赤線は、2026年10月18日の軌跡 .
◆ は、民権史跡 .
五日市の市街地にも「自由民権運動」の史跡は多い。都会でもなく、甲州街道のような幹線が走っているわけでもない・こんな奥まった場所が、なぜ「民権運動」の拠点になったか? ‥と不思議になるほどだ。
上の地図を見ると、前回に訪ねた「深沢」だけが、さらに離れて山奥にあるのがわかる。
『憲法草案』の起草者千葉卓三郎に関わる史跡が、やはり多い。千葉に関しては研究が進んでいるからだろう。五日市以外の千葉卓三郎の縁故地も、さいごに訪ねてみることにしたい。そこで、千葉の出生地:東北新幹線「くりこま高原」まで行くことになる。
なお、 「五日市町」は明治からあったが〔江戸時代は、幕府領五日市村〕、1995年「秋川町」と合併して「あきる野市」となる。五日市に「阿伎留 あきる 神社」があるように、秋川流域の檜原村,五日市町,秋川町は、古くから地域としての一体性を保ってきた。
赤線は、2026年10月18日の軌跡 .
青線は、2026年9月14日の軌跡 .
紫線は、2026年10月10日の軌跡 .
「秋川橋」↑。八王子方面から来ると、ここが「五日市」の入口になる。
秋川を渡ると、道路はトンネルに入っていくが、トンネルのわきに歩行者用の階段があって、登ったところが標高 190メートルくらい。そこが「武蔵五日市」駅の近くで、町のふつうの高さ。
住宅街のなか、「五日市中学校」をめざす。そこに「憲法草案」の記念碑がある。
中学校の校舎が見えてきた。
校舎のわきに、外から自由に出入りできるスペースがあり、碑はそこに立っている。24時間誰でも立ち入って碑を見ることができる。
1968年に「深沢屋敷」の土蔵で発見された千葉卓三郎の草稿には、条文の番号はついていません。発見者である色川大吉氏らが通し番号を付けたところ、全204条からなる堂々たる「憲法」案でした。碑文の各条文の頭にある算用数字は、その通し番号です。1980年に「あきる野市教育委員会」が発行した『建碑誌』に従って、いくつかの条文を考えてみましょう:
『45 日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ』
これなどは、自由・人権思想の本質を、卓三郎と五日市の人びとが、たいへん適確に理解していたことを示しています。国民の「権利自由」とは、国民が自ら求め・獲得するものであって、君主から〔もちろん外国権力からも〕与えられるものではない。慈悲や〈教化〉によって「他ヨリ」与えられた「自由」は、決して自由として機能することはないのです。そして、政府と国の立法がなすべきことは、みずから「権利自由」を獲得し維持しようとする国民の努力を、最大限に「保護」し援助してゆくことだけなのです。これは、現在の『日本国憲法』でも、
『第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』
という条文のなかに表れています。政府は、国民に「幸福」を保証するのではなく、「幸福追求に対する…権利」を保障する;すなわち、何が「幸福」であるかは国民各個人が思考し追求していかなければならない、ということです。
『これこそ、五日市憲法の根幹をなす〝法の精神〟であると思います。制法〔制憲,憲法制定――ギトン注〕の精神はこの条文に象徴されているといっても過言ではありません。』
編集委員会・編『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』,1980,p.56. .
教育に関する次の条文なども、注目すべきものです。ここでは、国民の(自分の子弟にたいする)教育の権利と義務、そして教育内容の「自由」の保障が、明確に述べられています。この種の社会権規定は、ドイツの『ワイマール憲法』が “世界で初めて” 制定したとされますが、それは、『五日市憲法草案』に遅れること 30年後のことなのです。明治政府の〈費用は民間丸投げ〉の「学制」制定を、むしろ積極的に受け止めて近代初等教育を実現した日本民衆の自信が、この条文には現れています。
『76 子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス然レ𪜈 ども 子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス』
『86 民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ、又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス』
『これは民選議院、即ち衆議院は、行政官の提案した議案を討論するのはもちろんであるけれど、天皇の出した提案も改めて変更してしまう権利を有する。これは、天皇の権利が絶対であるという大日本帝国憲法とは全く違います。』
編集委員会・編『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』,1980,p.45〔色川大吉講演〕.
