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Иван Иванович Шишкин, На севере диком..., Shishkin, In the wild north…. 

イヴァン・イヴァノヴィチ・シシュキン『厳しい北方では』1891年、

国立キエフ絵画ギャラリー。 ©Wikimedia.

 

 

 

 



 

 

【51】 『教育勅語』の「力」の秘密 ――

「皇祖皇宗」と「国体」

 


 これまで述べてきたように、『教育勅語』のテクストの特質は〈一人称の行為遂行文〉であることにあります。つまり、一人称主体「朕」が「何事かを命じ」るのと同時に、「朕」には「それを命じる権利と権威がある」こと〔つまり、命令の正当性〕を、その命令じたいによって「朕」が自ら立証して見せなければならない。しかもこの「勅諭」テクストは、その離れ業を、見事なほど成功裏にやってのけているのです。これは、「いわば重力に逆らって[わたし]が[わたし]自身を持ち上げ、宙空に支える奇術」と比喩されるほどの特異なアクロバットなのです。

 

 このアクロバットの〈しかけ〉は、「中段」に羅列された平凡きわまりない「徳目」には無い。むしろ、それを前後から挟む部分にあります。この〈枠づけ〉部分にある特徴的な語が、「皇祖皇宗」であり「天壌無窮ノ皇運」であり「国体」なのです。

 

 これらの語を含む〈枠づけ〉部分の効果は、「御真影」への最敬礼を含む「勅語奉読式」が聴衆にもたらす権威付け作用に、最もよく現れます。「読み進める学校長の緊張した声の響きに乗って、その場にはいない天皇のイメージが、臨席者の集合的な想像空間に〔…〕濃密に、ますます神々しく立ち現れてゆく。〔…〕表象された客体たる天皇は、威容を誇る主体へとただちに転じ、臣民の服従を強要する」権能をも獲得するに至るのです。

 

 このように、「話者」である天皇「を権力主体として強力に構成する」効果の源というべき「皇祖皇宗」「国体」とは、どんな意味構造をもった語なのでしょうか?

 

 まず、「皇祖皇宗」の語は、「前段」「後段」のそれぞれ最初に現れて、読む者,聴く者の精神を呪縛し、これから述べられる説諭にたいして批判力を停止させる催眠的効果を発揮します。かくて、「中段の教訓部分の価値と正当性を基礎づける」作用を果たすのです。

 

 その〈催眠〉とは、どういうものか? ‥発話主体の〈命令〉〈説諭〉を正当化し権威づける「枠づけ」の機能が、「皇祖皇宗」という「不在のタヒ者たちを呼び起こすことによって実行されている〔…〕点が重要だと思われる」。「[国ヲ肇]め[徳ヲ樹]てた主体とされる彼らは」、話者たる天皇「朕」とは異なって、この世の存在ではない。すなわち「不在」である。しかし彼らは、「血の継承という隠喩的〔…〕換喩的〔…〕喚起力を通じて」、「朕」によって「代理=表象」される。「朕」は、「皇祖皇宗の血脈を表象」することによって、「その血脈の持続に、建国以来の日本の歴史の全体」を重ね合わせてしまう。のみならず、「この代理=表象のメカニズムが[朕]自身に反射され、今上天皇を強力な権力主体として再提示するに至るのだ。」「起源に立つ[国シラス神]としての[皇祖]は」いかなる意味でも「不在」であるが、それゆえにこそいよいよ、その「イメージは、そこに孕まれた不在の絶対性のゆえにかえってなまなましく、また濃密に立ち現れ」る。そこに「教育勅語は、〔…〕あえて不透明な神秘性と秘教性を充電し直しつつ、それに或る呪術的な名前を賦与し」ている:「此レ我カ国体ノ精華」なりと。

 

 

学校での『教育勅語』奉読式。©tanken.com.

