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赤線は、2026年10月18日の軌跡  .

◆ は、民権史跡         .

 

 

赤線は、2026年10月18日の軌跡    .

青線は、2026年9月14日の軌跡      .

紫線は、2026年10月10日の軌跡   .

 

 

 今回の「民権散歩」は、「五日市」市街の北の端:「金毘羅山」麓の「開光院」から出発しよう。

 

 「五日市学芸講談会」の中心メンバーの研究・討論の場であり・『憲法草案』が発見されたのも、前回に訪ねた「深沢」集落だが、こんな山奥がどうして中心地になったのか、何度か足を運ぶうちに目星がついてきた。一つのカギは、「深沢」にある古刹「真光院」にある。ここの当時の住職は漢詩の素養が豊かで、その学識を慕って士族・平民を問わない多くの青年が集まってきたらしい。住職と、深沢家の跡取り息子深沢権八 ごんぱち のまわりに、漢詩の創作をたしなむサークルができ、千葉卓三郎もそのひとりであったという。彼らはまた、開化・啓蒙の書籍や新学問にも関心が深く、権八がその豊かな財力によって買い集めた当代最新の書物を読みふけり、国家・政治・社会をめぐって討論を闘わせたのが「学芸講談会」のはじまりであるようだ。

 

 

『五日市の勧能学校に滞在していた利光鶴松〔後の小田急電鉄の創立者〕は、「深沢権八氏ハ五日市地方ノ豪農ニテ頗ル篤学ノ人ナリ、凡ソ東京ニテ出版スル新刊ノ書籍ハ悉ク之ヲ購求シテ書庫ニ蔵シタリ」と述べ、自分たちはその図書を自由に利用して勉強することができたと感謝している』

色川大吉『北村透谷』,新装版,2007,東京大学出版会,p.84. .

 

 

 漢詩と「自由民権」―― こんにちのわれわれの感覚では奇妙に映るこの組み合わせも、明治前期にはむしろ・ごくふつうの教養のあり方であったらしいのだ。全国各地のあらゆる「民権」結社において、漢詩・漢文の研鑽は、メンバーのごく当然の課業であった。「浩然の気を養う」ということなのだろうか。知識・論理の面でも、漢文は、西洋の知識・思想を理解するための基盤となっていたのだ。


 そういうわけで、五日市の「民権」サークルの中心は日の出山の谷奥にあったが、武州・相州からの来客もまじえた一般向けの講演・討論は、「五日市」市中で開催されていた。その会場として最も頻繁に利用されていたのが「開光院」なのだ。これまた、1448年開創の古刹、じつに「応仁の乱」以前だ。

 

 

 

 

 

 10月18日の行程グラフ。シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。


 長い坂道の上に「山門」がある。

 


 

 


 「山門」↑は 1706年建立。

 

 

 

 

 「鐘楼」↑。同じく 1706年建立。

 

 

 

 

 「本堂」〔左。1672年建立〕と「庫裏」〔右。1858年建立〕。渡り廊下で繋がっている。神社建築を思わせる「庫裏」の入母屋 いりもや 屋根がおもしろい。

 

 

 

 


 

 

 1枚のアングルには収まらない堂々たる迫力。寺院建築なので銅板葺きだが、茅葺き屋根の鄙びた形を示している。この古風な堂宇で、「自由民権」の集会が開かれていたと思うと感慨無量だ。


 「開光院」は、1448年の創建。1478年、太田道灌を中興開基として再建されている。これは、深沢の「真光院」と同様だ。臨済宗建長寺派――これも「真光院」に同じ。

 

 「山門」の前から下界を望むと、「五日市」市街から、遠く新宿方面までが視野に入る:

 

 

 

 

 


 坂を下りて、「五日市中学校」の「憲法草案之碑」の前を通り、「檜原街道」のバス通りに向かいます。通り沿い、「仲町郵便局」の裏手に、次のスポット:千葉卓三郎が住んでいた「五日市32番地」があります。

 

 

 

 

 