つまり、『五日市憲法草案』の衆議院には、天皇の「詔書」「勅令」を修正する権限があるわけです。これはもう、「立憲君主制」を超えて、英国流の「君臨すれども統治せず」の王権、あるいは『日本国憲法』の象徴天皇制に近づいていると言えます。
『五日市憲法草案』は、読み返せば読み返すほど、予想もしないようなすごい条文が次々に現れてくる〈自由と民権の宝庫〉と言ってよい。それというのも、この『草案』は千葉卓三郎ひとりの思索の産物ではない、「五日市学芸講談会」等に集まった上下老若さまざまな人びとの多重多密な討論が、起草の背景にはあるからです:
『204条にものぼる草案は、五日市学芸講談会や学術討論会のメンバーらの何十回にもおよぶ討論、検討があってこそ生まれたものであり、五日市の地域社会と切り離して考えられない。』
編集委員会・編『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』,1980,p.35. .
『五日市学芸講談会三十数名の人たちは、土地の所有面積を調べ』てみると、『大地主というのは 3,4名、あとは中農、それから土地を全く持たない人もいる。必ずしも金持ちばかりではない。貧富の差をこえ、学歴・身分の違いをこえ、人間的つながりをもって結集したのではないかと思います。
〔…〕この五日市憲法草案は、アメリカ・フランス・ドイツ・イギリスという当時の大国の憲法にならったものではない。1条1条対比してみると、むしろ参考にしたと思われるのは、ポルトガル・オランダ・ベルギー・スイス・オーストリー・スペインという欧州小国の憲法であるという。〔…〕こういうところにまた、卓三郎らの気概が感ぜられます。当時の日本は文字通り弱小国でしたが、その弱小国の日本が大国からではなく、むしろヨーロッパ先進小国から学ぼうという姿勢を示しました。』
編集委員会・編『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』,p.46-47〔色川大吉講演〕.
「建碑ノ辞」を刻んだ副碑↓:
全部を文字起こしするのは煩瑣なので、ごく一部を抜粋(「五日市郷土館」の受付で売っている『建碑誌』に、全文の拓本が収められている):
『 建碑ノ辞
明治維新ノ大改革ハ〔…〕西南戦争ヲ転機トシテ国内政治体制ノ近代化ニ向ウ気運ヲ起シ 民間ニモ立憲政体ヲメサス革新的ナ自由民権思想カ高揚シタ ワカ五日市町ニオイテモ〔…〕近村ノ同志ヲ糾合シ 逸早ク新シイ学問思想ヲ学ブタメ五日市学芸講談会ヲ組織シタ 時タマタマ五日市勧能学校教師トシテ滞在シテイタ宮城県〔…〕出身俊秀気鋭ノ千葉卓三郎ヲ迎エ研鑽論議カ重ネラレタ〔…〕 遂ニ学芸講談会有志ノ力ヲ結集シテ五日市憲法草案ヲ作成シタ〔…〕 立憲君主制ノ体裁ヲトツテハイルカ〔…〕自由民権思想ノ筋ヲ通シタマコトニ民主的ナモノテアル 現存スル三十余種ノ民間草案中屈指ノモノトイルテモ過言テハナイ〔…〕』
『草案の碑』から、市庁舎と高校の裏を回って、『あきる野市五日市郷土館』に到着:
『郷土館』の名のとおり、縄文以来の町の歴史に関する展示が中心だが、2階には「自由民権運動」関係に1室が充てられており、『憲法草案』の成立経緯についても詳しい展示がある。庭には、古民家が展示されている。:
バス通りに出ると、↓こんなプレートを掲げている店もある。『憲法草案』は、町の誇りなのだろう。
踏査記録 (20260914) ⇒:YAMAP
Venus in the sky





















