「小岩井小学校」跡から、賢治の歩いた道すじに沿って下っていくと、目の前に「四ツ森」という・樹木が伐り残された丘が見えてきます。左の白い柵がバス通りです。
「四ツ森」のヘリの向こうに、紫波山塊の一部が見えます。左から、「毒ヶ森」「東根山」「高倉山」のようです。地形図とにらめっこした揚げ句に、そういう結論なのですが、この山域の峰は、眺める角度によって形が大きく変わるので、山名の同定はなかなか難しいです。
その山並みよりも手前に、「小岩井」付近のまん丸い丘が3つ見えます。左から、「長森」「沼返山」「杉合森」。
ここでバス通りに合流します。「四ツ森」が大きく見えてきました。道路の右側は牧場で、「中丸牛舎」があります〔ここ「中丸」の牧場も牛舎も戦後の設置。賢治の時代には無かった〕。
2017年5月撮影 1枚。
この、「四ツ森」を越えるあたりを賢治は、「der heilige Punkt」〔デァ ハイリゲ プンクト。神聖な地点。聖なる場所〕とドイツ語で呼んでいました。
『さうです、農場のこのへんは
まつたく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der heilige Punkt と
呼びたいやうな気がします』
宮澤賢治『小岩井農場』「パート9」より .
「聖なる地」と呼んだのは、ここに来ると、なぜかいつも詩的な幻想が溢れ出てしまうからです。晴天ならば晴れやかな幻覚が。曇天・雨天ならば怪しげな想念が。
と、そこまでは、賢治研究家のあいだで共通の解釈ですが、私はそれらの幻覚は単なる詩想ではなく、それぞれに現実的な根拠があると考えています。そのことはおいおい述べるでしょう。
「四ツ森」を越えて、下から「聖なる地」を眺めてみましょう:
2017年5月撮影 。晴れた日には岩手山がよく見える。
左に「中丸牛舎」が見えます。左から右へカメラを回していきます。
2017年5月撮影 1枚。
この・「四ツ森」を越える路:現在はりっぱな舗装道路ですが、賢治の時代には、飼料畑と草原のあいだを縫ってゆく・か細い “近道” でした。往路で賢治は、ここで、後ろ〔小岩井駅方面〕から来る小学生の一団に出会っています:
『すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ
ちらちら瓔珞 やうらく もゆれてゐるし
めいめい遠くのうたのひとくさりづつ
緑金寂静 ろくきんじやくじやう のほのほをたもち
これらはあるひは天の鼓手、緊那羅 きんなら のこどもら
(五本の透明なさくらの木は
青々とかげらふをあげる)
わたくしは白い雑嚢をぶらぶらさげて
きままな林務官のやうに
五月のきんいろの外光のなかで
口笛をふき歩調をふんでわるいだらうか
たのしい太陽系の春だ
みんなはしつたりうたつたり
はねあがつたりするがいい
(コロナは八十三万二百……)
あの四月の実習のはじめの日
液肥をはこぶいちにちいつぱい
光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴つた
(コロナは八十三万四百……)
〔…〕
どのこどもかが笛を吹いてゐる
それはわたくしにきこえない
けれどもたしかにふいてゐる
(ぜんたい笛といふものは
きまぐれなひよろひよろの酋長だ)
みちがぐんぐんうしろから湧き
過ぎて来た方へたたんで行く
むら気な四本の桜も
記憶のやうにとほざかる
たのしい地球の気圏の春だ
みんなうたつたりはしつたり
はねあがつたりするがいい』
宮澤賢治『小岩井農場』「パート4」より .
賢治は、子どもたちを、「天の鼓手、緊那羅〔仏教の歌舞神。半人半鳥。天龍八部衆の一〕のこどもら」とまで褒めたたえていますが、それはおそらく単なる幻想ではなく、根拠があったと思います。「小岩井農場」の子供たちは、当時の厳しい軍国教育下の一般の小学生よりも伸び伸びとしているように、賢治には見えたのではないでしょうか?「四月の実習」は、賢治自身が指導した「稗貫農学校」の農作業実習の記憶を重ねています。
この詩『小岩井農場』を書くために賢治が農場を歩いたのは、勤務のない日曜日に限られていました。子供たちが日曜の朝に学校のほうへ歩いているのは、ふだんの登校ではなく、時期から言って、運動会の練習に行くためだったと推定されています。「小岩井小学校」の卒業生の回想文や聞き取りを見ると、楽しかった運動会の思い出を語る人がとても多いのです。そういうことからも、賢治が遭遇した子供たちは伸び伸びとして見えたのでしょう。
緊那羅(キンナラ)。
つぎの↓部分は、復路で、この時点では天候がくずれて、かなり強い雨になっています。幻想の内容も大きく変貌しています:
『 (ひばりが居るやうな居ないやうな
腐植質から麦が生え
雨はしきりに降つてゐる)
さうです、農場のこのへんは
まつたく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der heilige Punkt と
呼びたいやうな気がします
この冬だつて耕耘部まで用事で来て
こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
なにとはなしに聖いこころもちがして
凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
いつたり来たりしてゐました
さつきもさうです
どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は』
宮澤賢治『小岩井農場』「パート9」より .