 この小じんまりした敷地が「32番地」だ↑。卓三郎は、ここに住んで、すぐ近くの「勧能学校」に勤務していた。当時ここには、どんな建物が立っていたのだろうか? …もっとも、150年近くたっているから、当時とは土地の区画が違うかもしれない。「マピオン」で周辺の番地を調べてみると、↓こうなる。

 

 

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 「32番地」の敷地は、細い路の向こう側まであったかもしれない。マピオンが正確とは限らないが、現状を見て、小さい家だったと決めつけることはできないだろう。昔の家は、庭か菜園くらいはあるのがふつうだ。

 

 ところで、東隣りに土蔵らしい建物があるので行ってみよう。

 

 

 

 

 

 その隣りにも土蔵がある:

 

 

 

 

 卓三郎の住居の隣りに「鎌田屋」という豪農兼商家があり、卓三郎は、『憲法草案』執筆の最終段階にあった 1881年5-9月、奈良橋〔北多摩郡奈良橋村、現・東大和市。狭山の近く〕の「鎌田」本家に転居して、家庭教師をしている↓。これらの土蔵は「鎌田屋」の跡か? しかし、上のマピオンと番地が合わない。

 

 

『彼の五日市の住居は五日市町32番地、隣家33番地は鎌田屋と呼ばれる家で、この家の本家は奈良橋村の豪農である。〔…〕

 

 五日市憲法草案作成が山場に来ている段階なのに、まとめの中心、指導者である千葉卓三郎が、なぜ奈良橋村の鎌田家に滞在したのか』

「千葉卓三郎が奈良橋村に滞在」―『東大和の歴史』 .

 

 

 これは実は、ひとつのナゾで、いくつかの説があるようですが、のちほど東大和を訪問した際に検討することとしましょう。

 

 さて、「仲町」から駅のほうへ「檜原街道」を歩いてゆくと、「東町太子堂(観音堂)」への曲がり角がある。この「太子堂」が、「勧能学校」の跡地だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 堂の前に、石碑類が集められている:

 

 

 

 

 

 壊れた手水鉢のようだ↑。かなり古い。「奉納」「‥‥観音」と読める。

 

 これらのことから、江戸時代には、木造阿弥陀如来を安置する「観音堂」だったと推定できる。明治初期の「廃仏毀釈」で「太子堂」に変わり、ついで「勧能学校」に転用された。阿弥陀様は、近くの寺にでも預けられていただろう。1901年には「太子堂」を取り壊して木造平屋建て校舎を新築し、「五日市小学校」と改称している。やがて 1922年に「小学校」は現在の場所に移転し、ここは、もとの「観音堂」に戻ったが、土地の人はなお「太子堂」と呼びならわしているのだろう。

 

 「勧能学校」は、発足時の生徒数、約120名だそうだ。しかし、「太子堂」の建物は、そんなに広かっただろうか? 現地は、小さなお堂の後ろは崖だし、左隣りの「東町会館」と駐車場まで「太子堂」の敷地だったとしても、120人の子どもが一度に入れるような建物があったとは思えない。

 

 

 

 

 

 「想像図」↑だと、一辺4間〔約7.3m〕の建物であるようだ。120人は入らないだろう。各自に机があれば 20人でも狭い。教室は1つ取るのが、せいいっぱい。生徒を、何部にも分けて、入れ替え制で1日1時間ずつとか教えたのではないか?

 

 卓三郎は「第2代校長」になったというが、彼の下に他の教師がいたという話を聞かない。「校長兼小使いさん」? 「学制」施行時の小学校の実態は、こんなものだったのだろう。

 

 仙台出身の卓三郎が「五日市」にやってきたのは、初代校長永沼織之丞の招へいによる。永沼とは、もと仙台伊達藩士のつながりらしい。山奥の禅寺での「漢詩サークル」といい、もと藩士のつながりといい、「自由民権」の背後には、意外に古いネットワークが息づいていた。

 

 もう暗くなってきたので駅に向かうが、駅のすぐ手前に、もうひとつスポットがある。「内山梁山泊」だ。


 

 踏査記録 (20261018) ⇒:YAMAP

 

 

 

 

 

 

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