 

 

 「かくして、〔…〕われわれ」の「テクスト分析は、ついにこの[国体]という決定的な一語に逢着するに至った。」「国体」とは、「その実質を問うやいなや立ちどころに曖昧模糊としはじめ、概念として実定的に把握することが(従ってそれを批判することも)きわめて困難な、しかし近代日本のナショナリズムを要約する最大の符丁として現実政治の舞台で巨大な威力を発揮した」。威力を発揮しつつもなお、「国体」は、きわめて意味不明な、まるで呪文のような言葉であり続けたし、今後もタヒ語となるまで、そうあり続けるであろう。松浦氏は、この長大な論考の「序章」を、「国体」という一語の考察にあてているほどです。「そこでの暫定的な結論は、[国体]とは、表象機能の不全によってもっともよく機能するという特異な」性質を持つ「畸形的な表象である」、ということでした。

 

 そして今、「教育勅語のテクスト分析を経たうえで」改めて言えることは、「[国体]という護符の呪術的機能の核心は」、このような畸形的な表象の機能によって、天皇という「主体の[不透明]な現前〔不可視の奥処に隠蔽されて、しかし確実に存在すること――ギトン註〕を担保する」点にあるのではないか、ということです。 (『明治の表象空間 中』,pp.236-238)

 

 

『過ぎ去ってとりかえしがつかなくなってしまったものの想像空間への召還は、つねに何がしかの情緒的な慰藉を伴なう。教育勅語は、その召喚行為を臣民一人一人のミニマルな物語へと同型的に縮小し、「皇祖皇宗」の物語とパラレルに提示することで、この甘美な情緒性を増幅しようと試みている。』「中段」末尾の『「天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」に続く〔…〕「是 カク ノ如キハ〔…〕又󠄂以テ爾 ナンヂ〔の〕祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン」〔…〕がそれである。徳行のオーラをたなびかせた不在のタヒ者たちの記憶を喚起し、それによって現在の主体〔現天皇「朕」――ギトン註〕を構成するという二重化された表象機制が、「爾 ナンヂ 臣民」一人一人の家系の物語へと「反射」され、それと「皇祖皇宗」の物語との並行的な同型性が強調される。君も臣もこもごも一体となって同じ物語を生きている、というわけだ。』「皇祖皇宗」とともに『みずからの祖先をも〔…〕同一の想像空間へ呼び出し、その「遺󠄁風ヲ顯彰」してくれる寛大な典礼〔勅語奉読式――ギトン註〕に立ち会うことで、勅語の聞き手の想像界は、〔…〕皇祖皇宗」の召喚と未来にわたる「皇運󠄁」の帰趨に親密な情緒のきずなで繋ぎ留められずにはいられない。


 〔…〕臣民一人一人の「祖先ノ遺󠄁風」の積分的な総体が、「皇祖皇宗ノ遺󠄁訓」という唯一にして特権的な物語へと結晶する。「億兆心ヲ一 イツ ニシテ」とは、〔…〕結局そのことにほかなるまい。そのとき、「朕」とともに「億兆」の「爾 ナンヂ 臣民」もまた主体として構成されるのだが、彼ら〔…〕のうちに構成されるミニマルな主体とは、言うまでもなく服従する主体〔…〕である。』

松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,p.239.  

 

 

 このように、『教育勅語』のテクスト、およびその「奉読式」という儀礼が、民衆の精神にもたらした効果は、恐怖に基く統制支配では必ずしもなく、論理による納得・確信では無論なく、不可解の彼方に隠ぺいされ抽象化された皇/民両様の系譜イメージを一体化させた甘美な情緒的・超道徳的 服従であったのです。

 

 

Ivan Pelevin, Пелевин И.А. Кормление ребенка, 1890.

イヴァン・ペレヴィン『赤ん坊の給餌』1890年。 ©Wikimedia.