『雨はふるけれども私は雨を感じない。
たしかに
私の感覚の外でそのつめたい雨が降ってゐるのだ。
ユリアが私の右に居る。私は間違ひなくユリアと呼ぶ。
ペムペルが私の左を行く。透明に見え又白く光って見える。
ツィーゲルは横へ外れてしまった。
はっきり眼をみひらいて歩いてゐる。
あなたがたははだしだ。
そして青黒いなめらかな鉱物の板の上を歩く。
その板の底光りと滑らかさ。
あなたがたの足はまっ白で光る。介殻のやうです。
幻想だぞ。幻想だぞ。
しっかりしろ。
かまはないさ。
それこそ尊いのだ。
ユリア、あなたを感ずることができたので
私はこの巨きなさびしい旅の一綴から
血みどろになって遁げなくてもいゝのです。
〔…〕
さっきはこゝで小さな
透明な魂の一列を感じました。あれはどこの人たちですか。
いまはあなた方を見たのです。
あなた方はけれどもまだよく見えません。
眼をつぶったらいゝのですか 眼をつぶると天河石です、又月長石です。
おゝ何といふあなた方はきつい顔をしてゐるのです
光って凛として怖いくらゐです。
羅 うすもの は透き うすく、そのひだはまっすぐに垂れ鈍い金いろ、
瓔珞もかけてゐられる
あなた方はガンダラ風ですね。
タクラマカン砂漠の中の
古い壁画に私はあなたに
似た人を見ました。〔…〕』
宮澤賢治『小岩井農場』草稿より .
この “幻覚” の根拠は、賢治自身が説明を書き残しているわけではないので、推し測るのも難しいです。が、「ユリア、あなたを感ずることができたので/私はこの巨きなさびしい旅の一綴から/血みどろになって遁げなくてもいゝのです」という一節などは、ただの詩的空想とは思えない・現実的な悩みごとを伴なっているように見えます。
私は、菅原千恵子氏らの解釈説を採りたいと思います。「ユリア」「ペムペル」「ツィーゲル」は、「盛岡高等農林学校」生時代の仲間であった、文芸同人誌『アザリア』の中心メンバー3人を指している、という見立てです。卒業(1名は強制退学)後、3名はそれぞれ、アメリカへ〔表向き留学、内実は〕農業移民、長野県,鳥取県などの臨時教員、山梨県で兵役、というように各地に散らばって苦労を重ねていました。雨天のなかで、その仲間たちと “出遭う” 幻想体験をしたことから、賢治は自身も、慣れない学校勤務生活に立ち向かってゆく勇気を奮い起こしているのです。
Castor & Pollux, 1c.AD, Museo del Prado. 「双子座」。
それにしてもなぜ、彼らは、驟雨とともに天から舞い降りるようにして現れ、賢治と並んで歩き始めたのでしょうか? 私は、つぎの詩がヒントになると思っています:
『堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます。
実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。
まことにこれらの天人たちの
水素よりもっと透明な
悲しみの叫びをいつかどこかで
あなたは聞きはしませんでしたか。
まっすぐに天を刺す氷の鎗の
その叫びをあなたはきっと聞いたでせう。
〔…〕
けれどもたゞさう考へたのと
ほんたうにその水を噛むときとは
まるっきりまるっきりちがひます。
それは全く熱いくらゐまで冷たく
味のないくらゐまで苦く
青黒さがすきとほるまでかなしいのです。
そこに堕ちた人たちはみな叫びます
わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか
堕ちたといふことがあるのかと。
全くさうです、誰がはじめから信じませう。
それでもたうたう信ずるのです。
そして一さうかなしくなるのです。〔…〕』
宮澤賢治『春と修羅・補遺』より[堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます] .
弥勒菩薩(各左)、キジル千仏洞壁画、新疆・亀茲、6世紀。
首・胸・腕・腰周りに「瓔珞」を着けている。
賢治は、自作の多くの詩草稿に日付をつけていますが、この〔堅い瓔珞…〕は、『小岩井農場』と同じ「1922.5.21.」の日付を持っています。したがって、農場歩行時のメモや詩想がもとになって、長詩『小岩井農場』とともに・この短い詩草稿も生まれたと思われるのです。
また、賢治没後に彼の部屋の押し入れから発見された断片のうちにも、日付不明ですが、これと共通した詩想が認められるものがあります。雨の水滴とともに落ちてくる幼い魂らに向って、親愛をこめて呼びかけている内容です。
このように、賢治には、天上の世界から「天人」が地上に堕ちてきて人間界に生れ落ち、天上の精神と感性を失わずに生きようとするために苦痛と苦労を重ねる、という一種の《堕天使》モチーフがあったようです。童話『雁の童子』は、それを作品化した一つの形だと言えるでしょう。
また、賢治が、妹とし子のタヒ〔1922年11月〕を、著しく浄化された形で受け止めるのも、妹の早逝が、たまたま時期的に高揚した賢治のモチーフに嵌まり込んでしまったためではないかと〔聖化された「とし子」像を奉ずる賢治研究家諸氏からは、顰蹙を買いそうですが〕、私は考えています。
さて、ここまで下りてくると、「小岩井農場本部」は、すぐ先です。「本部事務所」の木造建物↓は 1903年築ですが、現在もそのまま農場組織の中枢として稼働しています。
2017年5月撮影 。
タイムレコード 20260603 無印は気圧高度。
(1) から - 1203「耕耘部」への分岐[284mGPS]1215 - 1253「聖なる地点」下の細道分岐[255mGPS]1257 - 1311「農場本部」[248mGPS]1320 - (3) につづく。




















