One Size Fits All  思考録

One Size Fits All  思考録

人生の様々な問題について、一切の思い込みを抜きに感じたことを考えて、本当のことはわからないとわかった上でさらに感じ考える…「本当はどうなんだ!」を追求する究極の思考

時代・場所・人間を問わず、自分が生まれて生きて死んでゆくという常識に変わりはない。人生のあらゆる問題について、一切の思い込みを抜きにして、自分で感じたこと(感性)を自分で考え(理性)、本当のことはわからないとわかった上で(無知の知)、さらに感じ考え続ける。哲学・宗教・科学・・・既存の枠に捉われず全てを包括し、ただひたすら「本当のところは何なのか!」を追求してゆく・・・究極の思考プロセスの確立を目指します。

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テーマには「思考・時事・音楽・書籍」とありますが、具体的内容は以下の通りです。

「思考」:様々な問題について体系的に思考プロセスをまとめた”考える教科書”のようなもの。

「時事・音楽・書籍」:時事ネタ、好きな音楽、読み応えある書籍について、自由に考えたもの。

「思考」はテーマを決めて演繹的に、「時事・音楽・書籍」は現象から入り帰納的に、述べています。

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青年 (新潮文庫)/森 鴎外
¥460
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青年・小泉純一は作家を志して上京し、医大生・大村と活発な議論をする一方で、坂井未亡人とも関係を持つ。彼女を追ってきた箱根で、彼女が肉の塊に過ぎないと感じた時、何かが書けそうな気がした。そんな青春の出来事を通じて、一人の青年が成長していく姿が描かれている。

解説によると、この手の小説を「教養小説」「発展小説」と言うらしい。何も知らない青年が、精神的・肉体的・世間的・人間的に一人前に成長していく過程を描くものとのこと。

こう言う内容は、得てして通俗道徳めいた話になりがちで面白くない。実際本作品を読んでみても、全体としては「だから何なんだ」という感想しか出てこない。

その中で部分的に何箇所か頷ける所はあった。例えば、大村と会話をする中で純一が思ったのが、以下の内容である。

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芸術家には先ずこの争う心が少い。自分の遣っている芸術の上でからが、縦え形式の所謂競争には加わっていても、制作をする時はそれを忘れている位である。(途中略)要するに芸術家らしい芸術家は、恐らくはsportに熱中することがむずかしかろうと云うのである。

純一は思い当る所があるらしく、こう云った。「僕は芸術家がる訳ではないのですが、どうも勝負事には熱心になれませんね」

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今までの記事でも述べてきているが、芸術家は、「その芸術」に関する天才と、「その芸術に関する天才が自分にあることに気付いてしまえること」に関する天才の、2つの天才が備わった人種である。その天才は天賦の才であるがゆえに、関心の的は「天」にしかなく、他の「人間」より抜きん出ようなどということはどうでもよい。

この世で人間として生きている以上、何とか賞だのコンテストだの個展だのといった「形式」においては、結果的に競い合うことにはなろう。しかし制作に没頭している時は他人との勝負など眼中にないはずである。

人間は人間を相手にする時は、人間と言う点で対等ゆえ素直に評価できないことがある。しかし人間を越えた存在を相手にする時、もはや素直に脱帽するしかない。本物の天才の作品が感動を与えるのはその故である。

といったことを考えさせてくれる所が部分的にはあるのが、本作品である。

ヰタ・セクスアリス (新潮文庫)/森 鴎外
¥300
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哲学講師の金井湛は以前から人の書かないことを書こうと思っていたが、ある日自分の性欲の歴史を書こうと思い立ち、過去を振り返りながら書いていった。「性」を科学者的な冷静さで淡々と描いている自伝的小説。

内容自体は大して面白くない。強いて言えば、このテーマを書くに際し主人公を「哲学」者に据えている点が興味深いくらいである。

雁 (新潮文庫)/森 鴎外
¥340
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お玉は父を含む家計を助けるために、高利貸しの末造の妾となった。最初はその生活に甘んじていたが、徐々に自我が芽生え始め、大学生の岡田に思いを募らせるようになる。しかし様々な偶然が重なり、結局二人は結ばれずに終わる。という話が、岡田の友人の「僕」の回想を通じて描かれている。
ストーリーと内面の変化は面白いが、それ以上に特に感じるところはない。

死霊(1) (講談社文芸文庫)/埴谷 雄高
¥1,470
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本書は埴谷雄高の長編小説であり、文庫版では3冊からなる(1冊当たり約400ページ)。いつもならばまずあらすじを書くところだが、この作品についてはそれは本質的な問題ではないと思うので省略する。なお参考としては以下をご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E9%9D%88


