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Armando Spadini, l'edera nel bosco di Villa Borghese, 1922, Villa Reale di Milano.

 スパディーニ『ボルゲーゼ邸園の森の蔦』1922年、ミラノ市立美術館。©Wikimedia. 

 

 

 

 

 

 

 

【62】 「システム=イデオロギー」の彼方

へと〈超出〉するもの

 


『『たけくらべ』の主人公「美登里」は、遅かれ早かれ公娼制の「システム」に組み込まれることを運命づけられた少女であり、この中篇の主題は、その暗い宿命の到来の予感によってかえっていっそう輝かしく躍動する・束の間の思春期の生の牧歌性である。結末近くの・彼女の性格の唐突な変貌は、〔…〕そのきっかけが初潮か水揚げか初店かは重要ではない。『彼女の身体と魂がシステム」に参入する決定的瞬間がそこに刻印されているとだけ読んでおけば〔…〕十分である。つまり、『作品の結末に至って、美登里の身体と魂がシステム」の内部と外部を分かつ「閾」に逢着し、その境界線上で悲劇的に震えているのであり、『読者は、ただその震えに共振して慄 おのの くほかはない。

 

 他方、〔…〕『にごりえ』の主人公は、公娼制の「システム」の外に弾き出された私娼であり、彼女の不倖もその自由も、この外部性によって決定されている。娼妓の鑑札を持たない彼女はむろん月2回の梅毒検査も受けておらず、それは内務省〔…〕の公衆衛生管理「システム」の外部に〔…〕いることを意味してもいる。〔…〕

 

 「美登里の場合も「お力」の場合も、そのエロスの悲劇の昂進を司っているものは、システム」との関係なのである。一葉は、〔…〕システム」との関係を決定的なパラメーターとする実存の悲劇を「文学」表現へ昇華させたということだ。そのとき、彼女の残酷きわまりないエクリチュールは、ベンヤミンの言う「神的暴力」の行使以外の何ものでもない。

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.210-211.  .  

 

 

 「神的暴力」(または「純粋暴力」「革命的暴力」)とは、「神話的暴力」の反対概念です。ベンヤミンは『暴力批判論』〔1921年〕で、「法を基礎づけ、また法が行使する暴力」を「神話的暴力」と呼びました。神々は人間に対して、「タヒすべき人間」の分際を越える行ないを戒めるために罰を下します。罰が下され、罰を受けた人の痛ましい最期が「神話」として伝えられるので、人びとは、それが神々の定めた限度=レッドラインだと認識して、そこを踏み越えないように気をつけるのです。同じことは、「法」〔法律,慣習法,掟〕というものの成り立ちにも言えます。「法」は、一定の限度を宣言して、それを踏み越えた人間を処罰する「暴力」によって、みずからを――「法」システムを――維持します。つまり、「神話的暴力」とは、「システム」の暴力なのです。

 

  一般には、「法システム」も、「法システム」が行使する暴力も、社会秩序を維持するためにはやむをえない必要悪、ないしは、積極的に人々の平和と幸福を増進する価値ある制度と考えられています。しかし、ベンヤミンは、そうした側面の陰で忘れられている他の面を強調して、じつは、「法システム」が「神話的暴力」を振るうのは、人びとのためでも平和のためでもなく、「法システム」自身を維持するためなのだ、と説くのです。

 

 このことは、国家「法システム」を考えてもなかなか納得しにくいのですが〔なぜなら私たちは、国家が無ければ生きられないと思いこんでいる「善良な民」だから〕、国家以外の、たとえば「村八分」のような現象を考えると理解しやすい。「村八分」は、狭い地域の慣習法を破った地域成員に対して「村」が科する制裁であり、「神話的暴力」です。それには、村人たちが信じているさまざまな正当根拠があることでしょうが、結局のところ「平和の維持」に不可欠とまでは言えない。にもかかわらず、なぜ続いているのかと言うと、国家「法システム」がそれを禁じない、ないしは根絶するほどの取り締まりをしないからです。国家が禁圧するまでは、理由無く必要無くとも「村八分」は行われ続ける。なぜか?「村八分」「掟社会」という小地域の「法システム」が、それ自身を生きながらえさせる自己目的のためだ、というほかには説明がつかないでしょう。

 

 

Giulio Aristide Sartorio, Le truppe italiane rientrano a Nervesa, Italian troops 

return to Nervesa, 1918, Museum collection of the Farnesina. ジュリオ・サルトリオ

『ネルヴェーザ(第1次大戦の激戦地)に戻るイタリア軍部隊』1918年。 ©Wikimedia.

