善く生きることと生きること 「お伽草紙」太宰治 | One Size Fits All  思考録

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お伽草紙 (新潮文庫)/太宰 治
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1.作品

本書には5つの短編が収録されており(そのうち「新釈諸国噺」は12作品、「お伽草紙」は4作品からなる)、主に中期後半の作品である。

中期の作品は作風から7つに分類できると以前書いたが、そのうち本書の作品は「②日本・中国の古典・フォークロア(民話・伝承)をベースにして、作者の空想・批評を自由に書いた作品」にあたる。例えば、「お伽草紙」の作品名として「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」を挙げれば、想像して頂けるだろう。


解説に興味深い話が載っていたので、以下引用する(太字は私が施したもの)。

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太宰治は自分で小説のストーリーをつくるより、既にあるストーリーの中で、その作中人物の心理や情景をさまざまに解釈し、その中に自己を仮託して空想をたくましくするのが好きだったらしい。その意味では太宰治はストーリー・テラー的な小説家と言うよりものごとを分析し、解釈する批評家的素質のほうが強かったと言うことができる。現実の事件より古典やフォークロアなどの読書体験から、より強い創作への刺戟を受けたようだ。その点、太宰治は森鴎外、芥川龍之介などの知性的作家の系譜につながる

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芥川については50近い作品を読みこのブログにも感想を述べた。たしかに芥川は「王朝もの」「切支丹もの」「文明開化もの」のように、日本や諸外国の物語を参考にしながら自分流にアレンジして書いている。太宰も芥川を敬愛していたと言われており、その影響を受けて似たような書き方になったのかもしれない(解説に基づく想像)。

小説というと、自分で勝手に想像して物語を作るか、事実を取材しアレンジして書くか、いずれかだと思っていた。しかし芥川や太宰を改めて読むと、言わば第三の道があると思った。想像とアレンジのどちらでもないと言えばどちらでもないが、双方をうまく統合したとも言える。

意図してそうする部分もあるのかもしれないが、批評家的素質のある人は自然とそうなっていく気がする。既にあるもの(事実・物語)に立脚しながら、それが本当かと考えていき、自分なりの考えを付加していき、結果として新旧・自他統合された独特のものが出来上がる。そういうことではないか。


2.思考

前置きが長くなったが結構面白い作品が多かった。ここでは「清貧譚」について感想を述べる。なお「竹青」も面白かったことだけ付記しておく。


才之助は菊が好きだが売らなかったため貧乏だった。曰く「おのれの愛する花を売って米塩の資を得る等とは、もっての他」。一方旅先で知り合った陶本も菊が好きだが売って裕福になった。曰く「天から貰った自分の実力で米塩の資を得る事は、必ずしも富をむさぼる悪業ではない」。

才之助は陶本を軽蔑していたが、陶本の成功で貧富の差は拡大し、才之助は複雑な思いだった。その後才之助は陶本の姉と結婚し、姉弟の才能と愛情に敬服しすべてを任せることにした。実は姉弟は人間ではなく菊の精だったのだが、才之助は倦厭の情は起こらなかった。


才之助の考えには一理ある。才能は人間を超えたものだが、金銭は人間が生み出したものである。とすれば人間を越えたものを人間を越えないもので把握しようとしても、土台無理筋である。しかしその姿勢を貫けば、やがて食えなくなって死ぬことになる。


その姿勢を貫きながら生き延びるにはどうすればよいか。簡単である。他に食いぶちを確保すればいいだけである。誰か忘れたがある作家曰く「本気で書きたいなら生きる手段を確保しておけ」。またそうすることで、食うために意に沿わない仕事をする必要もなくなり、自由に才能を発揮できる。

しかし自由に才能を発揮できたからといって、本当にいい作品ができるとは限らない。陶本曰く「私の菊作りはいのちがけで、之を美事に作って売らなければ、ごはんをいただく事が出来ないのだという、そんなせっぱつまった気持ちで作るから、花も大きくなるのではないかとも思われます。あなたのように、趣味でお作りになる方は、やはり好奇心や、自負心の満足だけなのですから。」

制約がある中でこそ、才能は試され光輝くとも言えるのである。


ということを考えると、結局無難な所に落ち着く。即ち陶本の言う通り、才能を生かして作品を作り、お金に換えて食っていけばいいのである。

単に生きることそれ自体はそれ以上でもそれ以下でもない事実にすぎず、価値があるないではなく価値ではない。だからこそどう生きるかで価値があるかが決まる。価値ある生き方とは言うまでもなく「善く生きること」である(誰が「悪く生きること」を望むか)。具体的にそれが何かはまさに具体的な時代・場所・人によるが、それでもあえて言うなら、才能を生かして生きることである。

善く生きる即ち才能を生かして生きることで、単に生きることに価値が生まれる。そのことに何の恥があろうか。菊作りの才能を生かして美しい菊を作り、売って金を稼ぎ、飯を食って健康を維持し、さらに菊作りに専念する。善く生きることと単に生きることがぴたりと一致し、善のスパイラルが完成する。これほど素晴らしい人生はない。

ただし、これほど逃げ道のない苦しい人生もないのだが…