Alexander Rizzoni, The Capuchin at the Greengrocery Stall in Rome,

1895, , Perm State Art Gallery,  アレクサンドロ・リッツォーニ

『ローマの青果露店におけるカプチン僧』、1895年。 ©Wikimedia. 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こちらの「報道1930」の最後で斎藤幸平さんは「ぼくはいま懸命に生きているんだ」と言っていましたが、案の定その後彼は精力的に、左翼/右翼を問わずさまざまな論客との対談をこなして現在に至っています。テーマは、彼が新著で提起した「暗黒社会主義」、そして「暗黒社会主義」が撃とうとしている「テック右派」「暗黒啓蒙」です。

 

 しかし、斎藤氏との数ある対談 youtube のなかで古舘伊知郎の↑これをとくにお奨めするのは、古舘さんがニュースキャスターとしての経歴が長く、自分の考えを出して対決するよりも、相手の考えを夾雑物なく的確に引き出す能力に長けているからです。少なくとも私は今、斎藤氏の言うことの意味を一刻も早く理解して、自分の考えと直接に対決させたい。そのためには、斎藤氏以外の第三者のムダなおべんちゃらが混ざったり邪魔したりするのは、まことに迷惑なのです。

 

 思うに、斎藤氏の前著,前々著,…は、マルクスの古典的理論を踏まえていないと解りにくい処があって、専門知識のない読者には難しかったかもしれません。が、そうではない新著にも解りにくい処があるとすれば、それは、彼の思想が未完成であるためです。斎藤氏の内部では最初から完成しているのかもしれないが、少なくとも表現型は、工事中の鉄骨が飛び出しているように未完成で、その鉄骨の先を想像力で補って〈全体〉を見通すのは、なかなか容易なことではない。

 

 その点で、古舘氏はかなりの部分で〈未完成部分〉の筋書きを補っており、それを斎藤氏にぶつけて確認する、という作業をしてくれています。もっとも、少数ですが、古舘氏が誤解して、勝手な「補い」をしてしまっている部分もあり、その場合に斎藤氏は「違うよ」とははっきり言わず、「それは、こういうことなんですよ」と改めて自分の考えを述べる返答をする、声のピッチが若干高くなるので判ります。この点は注意が必要でしょう。

 

 斎藤氏の議論の地平に適切に応対するには、同レベルの地平に立つ必要があります。その点でも古舘氏の態度は、おおむね適確です。古舘氏が持ち出しているのは「原始仏教」だからです。私が思うに、マルクスの発想の根本は、人間の「欲望」というものの果てしなさにあります。生産力が発展すると、それに応じて人間の「欲望」も増大してしまうから、ますます生産力を発展させなければならなくなる。『資本論』を読めば、そういう前提で書かれていることに気づくはずですが、そのことをきちんと指摘している解説書はたいへんに少ないのです。すぐれた解説書に書かれているとも限りません。ですから、人間のあくなき「欲望」にいかに対処するか、を考え尽くしたシャカの思想は、マルクスと並べ論ずるにはまことに適切なのです。

 

 

「kizil 千仏洞」の磨崖仏。©smile-chinese.sakura.ne.jp. 

 

 

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 日本の思想のルーツはおそらく原始道教(「道教」成立以前の道教。老荘思想)にある。中国ないしその周辺部(山東?)に由来する原始道教が海を渡ると、島弧民固有の宗教感情に適合したために、そこに定着したのでしょう。これを伝えたのは、島弧側では「越前」を根拠地とし、大陸側では朝鮮東海岸~沿海州西部の人びとが担った「日本海交通」です。彼らは、西北方からの騎馬民族の侵入に押し出されて島弧に流れたのです。『三国遺事』に、「新羅」の祖先が東の隣国に、乗馬を教えると言って騙して征服してしまう話が収録されていますが、この過程が伝説化したものでしょう。

 

 原始道教が民間思想のルーツとなったため、日本では、「無為自然」を貴ぶ考え方が強いのです。「神道」のベースにあるのも、そういう思想なのでしょう。

 

 日本では、マルクスの言う「自然史的過程」を、「無為自然」をベースにして理解したのです。だから日本の左翼思想には、「人為」はすべて悪い、とにかく「人為」に反対すればよい、と考える傾向があります。それが進むと、斎藤幸平氏が指摘するように〈反対して否定するだけで、その先がない〉「左翼のお花畑」になる。あるいは、古舘氏が反省するように、資本主義の弊害はすべて、誰かが仕組んで生じさせ、その一方で「駆除法」を売りつけて儲けているのだ、という陰謀論になる。

