【前回】⇒ 長詩小岩井農場(2)

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 前回ようやく「農場本部」にたどりつきました。「本部事務所」の建物は当時のまま、事務所の機能も当時と変わりなく動いています。「本部」周辺には、今は使われていない倉庫群も幾つか、文化財として残っており、いまは畑や牧草地になっている競走馬訓練用馬場の跡もあります。

 

 

 

小岩井農場資料館」ジオラマ「大正14年当時の小岩井農場」。

2014年7月撮影 。現在の「資料館」にはこの展示は無い。

 

 

 賢治の時代の「本部」付近に競走馬訓練用の馬場が幾つもあったのは、当時「小岩井農場」が、競走馬〔サラブレッド等〕や儀典用馬種〔ハックニー等〕の育成に力を入れていたからです。その背景には、第1次大戦の戦争景気と「成金 なりきん」富裕層の増加がありました。

 

 しかし、まもなく政府は、軍国主義に方向転換し、軍馬の育成を奨励するようになります。そして、「小岩井農場」のような非軍事の経営方針は、当局の圧迫を受けるようになるのです。当局の圧力によって、「場長」の交替までも強いられています。また、全国有数の馬産県だった岩手県は、水沢~盛岡とその周辺に「軍馬補充部」や陸軍の育馬施設,騎兵隊の訓練場などが増設され、しばしば「小岩井農場」の耕地にまで騎兵が入り込んで荒らしてゆく様子が、のちの時期の賢治詩には描かれるようになります。

 

 長詩『小岩井農場』が書かれたのは、まだそうなる前:競走馬育成がさかんだった時代から、軍国主義時代への過渡の時期だったと言えます。

 

 

『馬車のラツパがきこえてくれば
 ここが一ぺんにスヰツツル
〔Switzerland スイス〕になる
 遠くでは鷹がそらを截つてゐるし
 からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし
 いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは
 (騎手はわらひ)赤銅
 しやくどう の人馬 じんば の徽章だ』

宮澤賢治『小岩井農場』「パート3」より .  

 

 

『たったいま影のやうに行ったのは

 立派な人馬の徽章だ

 騎手はわかくて顔を熱 ほて らせ

 馬は汗をかいて黒びかりしてゐた。

宮澤賢治『小岩井農場』草稿より .

 

 

 ↑いずれも「農場本部」付近の馬場の描写ですが、賢治は、人と馬が一体となって疾駆する姿を見ると、ほとんど生理的な…性的と言ってもよい歓喜を覚えたようです。汗や雨に濡れて光る馬の身体を好んで描いています。

 

 「人馬の徽章」は、おそらく当時の日本か外国の騎兵隊のエンブレムに、そういうものがあったのではないかと思います。私の調査では、現在の陸上自衛隊御殿場駐屯地所属の騎兵隊で、ケンタウルスの徽章を持つ部隊があるそうですが、戦前までは調べ切れていません。賢治のモチーフとしては、のちに書かれる『銀河鉄道の夜』の「ケンタウル祭」「時計屋のショウウィンドウの[銅の人馬]」「ケンタウルの村」、また『北守将軍と三人兄弟の医者〔腰が馬の背と一体になって、降りられなくなった将軍〕につながっていきます。「馬車」と「並木」については、のちほどまた出てきた時に説明します。

 

 その前に、「本部」付近の古い倉庫群を見ておきましょう。↓こちらは、1936年築の「乗馬厩 じょうばきゅう」で、移動のための乗用馬や、馬車曳き用の馬を飼養しました。

 

 

 

 

 1898年築の「本部第二倉庫」↓。「小岩井農場」内で現存する最古の建物ですが、現在も使われています。

 

 

 

 

 これらの古い建物のあいだを「賢治の道」が延びています。まっすぐにたどって行くと、旧「育馬部」です。「競走馬」「乗馬」「牽引馬」の飼育がさかんだった時代には、「育馬部」が農場の中心でしたが、第2次大戦で、日本じゅうの馬は中国戦線に「軍馬」として持って行かれ、ことごとく斃死してしまいました。「小岩井農場」とて例外ではありません。戦後の「小岩井農場」は経営方針を大転換し、乳牛,酪農,そのための飼料作物を中心に生まれ変わりました。「育牛部」と「耕耘部」が合併して「酪農部」となり、「育馬部」と「育羊部」〔現在も、「まきば園」の北端に観光用の牧羊が残っています〕は廃止されました。「中丸」付近――賢治の「聖なる地」――に牛舎と牧場が置かれたのも、戦後のことなのです。

