それに気付けることが幸福 「人間失格」太宰治 | One Size Fits All  思考録

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人生の様々な問題について、一切の思い込みを抜きに感じたことを考えて、本当のことはわからないとわかった上でさらに感じ考える…「本当はどうなんだ!」を追求する究極の思考

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))/太宰 治
¥300
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1.作品

後期に書かれた長編。書かれた時期は自殺直前だが、内容は前期終わり頃の体験が基になっている。

パピナール中毒にかかり、注射代欲しさに借金や不義理を重ね、心配した友人らにより強引に精神病院に入院させられ、その間妻が密通していたことにショックを受ける。もう何も信じられなくなり、かつ自身も人間の資格を剥奪されたと思った。そんな自暴自棄の様子がベースとなって、以下の物語が書かれている。

(あらすじ)

葉蔵は幼少期から、世間の人々が本心では何を考えているのかわからない、ひょっとしたら自分だけが違うことを考えているのではないかという不安に駆られていた。そんな違和感に基づく恐怖から逃れるために、本心を隠し道化を演じてきた。それを竹一に見破られるが、自画像を描き本心に目覚め、画家を目指すことにした。

父の「帝大卒の官吏になれ」との命令に逆らえず上京したものの、本心を捨て切れず内密に画塾に通った。そこで堀木に出会い、酒、煙草、淫売婦、非合法運動と自堕落な生活に陥り、生家からの仕送りも制限され、カフェの女給ツネ子と鎌倉で入水自殺を図ったが、自分だけ生き残ったことに罪悪感を覚えた。

その後女性遍歴を経て、自分を無条件に信頼してくれるヨシ子と結ばれ、漫画家として生計を立てながら、ようやく幸福を手にできたかに見えた。しかし人を疑うことを知らないがゆえにヨシ子が犯されたことを知り、「無垢の信頼は罪なのか」と懊悩するのだった。

自暴自棄になり酒におぼれ、喀血になって薬物中毒となり、心配した堀木らによって脳病院に入院させられた。罪人どころか狂人になった葉蔵は、我が身を振り返り「無抵抗は罪なのか」と神に問うのだった。

その後長年の重荷だった父が死に、故郷の村外れで老女中と療養生活を送ることになった。阿鼻叫喚の人間世界の中で唯一真理らしく思われたのは、「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ一さいは過ぎて行きます。」


2.思考

言うまでもなく葉蔵は作者自身を指すと思われる。結局葉蔵の人生の根本にあったのは、以下のことではないか。

・他人が本心では何を考えているかわからないから、不安と恐怖にさいなまれる

・そんな他人と自分では考えていることが多分違っており、しかも自分の方が少数派だろうから、やはり不安だ

・そして本心を打ち明けると嫌われる恐れがあり、それは嫌だ

・ゆえに本心を隠して他人に好かれることで、そうした不安と恐怖から逃れようとする

即ち道化を演じることで、傷つくことを避け続けてきた人生だったのではないか。しかし道化を演じれば演じるほど、結局他人を傷つけ、何より自分自身を最も傷つけてしまうことになった。残念な逆説である。


そもそも他人が本心では何を考えているかなど誰にもわかるわけがない。その「わかるわけがない」ことがわかっていれば(無知の知)、そういうものなのだと事実認識するだけで済み、それ以上悩む事もない。しかし葉蔵のように「わかるわけがない」ことがわからないままだと(無知の無知)、不安にさいなまれて苦悩してしまうのである。

また多くの人が疑問を持たないことに疑問を持つ少数派は、葉蔵のみならずいつの世にもどこにでもいる。たしかに少数派であると、「本当に自分が正しいのだろうか」という不安がよぎることはある。それに耐えられるかは、或る意味理屈ではない。哲学者と言われる人たちはおそらく耐えられるタイプである。しかし葉蔵は耐えられないタイプだったのだろう。敏感な感性は持っていても、頑強な理性と鋭利な知性は持ち合わせていなかったのではないか。

さらに神経のずぶとさがあれば、人から好かれようが嫌われようがどうでもよいと思えるはずである。必要以上に本心を打ち明けることはなく普通に暮らしていけばよい。しかし本心を言わざるを得ず結果として嫌われることもあるだろう。それはそれでいいではないか。全員に好かれることなど無理である。しかし逆に言えば全員に嫌われることも無理である。「来るもの拒まず、去る者追わず」それで何の不自由があろうか。


結局葉蔵は、感受性は豊かだったが理性(思考力)に乏しかったのではないか。文学者は狂人から廃人となり自殺することもあるが、哲学者はどこまでも常識人であり自殺したくても「できない」。

それでも最後に辿りついた心境、「いまは自分には幸福も不幸もありません。ただ一さいが過ぎて行きます」。これは不思議と哲学的ではある。幸福も不幸も人間の勝手な思い込みにすぎず、そんなものは最初から存在しない。すべては事実が事実のまま過ぎていくだけである。そんな淡々とした境地になれることこそが、実は幸福なのである。しかしその幸福を手に入れるには、世間的な代償はとてつもなく大きいのだが…