なぜあらすじが本質的な問題ではないかというと、これがストーリーに意味のあるよくある小説と違って、そこで語られる「存在に関する思考」が問題だからである。

そして感想について結論から言うと、「面白い!」「同じことを考えている人がいる!」である。


例えば、太宰治の「人間失格」と比較してみるとわかりやすい。「人間失格」は自分が生まれた「後」の人生において、様々な問題に直面し、「生き方」に苦悩して、時に自殺で解決を図ろうとする姿が描かれている。その苦悩ぶりが半端ではないので、衝撃が大きく人によっては熱烈な共感を持つのだろう。

しかし本書の場合は、人間が生まれる「前」までひっくるめて、そもそもの「存在のあり方」を徹底的に思考して、わかりやすいお決まりの答え(自殺も含めて)など出さない。「人間失格」とは思考の次元と広さと深さが全く異なるのである。

ゆえに、10人中9人には共感どころか理解すらされないはずである。しかし世の中には必ず1人は理解し共感できる人間がいるはずである。誤解のないように言っておくと、別にどちらが上とか下とかではない。多分に気質の違いである。


読みながら「わかる」と思える部分は多々あるが、1つ例を挙げると以下である。

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何ものも有らぬ。有るにしても、何ものも知り得ない。たとい知り得るにしても、それを何人も他の人に明らかにすることは出来ないであろう。それは事物が言葉ではないためであり、また何人にも他の人と同一のものを心に考えぬからである。

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いつもこのブログで書いているが、例えば「死」について。

死はそもそも存在するのかと言われればそもそも存在しない。存在するならば目に見え手に触れられるはずだが、死そのものは目に見えず触れることはできないからである。

にもかかわらず人間は、他人の死体を見て自分の死が存在すると思い込み恐れてしまう。しかし、ではその恐怖から逃れるために、死とは何なのかと考えてみても、この世で人間として生きている限り、どこまでいっても本当の所はわからないとわかる。

そしてかろうじてわからないとわかったとしても、それは自分がそうわかっただけであり、他人に言ってわからせることができるとは限らない。

死は有らぬ。有るにしても知り得ない。知り得るにしても他人には教えられない。死が存在しない以上言葉では表現できないものであり、また人によって考え方や能力が異なるからである。


作者はカント(哲学者)とドストエフスキー(文学者)に影響を受けて創作活動をしていたようである。その究極の形が「死霊」だったようであり、その意味ではまさに「哲学と文学の融合」である。

「人間失格」と「死霊」のいずれにシンパシーを感じるかで、形而下的タイプか形而上的タイプかに分かれるのだろう。


ちなみに以前紹介した以下の作品は、池田晶子氏と作者が「死霊」を含め存在について対話した内容が書かれている。「死霊」そのものを読んだ上で再度読み直すと、面白みが増してくる。

オン!/池田 晶子
¥1,890
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人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))/太宰 治
¥300
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1.作品

後期に書かれた長編。書かれた時期は自殺直前だが、内容は前期終わり頃の体験が基になっている。

パピナール中毒にかかり、注射代欲しさに借金や不義理を重ね、心配した友人らにより強引に精神病院に入院させられ、その間妻が密通していたことにショックを受ける。もう何も信じられなくなり、かつ自身も人間の資格を剥奪されたと思った。そんな自暴自棄の様子がベースとなって、以下の物語が書かれている。

(あらすじ)

葉蔵は幼少期から、世間の人々が本心では何を考えているのかわからない、ひょっとしたら自分だけが違うことを考えているのではないかという不安に駆られていた。そんな違和感に基づく恐怖から逃れるために、本心を隠し道化を演じてきた。それを竹一に見破られるが、自画像を描き本心に目覚め、画家を目指すことにした。

父の「帝大卒の官吏になれ」との命令に逆らえず上京したものの、本心を捨て切れず内密に画塾に通った。そこで堀木に出会い、酒、煙草、淫売婦、非合法運動と自堕落な生活に陥り、生家からの仕送りも制限され、カフェの女給ツネ子と鎌倉で入水自殺を図ったが、自分だけ生き残ったことに罪悪感を覚えた。

その後女性遍歴を経て、自分を無条件に信頼してくれるヨシ子と結ばれ、漫画家として生計を立てながら、ようやく幸福を手にできたかに見えた。しかし人を疑うことを知らないがゆえにヨシ子が犯されたことを知り、「無垢の信頼は罪なのか」と懊悩するのだった。

