さて、
だいぶ遅くなりました。
色々な事情で京都府鉱山調査の動画編集を中断しておりました…
今回は、その続きとなります。
ここは、
京都府 与謝野町 旧大江山ニッケル鉱山跡地、
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20210828/14/gmgwwmd0/f0/df/j/o1080060714992994201.jpg?caw=800)
管理されているようだ。
車道から入れる整備された駐車場があり、そこを奥へ進んで行くとこのような3連で立つ煙突が見えてくる。
何か…
背の低い煙突だと感じる、
この鉱山は、
大正6年に発見。
昭和9年、
日本火工は地質調査を行い貧鉱であったが埋蔵量は取っても取り切れない程とある。
これも、太平洋戦争が迫りくる中で軍部は、鉱産物の不足を補う為に国産化を計画する。
日本火工は、当時の日本火薬工業、同社は海軍の火薬等を製造していたが軽合金や特殊鋼などの国産化目指していた会社である。
少し、無理のある計画とは感じるものの戦争となればこのような形になるのだろう。
もう1つ感じるのは、戦争開始前から軍部は鉱産物の不足を認識していたという事。
何も計画無しで戦争に邁進していった訳ではないようだ。
産出した鉱物にも少なからず問題はあったようで
鉱石含まれるニッケルは、0.4〜0.7%と低すぎた。
昭和13年、
ドイツのクルップ社から貧鉱処理に適した技術として(クルップレン法)が導入されることになった。
この方法では純粋のニッケルを製造することはできないが、フェロニッケルを粒鉄状にして回収することができた。
フェロニッケルは特殊鋼、ステンレス鋼などの製造には十分であり日本火工ではクルップ・レン法を採用してフェロニッケルの製造をめざすことにした。
しかし、精錬は石川県までトラックや貨車輸送で
七尾セメントまで運んだ。
そこで、ロータリーキルンで工業試験を行う。
昭和15年3月、
遂にルッペ精錬に成功し本格的な製造を開始。
この結果に基づき、
政府と陸軍の援助を受け大江山鉱山から11キロしか離れていない与謝郡 吉津村に専用のニッケル製錬施設、岩滝製錬所を建設することになった。
昭和20年、
終戦に伴い、大江山鉱山は閉山。
岩滝精錬所もルッペの生産を停止した。
昭和27年、
大江山精錬所の再開が計画された。
ニューカレドニアから鉱石を輸入し、精錬だけを行う計画である。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20210828/14/gmgwwmd0/7f/b1/j/o1080060714992994242.jpg?caw=800)
この旧大江山鉱山は、整備されているものの残る遺構は少なく、この大雨と体調不良が理由でトロッコ線跡にまでは行けなかった。
最後に煙突の脇にあると聞いた慰霊碑。
御参りも兼ねて見学させていただきます。
軍の名前が出る鉱山は、高確率でこのような問題がある。
この鉱山では多くが出征し人手が足りなくなると学生、囚人が大量に投入される。
さらに太平洋戦争の勃発にともなって香港、マレー半島、シンガポール、フィリピンなどで日本軍が集めた多数の連合軍捕虜が現場に投入された。
近くには監視人がおり見つかると叩くや殴る、蹴るなどの暴力を振ったりしたという。
その中にも食べ物をお楚々分けした監視人もいたという。
その名が慰霊塔に書かれている。
このような歴史を読むと日本人全てがそうであったのか?
といつも落胆してしまうがこのような記録かあれば安堵を覚える。
旧大江山ニッケル鉱山の動画はこちら。
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