【前回】⇒ 五日市憲法草案(2)

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 「南沢山」から下って来ると、「深沢」集落へ降りる最後の急坂でウラジロガシの老巨樹に出会う。谷間に張り出した尾根の突端に、くろぐろと枝幹を振りかざしている。

 

 

 

 

 

 

 「山抱きの大樫」という名前がついている。樹齢はどのくらいなのだろうか? 根が入り込んでいる白い岩は、石灰岩であるようだ。

 

 

 

 

 


 この樹は、東野圭吾の小説『クスノキの番人』のモデルだそうだ。たしかに、なにか神秘なオーラを感じさせる。2つの幹に岐れているが、根元は1本の樹木。むかしは村の神として崇められただろう。シデ,ヌサなどといった余計なものが付けられていないだけ、むしろ神々しい本来の姿だ。

 

 

 

 

 

 

 車道に降り立った。ここはもう「深沢」地区だが、めざす最奥の集落へは、この谷間をもう少し遡る。人里の樹相だ。竹,シデ,カシワが目立つ。

 

 

 

 

 

 「白萩橋」で三内川を渡り、5分昇ると「真光院」がある。1486年、太田道灌が開基となって創建された臨済宗の寺〔⇒:あきる野市寺院一覧。道灌の開基は伝承だが、当村が江戸城築城の木材を産した功績で建立されたようだ〕。といっても、それは後日に五日市の「郷土館」で知ったことで、現地には案内板も由緒書きも一切無い。

 

 

 

 


 石段右わきの石碑に「東照山真光禅院」と刻まれている。これが読めないと、寺の名前も解らないことになる。

 

 

 

 


 本堂、1844年再建。

 

 

 

 

 めざす「土蔵」が立つ「深沢家・屋敷」は、このすぐ上流にある。ふたたび三内川を渡る手前で、路次に入る。

 

 

 

 

 

 

 予想しなかった立派な門構えだ。というか、古めかしい。「自由民権」ということで新しいイメージを持ってしまったが、それは錯覚だ。ここは、山奥の旧家なのだ。室町時代か、それ以前からの古い集落だろう。

 

 


 

 

 

 門は閉じているが、脇の口から背をかがめて入って行ける。↓内部側から門を見下ろす。石垣も築かれ、小さな砦のおもむきだ。

 

 

 

 

 「深沢家・屋敷跡」↓。土蔵以外の建物は、取り払われている。

 

 

 

 

 

 

 建っていた母屋↑。茅葺きで、敷地いっぱいの広い母屋だったようだ。神社のような「鰹木 かつおぎ」が付いている。権威のシンボルとして、豪族や庄屋の住居では珍しくなく、『古事記』にも出てくるそうだ。

 

 ↓現存する「土蔵」、ここで「五日市憲法草案」が発見された。

 

 



 

 

 その後、保存のために屋根,壁を補修しているが、屋根はもともと板葺きだったようだ。

 

 

 

 

 

 

 「憲法草案」を書いたのは、宮城県出身の青年千葉卓三郎。しかし、彼の周りには五日市の「学芸講談会」サークルがあり、その中心人物が深沢家の当主・深沢権八だった。権八は、東京で買い求めた多数の啓蒙・学術関係書籍を蔵し、サークル・メンバーに貸し出し、また、深沢屋敷や、五日市の「講談」会場で継続的に討論を催していた。千葉の「憲法草案」は、彼一人の思索ではなく、深沢を中心とする民権サークルの広汎な討論のなかから生まれてきたものだった。深沢権八が記した討論テーマのメモ〔あきる野市五日市郷土館展示〕↓:

 

 

 

 

 

 

 深沢集落に別れを告げよう。

 

 

 

 

 「あじさい山」からの道〔左〕が合流する↓。

 

 

 

 

 「深沢」地区の入口にある神社。「五日市」市街までは、まだ遠い:

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20261009 [無印は気圧高度]
 (2) から - 1456「山抱きの大樫」[325mGPS]1505 - 1513車道出会い[261mGPS] - 1527「深沢家・屋敷跡」[285m]1540 - 1541「真光院」[277mGPS]1605 - 1618「あじさい山」分岐[231mGPS]1621 - 1700「武蔵五日市」駅[191mGPS]。

 

 踏査記録⇒:YAMAP

 

 

 

 

 

 

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