自暴自棄になり酒におぼれ、喀血になって薬物中毒となり、心配した堀木らによって脳病院に入院させられた。罪人どころか狂人になった葉蔵は、我が身を振り返り「無抵抗は罪なのか」と神に問うのだった。

その後長年の重荷だった父が死に、故郷の村外れで老女中と療養生活を送ることになった。阿鼻叫喚の人間世界の中で唯一真理らしく思われたのは、「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ一さいは過ぎて行きます。」


2.思考

言うまでもなく葉蔵は作者自身を指すと思われる。結局葉蔵の人生の根本にあったのは、以下のことではないか。

・他人が本心では何を考えているかわからないから、不安と恐怖にさいなまれる

・そんな他人と自分では考えていることが多分違っており、しかも自分の方が少数派だろうから、やはり不安だ

・そして本心を打ち明けると嫌われる恐れがあり、それは嫌だ

・ゆえに本心を隠して他人に好かれることで、そうした不安と恐怖から逃れようとする

即ち道化を演じることで、傷つくことを避け続けてきた人生だったのではないか。しかし道化を演じれば演じるほど、結局他人を傷つけ、何より自分自身を最も傷つけてしまうことになった。残念な逆説である。


そもそも他人が本心では何を考えているかなど誰にもわかるわけがない。その「わかるわけがない」ことがわかっていれば(無知の知)、そういうものなのだと事実認識するだけで済み、それ以上悩む事もない。しかし葉蔵のように「わかるわけがない」ことがわからないままだと(無知の無知)、不安にさいなまれて苦悩してしまうのである。

また多くの人が疑問を持たないことに疑問を持つ少数派は、葉蔵のみならずいつの世にもどこにでもいる。たしかに少数派であると、「本当に自分が正しいのだろうか」という不安がよぎることはある。それに耐えられるかは、或る意味理屈ではない。哲学者と言われる人たちはおそらく耐えられるタイプである。しかし葉蔵は耐えられないタイプだったのだろう。敏感な感性は持っていても、頑強な理性と鋭利な知性は持ち合わせていなかったのではないか。

さらに神経のずぶとさがあれば、人から好かれようが嫌われようがどうでもよいと思えるはずである。必要以上に本心を打ち明けることはなく普通に暮らしていけばよい。しかし本心を言わざるを得ず結果として嫌われることもあるだろう。それはそれでいいではないか。全員に好かれることなど無理である。しかし逆に言えば全員に嫌われることも無理である。「来るもの拒まず、去る者追わず」それで何の不自由があろうか。


結局葉蔵は、感受性は豊かだったが理性(思考力)に乏しかったのではないか。文学者は狂人から廃人となり自殺することもあるが、哲学者はどこまでも常識人であり自殺したくても「できない」。

それでも最後に辿りついた心境、「いまは自分には幸福も不幸もありません。ただ一さいが過ぎて行きます」。これは不思議と哲学的ではある。幸福も不幸も人間の勝手な思い込みにすぎず、そんなものは最初から存在しない。すべては事実が事実のまま過ぎていくだけである。そんな淡々とした境地になれることこそが、実は幸福なのである。しかしその幸福を手に入れるには、世間的な代償はとてつもなく大きいのだが…

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)/太宰 治
¥380
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1.作品

(3)後期(1946(昭和21)年・37歳~1948(昭和23)年・39歳)

作者は中期において、小市民として安定した生活を維持しながら、職業作家として創作活動を続けてきた。その結果今までの記事で紹介してきたように、数多くの作品を残してきた。

そして戦争も遂に終わり、古き悪しき日本も新たに生まれ変わることを夢想し、真の人間革命によるユートピアが実現されることを願った。しかし現実には、日本人のエゴイズムや偽善は戦前戦中と本質的に変わらないとわかり失望した。

そこで前期同様再び不安定な状態に入る。自分の中のエゴイズムや偽善を否定した上で、世間のそれらを否定しようとした。その過程で、「斜陽」「人間失格」などの代表作を残し、「グッドバイ」未完のまま自殺を遂げてしまった。

戦争中も頑張って創作活動を続けてきたのに、敗戦によっても世間は何も変わらないと知り、自己と世間に対する破滅願望が再び頭をもたげてきてしまったのではないか


本書には短編8作品が収録されており、そんな後期に書かれた作品集である。


2.思考

表題の「ヴィヨンの妻」等が有名だが、個人的には「トカトントン」が印象に残った。

前向きに何かを頑張ってしようとすると、決まって聴こえてくる「トカトントン」という音。実際には海岸の納屋で釘打つ音なのだが、やがて幻聴のように聴こえてくるようになる。無心にマラソンやキャッチボールをしたり、新憲法を一条一条熟読しようとしたり、相談に対する名案が浮かんだり、何をする時にも聴こえてくる。

