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本当は凄い普通の人に贈る言葉

「普通の人の本当は凄いを発掘する」をテーマに、日々情報発信をしていきます。


心理学を学んだ人なら
誰でも知っている
「ジョハリの窓」というのがある。


人には誰でも
「自分も他人も知っている」
「自分は知っているが他人は知らない」
「他人は知っているが自分は知らない」
「自分も他人も知らない」
4つの領域があるという学説だ。


自己理解・自己分析は、
後の2つを確認する作業でもある。


他人が知っていて自分が知らない領域は
虚心で人に尋ねればわかることだが、


自分も他人も知らない領域を知るには
ちょっとした工夫と努力が必要だ。


最も簡単確実なのは
その道の専門家(カウンセラー)を訪れ
相談することである。


しかしそこまでしなくても
一般の人どうしでもそれを確かめる
方法がある。


その一つは「金の糸」と呼ばれる
自己探索のゲームツールがある。


これは4~5人のグループで
すごろく形式で自分の思いを語るゲームだ。


サイコロを振り、
すごろく盤で止まった所の指示に従い
自分の思いを語る、
ただそれだけのことだが、


その設問内容や配置は
実によく出来ている。


幼少期から大学卒業くらいまでの
年代順になっていて、
例えば「小学校時代に読んで
一番記憶に残っている本は?」
などの項目について参加者に語っていく。


それを続けているうちに
自分がどういうことを大切にしていて
どんな人間性の持ち主なのか
解明されていく仕組みになっている。


実際にやってみると
今自分がやっていること
これからやろうとしていることについて
なぜそうしようと思ったのか
今の生き方をどうして選択したのか
明らかになっていく。


