。
そして、以前炭鉱調査で聞き取りを行ったデータでわかっている事が幾つかあった。
東区に大きな空地が1つある。
ここは、炭鉱操業時に貝島直営の購買所があった場所になる。
以前聞き取り調査を行った際に個人店舗の話は出てこなかった…
もしかすると、昔の購買所というのは現在のスーパーのような形で購買所内で店舗を営んでいたのではないだろうか?
と頭の中で仮説を立てた。
色々な方向性を考えながら歩く。
ここにも長屋が残っている。
軒下に309と番号がふられていた。
ここが仮に末番だという事にしてもそんなに軒数があったという事である。
バス停がある現在も東西区と呼ばれているようで
どう読むのか?
トウザイク?ヒガシニシク?
昔は、この先に斜坑もあったはずである。
最後に1つ気になった事がある。
この坂というか地形は、昔と変わらない。
依頼者様がこの風景に見覚えがあるといいのだが
坂を下りた右側には共同浴場があってそこにも小さな店舗が数軒あったという証言も取れた。
詳しい風景等は、動画の方がわかりやすいかと思い、撮影した動画は編集してYou Tubeに更新しています。
後は、依頼者様が記事なり動画を見ていただき記憶を辿り ここだ!ここに間違いない!
と言っていただければと思います。
こちらの調査動画はこちら。
↓
鶴嘴屋は、歴史調査等を行い それを形にして後世に残したいと活動を行っております。
しかしながら、こういう形の個人依頼も受けております。
歴史も大切なものだと感じますが個人の思い出や先祖の生きた足跡なども大切に思っております。
依頼者様が懐かしんでいただければ幸いです。
調査は、無償です。
※調査は、お断りさせていただく場合があります。
(遠方や多忙時期)
調査結果が遅れる場合もありますご了承ください。(数ヶ月〜)