 

 

 ベンヤミンは言う:「法」は「何のためにタヒ刑を執行するのか?」何のために「生タヒにかかわる究極の暴力を手中にする」のか? それは、「罪人を制裁することでも、将来の犯罪を予防することでもなく、単に法それ自身を強化し、より確固としたもの」にするためである、と。ここに一面の真理があることは、誰しも認めざるをえないでしょう。(『明治の表象空間 中』,p.83.)

 

 これに対して、「神的暴力」とは何か?「神話的暴力」の対極だ、ということから論理的に考えれば、まず、「法システム」を破壊する暴力、「法システム」を体現する最大の権力である「国家」を打ち倒す力だ、ということが考えられます。「革命的暴力」という別名を持つことからも、この想定は支持されるでしょう。

 

 しかし、「神的暴力」とは、革命暴動のような混乱した暴力的事態を指す、あるいは、それだけを指す、と考えると、ベンヤミンからは大きく外れてしまう。というのは、ベンヤミンは、「神話的暴力」が脅迫的で、血の匂いがするとすれば、「神的暴力」は衝撃的で、血の匂いがしない、しかも致命的である、と言っているからです。

 

 ともかく重要な点は、「神話的暴力」が国家「法システム」を創り出し維持するのに対し、「神的暴力」は、それを「破壊」し、ないしは無効にしてしまう、という点です。じっさいに「神的暴力」にあたる事例が歴史上存在したかどうかについては、「すぐに決定できることではない」という曖昧な言い方で濁しています。松浦氏は、ベンヤミンの「神的暴力」とは、「国家の暴力が廃棄され、[新しい時代]が創出された後の未来社会」にかんする「ファンタスムでしかな」いから、「そこに具体的〔…〕内容が」見えなくともしかたがない、としています。(『明治の表象空間 中』,pp.84-85.)

 

 しかし私は、「神的暴力」のどんな微小な例も過去に無いというわけではない、と思うのです。それは、激甚な自然災害による、一時的な「権力・行政の空白状態」を思わせるからです。


 石川啄木は、1907年8月の「函館大火」のさい函館に滞在しており、被害による行政・警察機構の崩壊にもかかわらず、市民たちは、相互扶助の精神を発揮して助け合い、無秩序や混乱は生じなかったと記しています。これは一時的なことにすぎないとしても、「法システム」と国家の暴力機構が機能しなくなった「例外状態」でも、「万人の万人に対する戦い」が現出するわけではなく、犯罪が猖獗するのでもなく、秩序はそれなりに保たれたことを示しています。もちろん、同様の自然災害でも、「関東大震災」後の「朝鮮人等虐刹」のようなこともあるわけで、どんな事態になるかは、さまざまな要因によるのでしょう。ともかく、自然災害は、ある場合には――おそらく、明治時代の函館のような、「伝統」と「地盤勢力」の拘束が少ない小さな地域では――「神的暴力」の縮小版となって機能することもある、と言えるのではないでしょうか。

 

 

Antonio Mosca, Cascatella del Moggio(Borgo di Valsugana), 1923. ©Wikimedia.

アントニオ・モスカ『ヴァルスガーナ郊外、モッジョの小さな滝』1923年。

 

 

 

【63】 「白い終末論」の出来

 

 

 それでは、松浦氏の言う:一葉の「美登里」「お力」にかんする「残酷きわまりないエクリチュール〔…〕神的暴力]の行使以外の何ものでもない」とは、どういう意味なのでしょうか?

 

 「神話的暴力」が、「システム」を組織し維持する暴力だとすれば、「神的暴力」は、「システム」を機能不全に陥らせ、「システム」をこわす暴力です。一葉エクリチュールが対峙する「システム」とは、ひとつには「国家システム」に間近いまでに整備されつつあった「公娼制」であり、これは、明治の国家統治システムを底辺で支える諸システムの一つでした。他方で、彼女のエクリチュールは、『教育勅語』を頂点とする衛生・婦徳・国権宣揚の「啓蒙」イデオロギーとその「言説システム」に対峙せざるをえません。そこで彼女は、「遺伝」の宿命論に縛りつけられた「お力」の、また、「公娼制」への組込みから逃れられない運命を背負った「美登里」の、両様の〈狂気〉を描くことが、自己の使命〔「国家ノ大本」への刺突〕だと自覚したのです。このエクリチュールこそ、「血の匂いがしない」にもかかわらず「システム」に対して「衝撃的」で「致命的」な暴力でなくて何でしょうか?

 


神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪を作りそれを贖 あがな わせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いが無く、しかも致命的である。

ヴァルター・ベンヤミン,野村修・編訳『暴力批判論 他10篇』,1994,岩波文庫,p.59. .  

