板垣退助像。東京都青梅市、釜の淵公園。〔2026年10月撮影〕
国会議事堂内の像を除けば、東京にある唯一の板垣像だが、場所が
判りにくい。ホテル隣接の駐車場の奥右の山道に入ってスグ左下。
【22】 クーデターと暗殺の時代から言論の時代へ
――「立志社」と「愛国社」の発足
「西南戦争」の翌年 1878年は、5月に「大久保利通暗刹事件」、8月に近衛砲兵大隊によるクーデター未遂「竹橋事件」という、「西南戦争」処理を不満とする士族と農民徴兵兵士それぞれの暴力的爆発が起きています。「自由民権運動」の起点となった「愛国社・再興大会」が大阪で行われるのは、その翌9月のことなのです。
「大久保政権」の首班として、「台湾出兵」「江華島事件」の2大対外侵略を外交上有利に処理し、国内の士族反乱をも鎮圧しつくし、「地租改正」「徴兵令」「秩禄処分」などの急速な近代化改革を進めつつあった大久保利通の暗殺は、石川,島根等県の不平士族たちによる「新政」へのリアクション〔反作用,反動〕でした。彼らは、「西南戦争」での士族側劣勢を見て、反乱蜂起計画を暗刹テロリズムに方針変更したのです。首謀・実行者たちは、西郷の「征韓論」に共鳴し、「欧化」政府を打倒して対外膨張に日本の活路を見いだしてゆく「士族」主体の国政構想を抱いていました。
一方、「竹橋事件」を起こした・24歳前後の平民・農民出身兵士を衝き動かしたのは、「西南戦争」での無恩賞でした。西郷軍との奮戦・勝利に対して報償を受けたのは、軍と政府の上層部のみで、徴兵兵士は逆に、戦費による「財政難を理由に、日給や靴下・毛布等まで削減された。」ところが、反乱兵士たちがリーダーとしてあてにした岡本柳之助砲兵大隊長は、ドタンバで部下を裏切って逃避行動をとり、クーデター行動を開始した兵士たちは直ちに逮捕されて、55名が銃刹刑、118名が准流刑、20名が懲役,禁固等に処せられています。影の首謀者である上官が部下を裏切って処罰を免れ、実行に走った兵士だけが重く罰せられるのは、その後の日本の軍部クーデターの “常道” となります。岡本は、対外策謀活動にも関心を向けていたと思われ、のち 1895年朝鮮で「閔妃殺害事件」を首謀し実行させています。
これらの直後に開始された「自由民権運動」もまた、政府の急速な近代化政策に対する没落「士族」層の不満と、彼らの対外膨張意欲を背景にしていたことは否定できません。しかし、開始された「自由民権運動」を活性化したのは、「地方三新法」と好景気に恵まれた・地方の中層以下階層〔在地士族,豪農,中農〕の政治的目覚めであり、言論を担う知識階層が下方に拡大してゆく動きであったといえます。「自由民権運動」には、〈富農蜂起〉路線の「一揆」から来る構造が貫いていたのです。
「立志社跡」の碑。高知市帯屋町。〔2026年5月撮影〕
「愛国社・再興大会」は、土佐の「立志社」の呼びかけにより 1878年9月に熊本,福岡,岡山,福井など「西日本の民権結社 11社が集まって」大阪で開かれました。
74年に「征韓派」下野参議ほか 8名で「愛国公党」を結成し「民撰議院設立建白書」を政府に提出,公表した板垣退助は、75年「大阪会議」で大久保利通と和解し「大久保政権」に復帰しています。板垣は、大久保との間で「漸進的に立憲政体を樹立する」将来的合意を取り付ける一方、「愛国公党」を引き継ぐ在野の団体として「愛国社」を立ち上げていました。
しかし、「愛国社」は何らの活動もなく自然消滅していたところ、77年に「西南戦争」が起きると、板垣は書生植木枝盛〔20歳。「明六社」に参加して福沢に師事し、各新聞に投書していた〕を伴って高知に帰郷した。ほかに、片岡健吉ら旧土佐士族の帰郷が相次いだので、高知県令を辞職した林有造ほか在地人士が彼らを迎えて結成した民権結社が「立志社」です。当初は、鹿児島の西郷軍と呼応して松山城,大坂城を攻略し、複数の政府高官を刹害して政権を転覆する計画を持っていましたが、西郷軍の劣勢とともに板垣,植木,片岡らの〈言論による民権拡張〉方針が大勢を占めることとなります。6月には、「憲法制定」「国会開設」「租税軽減」「地方自治」などを要求する『立志社建白書』を京都行在所へ提出、「建白書は却下されたが、大量に印刷され全国に流布した。」「立志社」は同時に、「天賦人権」を宣言し、「自由の進捗」「人民知識の発達」等を活動目的として掲げます。
この「立志社」が中心となって各地の民権結社の結集を呼びかけたのが、再興「愛国社」〔1878年9月~〕でした。(牧原憲夫『民権と憲法』,2006,岩波新書,pp.2-7.)
『愛国社再興大会は成功したが、あいかわらず士族が中心で、大阪の愛国社事務所も立志社の負担でなんとか維持されていた。
しかし、翌79年11月の第3回大会では、福島,茨城など東日本の県議,豪農を中心とした結社も参入し、運動は一気に拡大した。そして、国会開設を天皇に請願するという方針を確定し、各結社が分担して全国遊説に乗り出した。士族だけでなく、地域の有力者たち〔平民「豪農」――ギトン注〕が主体的な担い手として登場してきたのである。自由民権運動の本格的な展開が始まった。』
牧原憲夫『民権と憲法』,2006,岩波新書,p.7. .