そこには意外な発見がある。


自分の場合、
幼少期から思春期にかけて
原因不明の病気で声がほとんど出せず、


ある時その症状が劇的に解消され、
その時の体験が今のコミュニケーションの
あり方に強い影響を及ぼしている。


人に関わる仕事をしたいという思いの
ルーツをそこに見出した。


自分を知ることはいいことばかりでなく、
怖いことでもあるが、


己を知ることによって
自分の進むべき道がわかることは
快感でもある。




「あなたの欠点や短所は
何だと思いますか?」というよくある質問、
これになんと答えるか。


どう答えるかの前に
この質問の意図とは何だろうか。


一般的にはこの種の質問は
「自己把握が出来ているか」を
問うているということは言えるだろう。


でもそんなことよりも
もっと重要なことがあると思う。


それは自分の欠点に対する
自分の感じ方、思いである。


たとえば
「思い立っても腰が重く
すぐに行動に移せない」
ことが欠点だと思っているとする。


そのような欠点はよく言われるように
捉え方によっては
「行動が慎重で、付和雷同しない」
という美点かもしれない。


でも本人がそう思っているかどうかは
本人がどう感じているかによる。


欠点にかぎらず長所も実績も
重要なことは本人の捉え方である。


つまり、聞きたいのは
欠点がどんなことかということよりも
そのことについて本人が
「ポジティブな思考ができるか」
ということである。


その意味では法に触れるような
ことでもないかぎり、
どんなことが欠点であってもよいわけだ。


自分の欠点は
「粘りが無く諦めが早いこと」
だと思っているが、


その欠点も
「執着が少なくさっぱりとした性格」
だと思うことにしている。




出場を決めたリオ五輪の
サッカー代表にオーバーエイジ枠を
使うかどうかが話題になっている。


オーバーエイジ枠とは、
通常サッカーの五輪代表は
開催時点で23歳以下(U23)が要件だが、


競技を面白くするためか
各チームに3人だけそれ以上の年齢
の選手を入れていいことになっている。


大方の意見は、
勝ちにこだわるなら
オーバーエイジの選手を入れるべき
というものだ。


だが、この意見に対し
中村俊輔選手は異を唱えている。


いわく、将来を見据えるなら
23歳以下の選手だけで構成し、
国際経験を積ませるべきである
と。


自分はこの意見に全面的に
賛成だ。


オーバーエイジを枠いっぱいの3名
選んでしまうと
オリンピックのベンチ入り可能人数は
18人だから、結局U23の選手は15人
ということになる。


ポジションのこともあるから
これは相当狭き門である。


一般の職場でも若手を育てる唯一の方法は、
勇気を持ってチャンスを与え、
使い続けることしかないと言われる。


よくベテランを押しのけられない
若手が情けないと言われるが、
それは違う。


チャンスが人を育てるのであり、
その逆ではない。


ある段階までは成長の機会を
意図的に与える必要があるのだ。


そりゃベテランを使った方が
勝つ確率はアップするだろうが、
目先の勝利にこだわっていては
いつまでも人が育たない。




いよいよ17年春新卒の就職活動が
スタートする。


エントリーから始まって
最後には採用面接が待ち受けている。


大変な緊張とともに
その日その時を迎える人は多いと思う。


しかし考えてみれば
この採用面接の機会というのは
採用側、採用を希望している側、
イーブンの関係だと思うのだ。


企業経営にとって「採用」というのは
きわめてリスクの大きな行動である。


人は機械や設備とは違い、
ひとたび雇用するとなれば
雇用側が簡単な理由で契約解除することは
法的にも道義的にも出来ない。


だから採用する側だって慎重だし、
緊張しているのだ。


それに前にも書いたように
面接というのはお互いの相性を
確認する場でもある。


その意味で入学試験などとは
全く異なるものだ。


中途採用とは異なり、
新卒にスキルを求めてもそんなものが
無いことは最初からわかっている。


そして面接の場にいるということは
意欲があるということも大前提で
織り込み済みだ。


それより、この人を仲間に入れて
お互いにうまくやっていけるかな
ということを見ている。


そして採用を希望する側も
それは全く同じ。


この会社に就職して
自分は本当にいいのか
確認する場でもある。


そんなふうに心がければ
採用面接はちょっと違ったものになる。




入試期間の真っ最中である。


就活も事実上スタートしている。


若い人たちにとっては
人生での大きな岐路に立たされている
と感じている人も多いだろう。


自分にとってはもう遠い昔となったが、
もしあの時別の道を歩んでいたら
どうなっていただろうと思うことはある。


人生に「もし」は無いので、
すべては頭の中の遊びに過ぎないが、
今の人生を見つめ直すために
考えてみる価値はあるかもしれない。


もし就職でその後数十年勤める会社に
入社していなかったら
どんな人生だったのだろう。


考えられることは二つだ。


一つは全く違う人生を歩み、
今とは違った人格、社会的状況
になっていたということ。


もう一つは、入り口は異なっても
結局今と似たようなところにたどり
着いていること。


自分はどちらかというと
後者を信じる方である。


人生は偶然の連続で
成り立っていることは認めるが、
ただ自分自身のデフォルトは
あまり状況に左右されない
のではないかと思う。


一卵性双生児の研究で
面白い報告結果がある。


幼い時にある理由から
生き別れになった双子の兄弟が、
大人になってから偶然出会った。


その時驚くべきことに
二人は同じような服装をし、
同じ腕時計をはめ、
同じ車種の車に乗っていたという。


別々の人生を歩んだにも関わらず
そんなことが起きた。


一卵性双生児は、
遺伝子的には全く同一なので
いわばデフォルトは同じである。


となればデフォルトが同じであると
途中で別々の人生を歩んだとしても
行き着く先に大差は無かった
ということになる。


だから仮説として人生の岐路で
違う道に進んだとしても
ゴールでは大差がないともいえる
のではあるまいか。


眼の前の岐路や試練は
もちろん大切なことではあるが、