 

 

 「公娼システム」内外の「境界」を認めない。遊女たちの生を真摯に描くことによって、そこから「罪」を取り去る。何らの脅迫も恫喝も読者に加えないにもかかわらず「衝撃的」である。単なるエクリチュールである以上「血の匂い」など微塵も無いが、にもかかわらず、その内容は「システム」にとって「致命的」である。このように、一葉エクリチュールは、ベンヤミンの挙げる全項目に当てはまるのです。

 


 一葉残酷きわまりないエクリチュールは、ベンヤミンの言う「神的暴力」の行使以外の何ものでもない。書くことの実践というこの「例外状態」においてシステム」は内破し、表象空間に――〔…〕アガンベン〔※〕の言葉を用いるなら――ベンヤミン的な「白い終末論」が出来 しゅったい する。

 

 一葉はそれを、人間らしさの回復への祈念といったヒューマニズム〔…〕によって行なったのではない。「美登里や「お力」の生の条件の非人間性をむしろ限界まで押し進め、それを汚辱の「」に仮借なくまみれさせることで、システム」の彼方にある「白い終末論」にまで到達したのである。

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.211. .  

 註※「アガンベン」: Giorgio Agamben〔1942- 〕イタリアの哲学者。ハイデガー,フーコー,ベンヤミン,およびイタリア・ネオ・マルクス主義の影響を受け、言語学,美学から政治哲学に及ぶ著作がある。『来るべき共同体』〔原1990〕,『人権の彼方に』〔原1996〕,『例外状態』〔原2003〕

 

 この結論のクダリ、とくに引用の第1段落は、ここまでの松浦氏の長大な議論を前提にしているので、『明治の表象空間』を上巻からずっと読んできた読者でもなければ理解が難しい箇所です。が、可能な限りショートカットして説明してみましょう。

 

 

Maxime Maufra, L'arc en ciel, 1901, Wallraf Richartz Museum & Fondation, 

Corboud. マクシム・モーフラ『虹』1901年。 ©Wikimedia.

 

 

 まず、「書くこと」がなぜ「例外状態」なのか? そもそも何の「例外」なのか?

 

 「例外」とは、「ラング〔言語〕」に対する例外です。「ラング」とは、眼には見えないが「国語」として確かに存在する〈静的言語〉のこと。わかりやすく言えば、国語大辞典+文法書のことです。これに対して、じっさいに日々の会話や「書くこと」として現出するコトバが、「パロール発話」です〔正確に言うと、アガンベンはこれを「ディスクール(言説)」と言う〕アガンベンによれば、「ラング」という静的な「システム」に対して、すべての「発話」は、「システム」の規範から外れた「例外状態〔異常事態〕」なのです。人はふだん、いちいち辞書と文法書を見て「正しい」言い方かどうか確かめてから「発話」したりはしません。じっさい、すべての「発話」は、発話者の一回限りの決断によってなされます。発した言葉が相手に理解される場合もあるし誤解される場合もある。言語使用のしかた(発話者の決断)が原因で誤解が生じる場合もあるし、発話内容が原因で起きる場合もある。どちらの誤解なのかを突き止めているヒマはありません。なぜなら誤解は、探究によってではなく、さらなる行動によって解かれなければならないからです。

 

 規範と「例外状態」、「ラング」と「発話」、のこの関係は、「法システム」と「例外状態」〔大災害,戦争などの、国家の非常事態〕の関係にパラレルだと言えます。「例外状態」においては、「法」に照らして「正しいこと」と「不正」とを峻別する、という「法」の機能は停止します。ベンヤミンに沿って言えば、これこそ「[純粋暴力]のアノミー状況〔アナーキー,無法状態〕」であり、それは必ずしも混乱ではなく、「国家」と「法」が廃棄された暁の「新しい時代」を予感させるものです。

 

 しかし、このようなベンヤミンのユートピアン的ファンタスムを正面から攻撃し否定したのが、政治学者カール・シュミットでした。「非常事態」においては、アノミーが放置されるのではなく、誰かが「主権者」〔たとえば、超法規的独裁者〕として起ち、機能停止した「法」に代わって、すべてを「決断」によって決定します。それらの決定により「非常事態」は徐々に収束するとともに、なされた「主権者」の決定は、新たな「法」の一部となる。こうして、「例外状態」は、「主権者の決断」を通じて「法システム」に回収される。いや、それどころか、シュミットによれば「この[例外状態]こそ〔…〕法的規範の普遍的妥当性を担保する最終的な根拠にほかならない」。ここまで強弁したシュミットは、クーデターとファシズムとナチスの独裁を正当化したとの評価を、第2次大戦後に受けることとなります。(『明治の表象空間 中』,pp.82-86.)