「大阪会議(1875年2月)開催地」の碑とレリーフ。大阪市中央区北浜。
上左から時計回りに、大久保利通,木戸孝允,板垣退助,井上馨,
伊藤博文。 ©Wikimedia.
【23】 「欽定憲法」か?「民定憲法」か?
板垣退助が『民撰議院設立建白書』提出〔1874年〕のあと立ち上げた第1次「愛国社」〔1875年〕が、何の活動もなく自然消滅していたのは、理由のあることでした。
板垣は、75年2月「大阪会議」で・明治政府首班大久保利通と和解して政府・参議〔いわば閣僚〕に復帰すると同時に、在野の全国的政治結社として「愛国社」を結成していました。板垣の意図としては、政府部内での〈憲法制定・国会開設〉をめざす努力と相まって、在野からも要求してこれを実現する構想であったと思われます。たしかに板垣は、政府部内での活動により一定の成果を収めています。「大阪会議」で大久保政権への復帰の条件として「漸進的な立憲政治の樹立」を約束させ、75年4月には、明治天皇の側近らを動かして『立憲政体樹立の詔』を出させています。しかし、在野の「愛国社」に関しては、何と言っても「士族」の結社であり、民権派だけでなく、「憲法」「国会」といったものを設ける意味〔君主専制に対する民主的牽制〕がよく解っていない「士族」復古派も多く参加していたのです。東京・上野の旧「彰義隊」出身者らもおり、翌年には「大久保利通暗刹」を実行する旧加賀藩士も石川県代表として大会に出席しています。第1次「愛国社」の運動は、彼ら守旧「士族」の意向を無視できませんでした。
この第1次「愛国社」と、「西南戦争」後の「愛国社」再興〔1878年9月〕との間には、板垣ら指導者層に大きな思想的転換があったように思われます。板垣が政府部内で陳情運動をして明治天皇の〈いつかは立憲する〉との詔書を得たとはいっても、それは仮に実現したとしても「欽定憲法」〔君主が制定する憲法〕であり、君主が臣下の実情をも憐れんで、自分が困らない範囲で慈悲恩恵を垂らしてやる、というだけのことです。〈天賦人権〉思想に基づく「民定憲法」とは、根本的な原理が異なるのです。
78年からの再興「愛国社」の運動〔1880年3月「国会期成同盟」→ 11月「私擬憲法」案作成決議に至る〕は、天皇に「欽定憲法」の恩恵を乞い願うのではなく、民間から・〈下から〉の憲法制定の運動に転換しています。「民定憲法」の意味について、のちに板垣は、つぎのように説いています:
『國家の根本法たる憲󠄁法は、君主󠄁と人民との一致に基いて定むべく、國約󠄁憲󠄁法とは之を謂ふなり。卽ち知るべし、國約󠄁憲󠄁法とは君民同治の神󠄀髄なることを。故に苟 いやし くも我國の憲󠄁法を制定せんと欲せば先づ憲󠄁法制定の爲めの國民議會を開かざる可からずと。眞に皇室の安泰と人民の福󠄁祉󠄁を慮り、この金甌無缺の國家を永遠󠄁に維持せんが爲めに、萬世不易の根本法を定めんとするもの。』なり。
板垣退助『我国憲政ノ由来』1919年。 .
つまり、じっさいに明治時代に行われたような・政府高官が勝手に「憲法」を作って天皇の名で公布し、「国会」を開設する、というやり方は、順序が逆である。本来の「憲法」制定の手続きは、国民が国民のなかから選んだ「国民議会」 〔憲法制定議会〕が審議して、「憲法」を制定するのでなければならない。少なくとも、「国民議会」と君主の合意によって「憲法」を定めるのでなければ、「立憲」君主政体とは言えない、というのです。
桜井静『国会懇請草案(大日本国会法草案)』1879年。町田市立
自由民権資料館展示。〔2026年9月撮影〕。 大阪での「愛国社」再興
に刺激された千葉県の青年(当時22歳)桜井静は、79年8月全国の
府県会議長に『国会開設懇請協議案』を送り、さらに 12月には、
私擬憲法草案の嚆矢である『大日本国会法草案』を公表した。
桜井の構想は、地方議会の連合会を結成して「国会」「憲法」の
制定に及ぶことだった。彼の〈下から〉の立憲構想は、80年以後
の「国会期成同盟」および「私擬憲法」作成運動に発展する。
これは、こんにちの私たちに知識に照らしても、世界的に受け入れられた「憲法」制定の基本線だと言えます。〔それゆえにこそ、第2次大戦後の『日本国憲法』制定は、「占領軍」による押しつけだ、いやそうじゃない、といった論争が存在するのです。そもそも憲法は「欽定」でよいのだとしたら、昭和天皇が署名・公布した以上(後ろからマッカーサーに銃で脅されていたとしても)、「押しつけ」だなどという不敬な言い草はあり得ないでしょう〕
こうして、1878年における再興「愛国社」の発足は、「自由民権運動」の本格的な開始であったと言うことができます。この転換をもたらしたのは、「西南戦争」における西郷敗戦に伴う「士族」の失墜――治者としての「士族」の権威と思想への信頼消滅――であり、反乱と「一揆」から「言論」へ、という反政府運動の形態転換であり、「民権運動」内部への平民の急速な参入の動きであったのです。参入した主要な「平民」階層は、「士族」のすぐ下の地方「豪農」階層であったことから、後世の歴史家は、78-80年頃以降の本格的な「自由民権運動」を指して「豪農民権」〔それ以前の「士族民権」に対して〕とも呼びならわしています。
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