例え私が嫌いでも〜嫌いを取り除くのはわがままなの??〜 | クリスチャンカウンセラー♧はんなのblog

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聖書の言葉は、人生のナビゲーションです。私たちの日常生活に適用し、心軽やかに過ごしませんか?

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沢山のblogの中から、出会ってくれてありがとうございます。

 



今日のタイトルは


「私のことは嫌いでも、○○のことは嫌いにならないで下さい!」


と言ったアイドルの名言を思い出させるようですが...


今日は

 

「嫌い」という感情について

 

分かち合いたいと思います。




 

mocaは、大のシャンプー嫌い。

 


シャンプーが嫌いというより

 

パピーの頃からドライヤーが怖いのです。

(得体の知れないものから大きな風と音が出るから)



ドライヤーをかけながら

 

毎回吠えて咬まれることと

 

ずっと戦っていました(泣)

 

 

でも、ふと思ったのです。

 

 

「mocaの嫌いと怖いを、私がなるべく取り除く方法はないかな」と。

 



mocaの嫌・怖いポイントは...


=服を脱がされ着せられること

=目やにを取られること

=浴槽に入れ、出されること

=ドライヤーの音と風


 

 

以上のポイントで

 

私が工夫出来ることを工夫し

 

なるべく取り除いてあげたら...

 


 

吠える・咬むが


無くなって来たのです!

 



嫌・怖いのストレスポイントを取り除くことは大切



でした!

 



では私たち人間は???

 


 


嫌なこと・嫌いなものを取り除くのは


わがままで


信仰的な姿ではないのでしょうか?

 

 


今日の公式LINEの配信はこちら⬇️



(1行目訂正・正露的→生理的。

下から5行目訂正・家具→嗅ぐ)



例え私たちが、誰か何かを嫌いでも


全ての人は神様から造られました。




この間違いない事実と


神様が造られた人の価値を


認めれば良いのですね。




私はその人(もの)が嫌いでも


好きだと思う人が必ず他にいて


神様からお互いに造られた、という


存在価値は変わらないのです。





好きにはなれなくても



神様にとっての


お互いの価値を認め合う事は


出来そうですね。



嫌いを取り除くのはわがままではありません。


不信仰でもありません。



自分がそっと離れる代わりに


その人の存在の価値を認め


神様の愛の眼差しを心に留めましょう♡



読んで頂きありがとうございます。あなたは愛されるために生まれた人です。