 

 

 国体」とは、松浦氏によれば、この壮大な挙国的メカニズムの総体に等しいものなのであり、それは、高村光太郎の著名な次の詩〔行分けは省略されています〕に、的確にも表現されている情緒にほかなりません:

 

 

『   真珠湾の日

 宣戦布告よりもさきに聞いたのはハワイ辺
 あたり で戦があつたといふことだ。つひに太平洋で戦ふのだ。詔勅をきいて身ぶるひした。この容易ならぬ瞬間に私の頭脳はランビキにかけられ、昨日は遠い昔となり、遠い昔が今となつた。天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。子供の時のおぢいさんが、父が母がそこに居た。少年の日の家の雲霧が部屋一ぱいに立ちこめた。私の耳は祖先の声でみたされ、陛下が、陛下がとあへぐ意識に眩 めくるめ いた。身をすてるほか今はない。陛下をまもらう。詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。同胞の荒廃を出来れば防がう。私はその夜木星の大きく光る駒込台でただしんけんにさう思ひつめた。


 〔…〕戦争への参加に伴って、予想される被害から一家代々、つまり、祖先や家族を守ろうという意識が、天皇賛美「天皇あやふし」ということばに象徴されています。

 

 〔…〕ここには、天皇に連なるものを守ろう、という強烈な、いや、狂信的な意識があります。「身をすてるほか今はない。陛下をまもらう。詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。」というのは、個人的なものをすべて捨てて、天皇を守ろう。〔…〕近しい家族や遠い祖先とともに自分が生きる同時代・そのものの詩を書こう。〔…〕ということなのでしょう。

日本ペンクラブ『電子文藝館』,「全身芸術家高村光太郎の実像」. .  

 

 

 

【52】 『教育勅語』の「力」の秘密 ――

「万邦無比」の特権幻想

 

 

 一般に、宗教や道徳というものは、自らが「普遍的」に正しく、誰にでも通用するものだと主張することで、「正統性」を確保しようとします。仏教でも、キリスト教でも、また、西洋の倫理哲学でも、儒教道徳でも、そう言えるでしょう。


 ところが『教育勅語』は、この点において、世界の宗教,道徳の大勢とは真逆の方向をめざしているのです。

 

 

兆民の言うとおり、主君にたいする民の忠誠も、親にたいする子の服従も、いつの時代でもどこの土地でも認められるごく平凡な習俗である〔…〕勅語中段における 12徳目の列挙を、「ありきたりの紋切り型のオンパレード」とわれわれ』『呼んだ〔…〕。それらはこの凡庸を通じて否応なしに普遍的たらざるをえないということだ。ところが、勅語全体の論理構成は、〔…〕その逆の「万邦無比」の特異性を際立たせるような形に仕組まれている。〔…〕

 

 

William-Adolphe Bouguereau, Les petites mendiantes, 

Little beggars, 1890.  ウィリアム・アドルフ・ブグロー

『小さな物乞い』1890年。 ©Wikimedia.

 

 

 「万世一系」の皇統が「万邦無比」であることの特異性に、ネーションとしての自己同一性の中核を据え、またそこに人心掌握の基盤を形づくろうとした明治〔…〕の戦略が、一定の現実的成果を収めたことは明らかだ。〔…〕ネーション・ステート創出のためのこの戦略〔…〕その戦略遂行のための最重要のツールとして機能した教育勅語のテクストに、いかなる言説的な仕掛けが施されているのか〔…〕

 

 教育勅語のメッセージの最重要部分は〔…〕前段と後段にあり、内容の実質をなすかに見える徳目羅列の中段は、実は一種の「口実」でしかない〔…〕否応なしに普遍的たらざるをえない徳目群の列挙に、このテクストの意味作用の真の重点は無い。〔つまり、中段の儒教的徳目は、実は〈空洞化〉され無意味化されてしまっている。道徳的内容は、実はどうでもよいのだ。中段と前・後段の関係は逆転し、〈枠づけ〉にすぎないはずの前・後段の権威宣揚が「勅諭」の中心となり、中段は、前・後段が存立するための単なる「口実」となってしまう。――ギトン註〕 

 

 前段と後段で名指される「皇祖皇宗」と「国体」が、これらの徳目の〔…〕正当性を基礎づけようとする〔…〕とき、凡庸きわまる普遍性』にすぎなかった『これら 12箇条が、いきなり「無比」の優越性と特異性の徴 しるし として読み換えられてしまう。この読み換えを駆動する力の――あるいは〔…〕暴力の――発現に、教育勅語の意味作用の真の重点を見なければならない。〔…〕普遍性を特異性に読み換える〔…〕このトリックに、教育勅語の核心はあり、その場合、普遍性の部分が凡庸であればあるほど、それが特異性の顕現を逆にいよいよ際立たせることにもなろう。