これに対する某作家の答えは、「身を殺して霊魂を殺し得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」。このイエスの言に霹靂を感じる事ができたら、幻聴は止むはずだとのこと。


イエスの言は興味深い。私は信者ではないため教義の意味は知らないので、以下はあくまで個人的感想である。

人間は意志に基づき意図的に何かをしようとしているうちは、本物ではない。人間の存在自体が自分の意志を越えたものなのだから、自分の意志などあえて捨てて、ただひたすら自分の中からわき出てくるところに従って生きる。

淡々と着実に、粛々と静かに、やるべきことをやりきるだけ。それ以上でもそれ以下でもない。身だけでなく霊魂まで滅し得ることができてはじめて、幻聴は消えて目の前のことに集中できる。

別に前向きなポジティブシンキングを全否定するわけではないが、所詮は人間の力を過信しており、大いなる存在を無視しているようにしか思えない。「トカトントン」はそのエゴイズムに対する警告なのではないか



お伽草紙 (新潮文庫)/太宰 治
¥540
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1.作品

本書には5つの短編が収録されており(そのうち「新釈諸国噺」は12作品、「お伽草紙」は4作品からなる)、主に中期後半の作品である。

中期の作品は作風から7つに分類できると以前書いたが、そのうち本書の作品は「②日本・中国の古典・フォークロア(民話・伝承)をベースにして、作者の空想・批評を自由に書いた作品」にあたる。例えば、「お伽草紙」の作品名として「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」を挙げれば、想像して頂けるだろう。


解説に興味深い話が載っていたので、以下引用する(太字は私が施したもの)。

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太宰治は自分で小説のストーリーをつくるより、既にあるストーリーの中で、その作中人物の心理や情景をさまざまに解釈し、その中に自己を仮託して空想をたくましくするのが好きだったらしい。その意味では太宰治はストーリー・テラー的な小説家と言うよりものごとを分析し、解釈する批評家的素質のほうが強かったと言うことができる。現実の事件より古典やフォークロアなどの読書体験から、より強い創作への刺戟を受けたようだ。その点、太宰治は森鴎外、芥川龍之介などの知性的作家の系譜につながる

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芥川については50近い作品を読みこのブログにも感想を述べた。たしかに芥川は「王朝もの」「切支丹もの」「文明開化もの」のように、日本や諸外国の物語を参考にしながら自分流にアレンジして書いている。太宰も芥川を敬愛していたと言われており、その影響を受けて似たような書き方になったのかもしれない(解説に基づく想像)。

小説というと、自分で勝手に想像して物語を作るか、事実を取材しアレンジして書くか、いずれかだと思っていた。しかし芥川や太宰を改めて読むと、言わば第三の道があると思った。想像とアレンジのどちらでもないと言えばどちらでもないが、双方をうまく統合したとも言える。

意図してそうする部分もあるのかもしれないが、批評家的素質のある人は自然とそうなっていく気がする。既にあるもの(事実・物語)に立脚しながら、それが本当かと考えていき、自分なりの考えを付加していき、結果として新旧・自他統合された独特のものが出来上がる。そういうことではないか。


2.思考

前置きが長くなったが結構面白い作品が多かった。ここでは「清貧譚」について感想を述べる。なお「竹青」も面白かったことだけ付記しておく。


才之助は菊が好きだが売らなかったため貧乏だった。曰く「おのれの愛する花を売って米塩の資を得る等とは、もっての他」。一方旅先で知り合った陶本も菊が好きだが売って裕福になった。曰く「天から貰った自分の実力で米塩の資を得る事は、必ずしも富をむさぼる悪業ではない」。

才之助は陶本を軽蔑していたが、陶本の成功で貧富の差は拡大し、才之助は複雑な思いだった。その後才之助は陶本の姉と結婚し、姉弟の才能と愛情に敬服しすべてを任せることにした。実は姉弟は人間ではなく菊の精だったのだが、才之助は倦厭の情は起こらなかった。


才之助の考えには一理ある。才能は人間を超えたものだが、金銭は人間が生み出したものである。とすれば人間を越えたものを人間を越えないもので把握しようとしても、土台無理筋である。しかしその姿勢を貫けば、やがて食えなくなって死ぬことになる。