 

 しかし、資本主義は「自然史的過程」として発生し、現に発展しつつあるのであって、その克服もまた、最も抑圧された者の「蜂起」によって「自然史的」に行われるほかはない、というのがマルクスの考え方なのです。つまり、「自然史的過程」には、人類のさまざまな「人為」がまるごと含み込まれているのです。それは、ヘーゲルの言う「理性の狡知」を考えてみればわかることです。

 

 日本の左翼の「無為自然」的な共産主義理解に対して、折りから起こったロシア革命のレーニン主義とコミンテルンから、「自然成長ではなく、意識的・計画的に」という批判が浴びせられ、それによって反動が起こりました。こうして日本の左翼を鞭打つ「スターリニズム」は、戦後においてもなおこの国の知識界を支配しました。「連合赤軍」,「新左翼」過激派から、日本共産党宮本派まで。さらには、「〈であること〉ではなく〈すること〉」という丸山真男のありがたいお説教が、「文部省検定済み」教科書にまで掲載されたのです。

 

 1970-80年代に「スターリニズム」の化けの皮が剥がれると、日本の左翼は「リベラル」の名のもとに「無為自然」に戻ってしまいました。〈無為自然こそ自由だ〉というわけです。そして、ハイエクの信奉者(柄谷行人氏など)が増えることになります。

 

 斎藤幸平氏もまた、「コモン」を「無為自然」によって理解している面があるかもしれない。しかし、彼は最近、思想転回を表明しており、「コモン」をそのままビジョンとするだけで・そこに至る方法論を明らかにしないならば、「お花畑の左翼」となってしまうと、↑この対談でも述べています。

 

 私は、以前から、斎藤氏の「コモン」は、「リンゴの喩え」にしろ、「コモン」を実現する手立てが明らかでないのはもちろん、「コモン」が成立したとしてもそれを社会として維持する仕組みの説明さえ無い、その点に不満を感じていました。

 

 そこで、斎藤氏が「実現する手立て」として出してきたのが「暗黒社会主義」なのでしょう。しかし、これは今のところ、ドイツで最近唱えられている理論の引き写しと思われます。いわば不変の理想である「コモン」と違って、これは、過渡的制度の建築構想というべきものです。したがって、吟味と批判の余地がおおいにあると思われます。

 

  共産主義もアナーキズムも、「国家」を最高の存在とし、「敵」としてきた、と言えます。しかし、「国家」は、古代から現在まで、ほんとうに最高の存在だったのだろうか?

 

 斎藤氏によれば、現代では、〈テクノ富豪・テクノ企業〉が、「国家」を従属させ利用して、「極少数者の自由」の野望を実現しようとしている。それが「暗黒啓蒙」です。とすれば、彼らに対抗するには、「国家」を民主的なものに作り変え、「国家」の民主的機構を活用して「極少数者の自由」を制限し、「格差」の縮小をはかることも必要です。同じ意味で、国連のような「間国家組織」も重要です。それらによる法的規制や計画経済が民主的に機能して、〈テクノ富豪・テクノ企業〉の野望を食い止めることができなければ、人類は、「コモン」とは対極の奴隷的境遇に落ち込んでしまいます。左翼は、AI などの先端技術を否定すべきでない。〈テクノ富豪・テクノ企業〉の野望に対抗して「コモン」を実現する「社会主義」の小道具として、AI などの先端技術は十分に「使える」し、むしろ計画経済を現実的なものとするには AI はぜひとも必要だ、と斎藤氏は言うのです。

 

 

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 現代では、〈テクノ富豪・テクノ企業〉が「国家」をも支配する。しかし、彼らとて、完全に「自由」で自律的な「神」ではない。〈テクノ富豪・テクノ企業〉を支配しているのは「資本主義」の原理、つまり〈利潤の極大化〉、人間の欲望の無限増大、それのみを「正義」とする原理なのです。彼らの追求する「自由」とは、欲望の別名にすぎない。

 

 しかし、「自由」のためには欲望の減少をはからなければならない場合もある。少量の「欲望」充足で足りることが、「自由」を増進する場合がある。「自由」とは「自律」であるというカントの思想を、いま再び参照する必要があるのです。

 

 

 

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 以上、斎藤幸平氏と古舘伊知郎氏の対談を超えて自分の考えを書きすぎたかもしれません。読者には、ぜひ自ら対談動画を直接視聴して内容を摂取していただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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