 

 

 

 

 これ↓は往路の歩行描写で、「育馬部」のほうから「本部」へ向かっています。

 

 

『木立がいつか並樹になつた
 この設計は飾絵
 かざりゑ 式だ
 けれども偶然だからしかたない
 馬車がたしか三台とまつてゐる
 生
 なま な松の丸太がいつぱいにつまれ
 陽
 ひ がいつかこつそりおりてきて
 あたらしいテレピン油の蒸気圧

 一台だけがあるいてゐる。
    
〔…〕

 この荷馬車にはひとがついてゐない
 馬は払ひ下げの立派なハツクニー
 脚のゆれるのは年老つたため
  (おい ヘングスト しつかりしろよ
   三日月みたいな眼つきをして
   おまけになみだがいつぱいで
   陰気にあたまを下げてゐられると
   おれはまつたくたまらないのだ
   威勢よく桃いろの舌をかみふつと鼻を鳴らせ)
 ぜんたい馬の眼のなかには複雑なレンズがあつて
 けしきやみんなへんにうるんでいびつにみえる……』

宮澤賢治『小岩井農場』「パート3」より .  

 

 

 ここで「飾り絵式」の「並木」と言っているのは、「網張街道」〔トップの地図↑参照〕を両側から挟む杉並木で、現在では成長して、街道の路をほとんど塞いでしまっています↓。

 

 

 

 

 

 「ハックニー」は、儀典用の馬種で、スラっとした端正な姿で、きれいな足並みを見せて歩くので、貴人〔皇族など〕の乗る馬車の牽引などに適しています。しかし、↑ここで登場したハックニーは、退役して「農場」に払い下げられた老馬。「競走馬」「乗馬」の飼育を中心とする「農場」経営が、軍国主義の圧力のもとで “時代遅れ” と見なされつつある世相を映しているのかもしれません。

 

 旧「育馬部」の前で、道は右に折れ、「農場入口」に向かいます。

 

 

 

 

 ここ↓は、「農場」の「診療所」でした。今も、古い建物が残っています。賢治は往路の道すがら、「診療所」へ出勤する医師にも出遭っていますが、それは、「農場入口」より手前〔農場外。駅寄り〕で描かれます。

 

 

 

 


 「農場入口」を、農場の外〔南側〕から撮しています↓。賢治の時代にあった立て札は、今はありませんが、「鳥獣保護区」の赤い標識が見えます。ガードレールは小さな橋で、「巡り沢〔農場内に水源がある〕という小川が流れています。

 

 

 

 

『もう入口だ小岩井農場
   (いつものとほりだ)
 混んだ野ばらやあけびのやぶ
 もの売りきのことりお断り申し候
   (いつものとほりだ ぢき医院もある)
 禁猟区 ふん いつものとほりだ。
 小さな沢と青い木
 こ だち
 沢では水が暗くそして鈍つてゐる
 また鉄ゼルの fluorescence
 向ふの畑には白樺もある』

宮澤賢治『小岩井農場』「パート3」より .  

 


 「入口」両脇の「小さな沢」。賢治が「鉄ゲルのフルオレッセンス」と呼んだ濁った流れが今もあります。「鉄ゲル」は、酸化鉄 Fe2O3 のコロイド。「フルオレッセンス」は、蛍光塗料の緑色っぽい光

 

 

 

 


 「農場入口」から外に出ると、広い田畑が開けます。「農場」には無かった水田もあります。遠くの山は紫波山塊で、一番高く見えるのは「箱ヶ森」。

 

 

 

 

 

『うしろから五月のいまごろ
 黒いながいオーヴアを着た
 医者らしいものがやつてくる
 たびたびこつちをみてゐるやうだ
 それは一本みちを行くときに
 ごくありふれたことなのだ
 冬にもやつぱりこんなあんばいに
 くろいイムバネスがやつてきて
 本部へはこれでいいんですかと
 遠くからことばの浮標
 ブイ をなげつけた
 でこぼこのゆきみちを
 辛うじて咀嚼
 そしやく するといふ風にあるきながら
 本部へはこれでいゝんですかと
 心細さうにきいたのだ
 おれはぶつきら棒にああと言つただけなので
 ちやうどそれだけ大へんかあいさうな気がした
 けふのはもつと遠くからくる』

宮澤賢治『小岩井農場』「パート2」より .  

