京都府 旧河守鉱山 | 鶴嘴さんのブログ

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全国の旧鉱山や旧炭鉱の調査を行っております。

おはようございますツルハシです。

間があきましたが今回も京都府の旧鉱山調査の記事になります。

さて、
続いて訪れたのは、京都府 福知山市 大江山。

ここは、旧河守鉱山跡。

現在は、鬼の里に変わり大江山グリーンロッジという施設となっている。

ここは、昔酒呑童子の根城と言われていた山。
酒呑童子の目に余る悪行に995年(長徳年間)平安時代 源頼光四天王が酒呑童子討伐に向かう。

その時に神からもらった神便鬼毒酒という毒酒を酒呑童子に飲ませ動かなくなったところを討伐したという。

酒が好きなところから酒呑童子という名前がついたとか酒天童子や朱点童子などの別名がある。

この酒呑童子討伐の記事で一番目に入ったものがあった。

酒呑童子とは何か?
それは、山の民であり産鉄民ではなかろうか?
武器や工具、様々な物に使用される鉄を管理下に置きたいという理由から鬼を討伐するという名目で入山したのではないか?
一説には頼光の父 満仲氏が多田銀山開発に関わっていたとも書いている。

鬼がこの世に居ない物だとすれば、何処からこの話が出たのかを考えれば興味深い。

「鬼に横道はなきものを」

酒呑童子最期の言葉であるが意味をしれば知る程深く謎めいた伝説である。

さて、長話は置いておこう。

河守鉱山調査の話しへ戻る。

標高 約600mといったところだろうか車から降りれば肌寒いというか寒い高さまで来た。

そこには、コンクリート製の基礎が多く残る。

その中で一際 目に入った大きな基礎この位置は、
竪坑櫓の位置だろうか?

建物の外壁の基礎も残り竪坑櫓後方の建物の可能性もある。

久しぶりに昭和40年代の航空写真で見てみよう。

ざっとテキストを打込んだ配置図である。

選鉱所の左側(西側)に影の長い建物が見える。

これが、竪坑櫓だろう。

丁度この位置の遺構なので竪坑もしくはその周辺関連の遺構と思われる。

最初は、
選鉱所の建物と建物の間に確認できるインクラインの巻上機建屋の遺構かと思ったが(赤線)
その建屋は、竪坑櫓から少し右側に写っている。
(赤線の延長線上)

次に河守本坑が残るとされる所まで下りてきました。

見上げると崩落防止処置がされたズリ山が残る。

ズリ山を横目に川の付近を歩いて行くと…

これは、立派な坑口だ。

坑口のサイズに限らず重厚感のある坑門である。

このサイドには、事務所や脱衣所、鉄工所等の施設があったと聞く。

その他、本坑や竪坑以外にも向山坑、南向坑、等々の坑口があったとされる。

その中で頼光や酒呑童子等の坑名があったとされるが頼光𨫤という鉱脈の名前であった。

さて、本坑の奥に大きな駐車場がある。

その一番奥にコンクリート製の遺構が残る。

これは、乾燥施設の遺構。

泥状になった鉱物を乾燥させトラックに積込んでいたという。

昭和40年代の航空写真にも施設が写っている。

本坑付近には、様々な鉱山施設が設置されていたようだ。

続いては、鉱山で働く人々の生活の場であった場所に下る。

写真のような拓けた場所、石垣などが目立つ。

ここには、鉱山の売店や診療所、風呂屋、散髪屋などが軒を並べていたという。

鉱山操業時には、どのように賑わい人々の声が響いていただろうか?

その向かい側には、人々の娯楽の中心であったと思われる映画館の建物が残っていた。

建物の規模から この鉱山がいかに栄えていたかが
伺える。

さて、最後にひたすら探し歩いた選鉱所。

必ず選鉱所までの道が残ると信じて歩いた。

しかし、川と草木に阻まれ選鉱所までは行けなかった。

目視では、草木の間から選鉱所が確認できるが、
カメラでは、捉える事は不可能であった。

これは、ドローンの出番だと考え飛ばしたが…

やはり、草木の繁茂に阻まれた。

隙間から覗く選鉱所の遺構だが広範囲で巨大な物だとは、一目瞭然だった。

少しながらのものであったが その姿を確認できて
良かったと思う。

さて、次は何処の鉱山跡へ行こうか…


旧河守鉱山詳細、
明治40年頃、
広島県の人某が作業員約10人ばかりを投入して金山開発を試みたが成功せず

大正6年(1917)、
千丈ヶ原に発電用ダム建設が行われたとき鉱脈の露頭が発見されたという。

同年、
大江山鉱山として採掘がはじまる。

昭和3年、
日本鉱業の経営になる。
その後、の大不況で一時休山。

昭和8年、
操業再開。

その後 着々と業績を伸ばし日本鉱業傘下の有力鉱山となる。

鉱山人口は1,000人ともいわれた。

昭和44年、
休山となる。

昭和48年、
閉山。


旧河守鉱山調査の動画はこちら。
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