 

 しかし、ベンヤミンシュミットに対して、『ドイツ悲劇の根源』〔1928年〕において再反論しています。「例外状態」において「決断」することは、そもそも不可能なのだ。専制君主は「例外状態」においても「決定権」を持っているが、彼には決断する「能力」がない。彼は平時には「法システム」の上に乗って統治していたにすぎず、いかなる「決断能力」も有していないからだ。君主に課せられた課題は、「例外状態」「非常事態」を排除すること、それに尽きる。

 

 ベンヤミンのこの再反論を踏まえて、アガンベンは言う:「例外状態はもはや、〔…〕内部と外部、アノミーと法的コンテクストとの間の〔…〕閾としては立ち現れない。それはむしろ、〔…〕アノミーと法との間に広がる絶対的非決定の地帯なのである。」「[革命的暴力]の発現を通じて法と国家が廃棄されたあかつきに訪れるはずの[新しい時代]へ向けて投射されたベンヤミンの希求に」アガンベンが共振していることは疑いない。

 

 なるほど、「ラング」と「発話」(例外状態)との関係についてもシュミット的な〈システムへの回収〉論に立てば、「発話者の[決定]を通じて[例外]的なアノミーは法の内部に再回収され、それによってシステムが改めて制度的に強化される」こととなる。これはまさに、明治日本が取り入れた「啓蒙」的システム機制にほかならない。

 

 

Vasily Polenov, Василий Дмитриевич Поленов, Early Snow, 1891, The State 

Tretyakov Gallery. ワシーリィ・ポレノフ『初雪』1891年。 ©Wikimedia.

 

 

 が、同じ事態をベンヤミンの・より非現実的な「神的暴力のファンタスム」として見ると、どうなるか? つまり、そこにおいても「[決定]は結局不可能なのだ」と仮定してみるのだ。「決定」〔正用と誤用の峻別〕の不可能性によって、意志疎通の多少の混乱が生じるけれども、それは、江戸時代以前の日本語――そもそも国語の規範というものが無い――においては常態だった事態にすぎない。誤解と意思疎通のもつれを孕みながら、社会全体としてはどうにか回ってゆくことができた暁には、「何が[正]で何が[誤]か決定不可能だとして、それでいったいどんな不都合があるのか」という声が圧倒するばかりだ。いかなる「発話」もエクリチュールも「システムの「正しさ」を破壊する〕純粋暴力]の一撃として発せられ、みずからを[正]とも[誤]とも名指すことのないまま、その出来事としての強度の記憶のみを残し、〔…〕あたりを行き交う匿名の響きの〔…〕なかに溶け込んでゆく。それで良いではないか。」(『明治の表象空間 中』,pp.87-91,95-97.)

 

 同じことを、国家の「法システム」、「公娼制度」のような「社会制度システム」に当てはめてみると、どうなるか:

 

 

『「純粋暴力」の一撃によって法の擬制が破砕され、正と不正を分かつ境界が攪乱され、法とのあらゆる関係を断ち切った人間の革命的行動が全面化する〔…〕そのとき、「血の匂いがなく、しかも致命的」な暴力のみが跳梁する〔…〕例外状態のただなかで、独裁者の「決定」の声は〔…〕封印されてしまうだろう。彼から剥奪された「主権」は、〔…〕無方向的なアノミーの残酷と快楽を全身で生きる人民の手に戻るだろう。そこに開花する祝祭的な無政府状態のヴィジョンを、アガンベンは「ベンヤミンの白い終末論」と呼んだのだろうか。』

松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,p.96.  

 

 

 「神的暴力」の一撃によって「法システム」が機能を失ない「神話の支配が決定的に終焉した後に訪れる〔…〕[新しい時代]」においては、「暴力」による「システム」からの強制が無くなった〔いまや「暴力」はもっぱら「システム」を止める方向にのみ働く〕ぶん、「そのとき初めて人びとの前に〔…〕[正義]と[自由]」の「全貌が開示される」と、ベンヤミンは考えました。(p.97.)

 

 何という空想的オプティミズム!‥と言うかもしれません。しかし、翻ってこれを一葉エクリチュールに当てはめてみれば、「お力」の〈狂気〉、「美登里」の残酷な〈悲劇〉の先で、「システム」を完全に崩壊させてしまう「無方向なアノミー」の「祝祭的・無政府状態」が描かれたであろうことは、むしろ〔一葉の夭折によってのみ封印された〕必然と思われるのです。

 

 

 

 

 


 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