 


 往路の歩行描写↑。「農場」へ出勤する医師を見かけています。「イムバネス〔inverness〕」は、ヒラヒラの厚手のケープ(マント)をコートの上に羽織る防寒具。シャーロック・ホームズのトレード・マークです。「インバネス」と聞いて解る男の人は、かなりお洒落でしょう。賢治研究家には〔大学教授でも!〕知らない人が多くて、なにか恐ろし気な妖魔のようなものを想像しているのが微笑ましい。ともかく、未舗装だった時には、この道は冬になると泥んこで歩きにくかったようです。「インバネス」の紳士とのやり取り(賢治は例によって農学校の黄色い実習服)、世間の “ひとかど” の人物に対する賢治の複雑な心理が覗いています。

 

 この耕野、現在は水田が大部分ですが、当時は畑が多かったようです。そして、おそらくは「小岩井農場」の農業に影響を受けた畜力耕作が行われていました:

 

 

『そしてこここそ畑になつてゐる
 黒馬が二ひき汗でぬれ
 犁
 プラウ をひいて往つたりきたりする
 ひわいろのやはらかな山のこつちがは
〔側〕

         〔…〕
 はたけの馬は二ひき
 ひとはふたりで赤い
 雲に濾
 こ された日光のために
 いよいよあかく灼
 や けてゐる
 冬にきたときとはまるでべつだ
 みんなすつかり変つてゐる
    
〔…〕
 ほんたうにこのみちをこの前行くときは
 空気がひどく稠密で
 つめたくそしてあかる過ぎた
 今日は七つ森はいちめんの枯草
 かれくさ 
 松木がおかしな緑褐に
 丘のうしろとふもとに生えて
 大へん陰欝にふるびて見える』

宮澤賢治『小岩井農場』「パート1」より .  

 

 

 詩にあるように、「七ツ森」がよく見えます:

 

 

 

 

 

 「七ツ森」のうち、ここでいちばん近くに見えるのは「三手 みて ノ森」。『小岩井農場』の詩句で「冬」「この前行くとき」と言われているのは、1月初めの農場訪問で、その時の「スケッチ」詩は、これです:

 

 

『  屈折率

 七つ森のこつちのひとつが
 水の中よりもつと明るく
 そしてたいへん巨きいのに
 わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
 このでこぼこの雪をふみ
 向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
 陰気な郵便脚夫
 きやくふ のやうに
    (またアラツディン、洋燈
 ラムプ とり)
 急がなければならないのか』

宮澤賢治『春と修羅』より「屈折率」 .

 

 

 

 

 

 「仁沢瀬 にさせ 分岐」↑に達します。このまま「網張街道」をまっすぐに行けば、「仁沢瀬」という雫石川の屈曲点にぶつかります。「賢治の道」は、ここを右に折れて「小岩井駅」へ向います。

 

 

 

2014年7月撮影 1枚。

 

 

 駅前に、長詩『小岩井農場』の詩句を刻んだ碑があります。下の6行目以下。

 

 

『つつましく肩をすぼめた停車場 ば 
 新開地風の飲食店
 ガラス障子はありふれてでこぼこ
 わらじや sun-maid のから凾や
 夏みかんのあかるいにほひ
 汽車からおりたひとたちは
 さつきたくさんあつたのだが
 みんな丘かげの茶褐部落や
 繋
 つなぎ あたりへ往くらしい』

宮澤賢治『小岩井農場』「パート1」より .  

 


 「小岩井駅」の現在の駅舎は、瓦葺きのレトロな装いですが、実は、ごく最近のリニューアルです。12年前には、↓こうでした:

 

 

 

2014年7月撮影 2枚。

 

 

 駅舎の前から、「農場」への道を振り返ります↑。現在はたくさんの家が建って、町になっていますが、賢治の当時は、上の詩句にもあるように、駅前に2~3軒が立っているだけの「新開地」でした。「夏みかん」や「わらじ」を置く雑貨店があったようです。ほかには、ここを賢治とともに訪れた森荘已池〔当時中学生。のち直木賞作家〕によると、信じがたいほど不味い「そば屋」と、利用する客が無いためにすぐ廃業した「自働車屋」〔個人タクシー〕だったとか。

 

 

 

 

タイムレコード 20260603 無印は気圧高度。
 (2) から - 1311「農場本部」[248mGPS]1320 - 1335「農場入口」[233mGPS] - 1358「仁沢瀬」分岐[227m]1404 - 1410「小岩井」駅[218mGPS]。

 

 踏査記録⇒:YAMAP