 勅語は、〔…〕「自然ノ勢」によって一般習俗と化した徳目』を、ただ凡庸に列挙しつつ、『「自然ノ勢」であること〔…〕がすでに』徳目の正当性を証明していると『見なしているかのようだ。「自然ノ勢」で既成事実化した規範は、単に「自然」であるがゆえに正しい』と主張しているかのようだ。『ただし、その正しさとは、世界的な普遍性からは一線を画するものでなければならないというのが、勅語が暗黙のうちに発している「命令」なのだ。日本において「自然ノ勢」をかたちづくったものは「天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁」であり、始原においてその「勢」を駆動したものは「皇祖皇宗」の励起した「深厚」にして特権的な徳だからである。〔…〕天壤無窮󠄁」――天地のように窮まり無い持続〔=時間――ギトン註〕とは、現実の歴史的時間の外部に投射されたファンタスム〔幻影,幽霊――ギトン註〕である。それは、日本という本来はローカルな〔…〕1トポスの・全世界へ向っての無際限な拡張として、歴史的』現実の機微を欠いた『「自然ノ勢」のとめどない〔…〕展開として夢見られたものだ。その夢想〔…〕は、〔…〕普遍性の試練に遭って試されることなく、ただ、みずからは「無比」である〔…〕との〔ギトン註――根拠なき〕優越性のみを根拠に、〔…〕どこまでも延び広がってゆくことができると信じている。そこには父権的な超自我はなく、何もかもを無限抱擁してくれる母性的な想像界しかない。

松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,pp.241-246. .  

 

 

 『教育勅語』は、凡庸きわまりない徳目群を掲げながら、それらを、「皇祖皇宗ノ遺訓」であり「国体ノ精華」であるとすることによって、凡庸性を「特異性」に読み換え、しかもその「特異性」は、全世界に対して優位する「無比」のものであるとして頂点に吊り上げる。正常な論理的思考では理解不能の、とほうもない増上慢,誇大妄想としか言いようのない・この言説が、この発話主体「朕」の統治の下にある人びとに広く信憑され、その精神を支配しえたのは、なぜか? それは、『勅語』が単なる道徳の説諭ではなく、この「帝国」とネーションが持つ強大な力の幻影を夢見させ、ひいては「臣民」一人一人に特権的利益のトリクルダウンがもたらされるであろうと、信じさせるものであったからにほかなりません。

 

 君主の系譜以外に何の理由もない「万邦無比」を、みずからの至高性の根拠として掲げる『勅語』の固結した教条主義は、内にたいしては、無内容な自尊心を無内容であればこそ尊ぶ・貧困で排他的なナショナリズムを強化しました。その一方、外部に対しては、内実が凡庸である〔紋切り型の徳目――ギトン註〕が故の無際限の優越性〔どこでも通用する徳だが、それを真に体現するのは大和民族だけだ――ギトン註〕を謳歌させ、いかなる侵略も併呑も残虐行為も、それが「帝国」膨張の使命に適 かな うかぎり「正義」と見なす根拠を与えたのです。

 


Gustave Moreau, L'Enfant prodigue, The Prodigal Son , 1890, Musée national 

Gustave Moreau. ギュスタヴ・モロー 『放蕩息子』1890年。©Wikimedia.

 

 

 しかし、松浦氏が↑末尾で述べている「父権」「母性」との関係については、『教育勅語』と・その言説主体「朕」は、必ずしも「無限抱擁」の「母性」のみを体現しているわけではないと私は考えます。むしろ、「父権」的・家父長的な抑圧をより効果的に刷り込むために、「母性」の装いをまとっている、と言ったほうがよい。

 

 その点から、今後の展開を眺望するならば、次のようなキーワードの対比を予告することができるでしょう:

 

「父権」的抑圧 ⇔ 「母性」的無限抱擁

「時間の専制」  ⇔  「天壌無窮ノ皇運」

  社会進化論 ⇔ 無時間的ファンタスム

 

 

 

 

 


 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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