その姿勢を貫きながら生き延びるにはどうすればよいか。簡単である。他に食いぶちを確保すればいいだけである。誰か忘れたがある作家曰く「本気で書きたいなら生きる手段を確保しておけ」。またそうすることで、食うために意に沿わない仕事をする必要もなくなり、自由に才能を発揮できる。

しかし自由に才能を発揮できたからといって、本当にいい作品ができるとは限らない。陶本曰く「私の菊作りはいのちがけで、之を美事に作って売らなければ、ごはんをいただく事が出来ないのだという、そんなせっぱつまった気持ちで作るから、花も大きくなるのではないかとも思われます。あなたのように、趣味でお作りになる方は、やはり好奇心や、自負心の満足だけなのですから。」

制約がある中でこそ、才能は試され光輝くとも言えるのである。


ということを考えると、結局無難な所に落ち着く。即ち陶本の言う通り、才能を生かして作品を作り、お金に換えて食っていけばいいのである。

単に生きることそれ自体はそれ以上でもそれ以下でもない事実にすぎず、価値があるないではなく価値ではない。だからこそどう生きるかで価値があるかが決まる。価値ある生き方とは言うまでもなく「善く生きること」である(誰が「悪く生きること」を望むか)。具体的にそれが何かはまさに具体的な時代・場所・人によるが、それでもあえて言うなら、才能を生かして生きることである。

善く生きる即ち才能を生かして生きることで、単に生きることに価値が生まれる。そのことに何の恥があろうか。菊作りの才能を生かして美しい菊を作り、売って金を稼ぎ、飯を食って健康を維持し、さらに菊作りに専念する。善く生きることと単に生きることがぴたりと一致し、善のスパイラルが完成する。これほど素晴らしい人生はない。

ただし、これほど逃げ道のない苦しい人生もないのだが…

津軽 (新潮文庫)/太宰 治
¥420
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1.作品

本書には題名通りの作品が1つ収録されており、中期後半の作品である。

昭和19年5月、作者は小山書店から津軽風土記の執筆を依頼され、その取材をかねて3週間帰郷した。本作品は、故郷を巡り懐かしい人々と再会する中で、津軽とその人々そして自分自身について感じたことが描かれている。


2.思考

私は良くも悪くも、自分の目で見て耳で聞いて肌で感じたことしか信じられない性格である。そして私は津軽の出身でもなければ友人もいない。ゆえに、津軽の歴史や風土、そこに暮らす人々の話を聞いても、正直ピンとこないのである。誤解のないように言うと、それは書き手の能力の問題ではなく、上記の通り読み手の性格の問題である。いずれにせよ、どうも字面を追っていくだけの上滑り感が否めなかった。


と思いながらも最後になって、ぐいっと引き込まれる場面があった。それは作者の幼少期の育ての親ともいえる越野たけとの再会である。

たけは昔津島家の女中として働いていた。実母が病身だったため、たけが育ての親になってくれた。実母は気品が高く立派だったが、たけは不思議な安堵感を与えてくれる存在だった。そんなたけに約30年ぶりにぜひとも再会したかった。

それはたけも同じだった。幼少期から可愛がり、30年近く会いたいと願い、こうして再会できて喜びが言葉にならなかった。そしてその強くて無遠慮な愛情表現の中に自分と似た所があると思い、育ての親の影響だと気づいたのだった。


作者がたけに深い愛情を抱いていることが伝わってくる。お互いに不器用なのか上手く表現はできないが、言葉を越えた所でお互いに感じているのだろうし、それが読み手にも届くのである。

「親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった」と作者は述べている。無条件で自分のすべてを受け入れてくれる人、特に幼少期にそうしてくれた人には、やはり無条件で相手のすべてを受け入れたいと思う。それは倫理という善悪ではなく、善悪を越えた自然の情である。そう言いたいのだろうし、おそらく間違ってはいない。

だからこそ、そこでいう「親」とは何かが問題となる

もしも生みの親が本当の親だとするなら、作者は実母にこそたけに対するのと同じ愛情を抱くはずである。にも関わらず現実にはそうではなかった。ということは、生みの親が本当の親だとは言い切れないということである。

何も作者に限ったことではない。虐待を受けた実母よりも親身に育ててくれた養親に愛情を抱く子供もいるだろう。

結局、血のつながりは血のつながりという事実にすぎずそれ以上でもそれ以下でもなく、本当の親はそういう事実を越えた所にあるということである。


私は血のつながりを信じていない、というか信じられない。というと不道徳のように聞こえるかもしれないが(通俗道徳は嫌いなので別にそう言われても構わないが)、そう非難する多くの人とて、普段こう言っているのではないか。「遠くの親戚より、近くの友人」。