それ以上に重要なことは
デフォルトとしての自分ではないか。


結局のところ
人は現状に不満を持ったとしても
選ぶべき道を選び
進むべき道を進むように
出来ているのではないか。


眼の前の転換点で起きたことは
それがどんな結果であったとしても
それが自分やその人の人生にとって
必要だから起きたと考えたい。




営業マンは社交的で話し上手な人が
向いていると思われがちだが
実はそうではない。


非営業部門の人が営業に配転になる
と聞いた時まず感じるのは、
「自分は口下手なので営業には
向いていない」ということが多いという。


自分はキャリアの中で営業の経験も長いが、
優れた営業マンはむしろ口数が少なく、
聴き上手であることが多かった。


相手(顧客)の話にじっと耳を傾け、
短い返し言葉で顧客自身も気づいていない
感情やニーズ、困り事を顧客の口から引き出す。


この顧客の口からというのが大切で、
人は人に言われたことには従いたくないが、
自分自身が発した言葉には素直に従う。


その意味で、
営業とは顧客にへつらう仕事ではなく、
顧客の心理、真意を吸い上げ、
それを形にする仕事なのである。


それが実践できる人は
どのような経歴の人でも
すぐれた営業マンの資質があるといえる。




最近の近所のスーパーで感じたこと。


所定の場所に戻すのが面倒なので
駐車場に置き去りにされているカート。


いったんカゴに入れたが、
売り場に戻しに行くのが面倒になり
レジ横に放置された要冷蔵商品。


なんか日本人も劣化してきたなあ
という感じがする。


「自分ひとりくらい」「面倒だから」
という理由なのだろうが、


社会の健全性はこんなところから
崩れていく。


法律や既定のルールは
いわば最低限のセーフティネットで、
それさえ守っていればいい
ということで社会は回らない。


これを自分がしたら
誰かが迷惑する、誰かの手を煩わせる、
だからルールに明記されていなくても
自分はきちんとやろう、
そういう思いが集まって社会は成り立つ。


そもそも駐車場にカートを置き去りにするな
というのは明記されているし、
現実にカートと車の接触トラブルは
頻発している。


レジ横に置き去りにされた生ガキは、
結局本来の売り場に戻されることなく
処分された。


健全な社会は多くの人が
「これをやらないと誰かが困る。
だから誰かが見ていなくても自分はやる。」
ということで出来ている。




もう一昨年のことになるが、
「半沢直樹」というテレビドラマが
大ヒットした。


そこではエリート銀行員である主人公が
組織内の不正と戦う姿を描かれていた。


彼は戦いながらも自身が
所属している銀行とそこでの仕事を
愛しているという設定だ。


しかし、あのドラマ、日本人以外には
なかなか共感されないらしい。


そもそも「愛社精神」なる概念は
日本人独特のもので、


外国人には、物理的な実体も
人格もない単なる約束事である
「会社」なんぞを愛するなんて
全く理解できないということらしい。


かつての右肩上がりの時代には
会社と自分を一体化させ、
すべての価値の実現は「会社を愛する」
ことにあると信じられてきた。


自分の周りにもそのような信仰を
持った人たちがたくさんいた。


しかし「愛する」会社への思いが強すぎると
6000億円の赤字を出した東芝のように


法に反する不正会計も
「会社を守るため」として正当化
されてしまう。


その最たる事例は戦前の「皇国日本」で、
間違った道に進んでいると思っている人々も


「これが日本のためになるのだ」
と自分を納得させクライシスに
突き進んでしまった。


日本人もそろそろ会社とは
よく出来た虚構であることに
気づくべきである。




受験シーズン真っ只中だ。


そして17年新卒の就活も
経団連の協定に関係なくもうスタートしている。


受験も就活も結果が出るという点では同じだが、
不合格と不採用は全く別のことである。


不合格というのは判定側が求める
あるレベルや領域に達していない
という判定結果だが、


不採用は、求めている社員像に
フィットしないという判断結果である。


つまり就職で内定を出すか出さないかは、
能力や人物の評価ではなく、
自社に適した人かどうか、
求めているタイプかどうか、
その一点に拠っている。


だからよく言われるように
就職は「お見合いみたいなもの」
というのはきわめて正しい比喩だと思う。


婚活ならどんなに相手のスタイルがよく、
高学歴、高収入であっても
好きになれない相手だったら
結婚しないだろう。(財産目当ては別として)


だから試験の不合格には落胆してもいいが
就職の不採用に落胆してはならない。


むしろ自社にフィットしないと判断しているのに
採用通知を出されたとしたら、
それはそれで困ることになる。


入社してからお互いに不幸になるからだ。


むしろ潔く不採用の結果を出してくれたことに
感謝すべきである。


また就活側も会社訪問や面接の場で
自分には合っていないと思った時は
無理をして入社しない決断も必要だ。


無理をして入社してもし懸念していた通りだったら
わからないで入社したときより
後悔は大きくなる。


その意味で就活というのは
採用側と被採用側ともイーブンの関係
なのである。




きょうは節分。


鬼は実在しなくても
心の中に鬼は入り込む。


昨晩の衝撃的な
「清原元選手逮捕」のニュース。


清原元選手は、
よく知る人に言わせると
豪快な印象とは裏腹に
繊細で気持ちの弱いところがあるという。


ドラフト会議で意中の球団に入れなかった時、
その球団に移籍して優勝した時、
デッドボールを受けた時の相手投手への恫喝、
現役引退後の立ち居振る舞い、
DVが大きな要因となった離婚、
どれもそれを想像させることだった。


真相はわからないが、
自身と世間が作り上げた虚像と
本当の自分とのギャップが埋めきれず
たぶん心が優しいだけに悩んでいたのだろう。


このような心の空虚、孤独に
覚せい剤という鬼が入り込んだ。


なんでクスリなんかに手を出したんだ
というのはたやすい。


しかし、心の闇を埋めたい時、
福の神ではなく鬼が入り込んでくることは
誰にでも起こり得ることだ。


清原元選手にとって
心に棲む鬼を追い払う節分は
いつやってくるのだろうか。