Auguste Renoir, Tréboul, près de Douarnenez, 1895.
ルノワール『ドゥアルヌネ近郊のトレブル』1895年。 ©PinterestLarge.
【46】 『教育勅語』制定の動機・目的
『教育勅語』の、明治の支配者にとっての役割、ないし制定目的に関する松浦氏の解明は、諸学説のなかでも特異なものではないかと思われます。松浦氏の主張の勘所を乱暴な言い方でまとめると、『教育勅語』は、急速な近代化で苦しむ民衆に、苦痛からの〈気晴らし〉ないし癒しを与えて、より一層の「時間の支配」への屈従に向かわせるものだった、というのです。
そこでまず、一般的に、『教育勅語』制定の動機・目的についてどんな学説があるかを調べてみましょう。
【A説】復古道徳・精神統制説
明治前半期に盛行した欧化主義の風潮に対して、伝統的な道徳教育を復興し、国家主義への精神統制を確保しようとした。
通説ないし政府解釈と言ってよいと思われます。たとえば「国立公文書館」HP では、「明治政府は、学制〔1872〕,教育令〔1879〕等により近代教育制度の整備を進めたが、その結果として伝統的な道徳教育が軽視されるとの危機感を持つ者も増えた。そこで『教育勅語』は、教育の基本方針として、忠君愛国など皇祖皇宗以来の徳目の遵守・実践を天皇が臣民の前で希望する形式をとった。」〔一部要約――ギトン〕と説明されています。
【B説】ネーション統合・思想統制説
通説と同様に、欧化主義に対する伝統的道徳教育の復興が制定の動機にあったことを認めるが、それ以上に、『教育勅語』は 1890年11月の第1回「帝国議会」開会に先立って起草され・その前月に発布された点を重視する。
たとえば、人民の権利・自由を主張する自由民権派の思想が広がることを恐れた明治政府は、君主国家への国民の忠誠、つまりは教育を通じた思想統制を狙って『教育勅語』を制定したとする(刀剣ワールド)。そして、立憲君主制国家において・主権者である天皇と臣民との関係を倫理的に裏付け、近代的ネーション・ステイトへの統合をめざすイデオロギー装置として、『教育勅語』を位置づける。
つまり、【A説】は、欧化にたいする復古・反動と見る見解と結びつきやすいのに対し(日本共産党など左翼の見解も、意外に【A説】に近いのです);【B説】は、大日本帝国憲法のもとでの近代国家(nation state)建設という・いわば進歩の面をも見ようとするわけです。
【C説】 啓蒙・近代化推進説
【A説】とは逆に、『教育勅語』に開明的・進歩的な方向をもっぱら見ようとする。教育行政の近代化をめざして、井上毅 こわし ら開明的官僚が起草にあたった点を重視する。そして、儒教的な徳目を取り入れつつも、それを西洋的な市民道徳と調和させ、国家の基礎となる自立した近代国民の育成を目標としたとする。(たとえば、元文化庁長官安嶋彌)
じっさいの『教育勅語』のテクストとその制定過程を見るときは、【C説】はあまりに一面的なオプティミズム一色の見解だと言わざるをえません。しかし、『教育勅語』と「啓蒙」思想との関係、また、起草にあたったのは儒学者でも神祇官でもなく、もっぱら井上毅らドイツ流の開明的「啓蒙」官僚であった事実をどう考えるのか? ‥という【C説】が提起している問題は重要です。
以上のような、『教育勅語』の制定目的に関する学説の対立状況を見ると、そこから課題として浮かび上がってくるのは、①【B説】が提起する:「ネーション国家」建設における『勅語』の位置づけという問題。明治14年政変〔1881〕~帝国憲法制定・国会開設〔1890〕の約10年間を画期としてネーション統合・対外侵略へと向かっていく明治国家にとって、『勅語』はどんなイデオロギー装置として装備されたのか、という問題です。②【C説】が提起する、『教育勅語』と「啓蒙」的開明思想との関係も重要と思われます。
徴兵逃れの指南書の表紙。
そこでひとつ思いつくのは、『教育勅語』の制定過程において、井上毅ら起草者たちが、できあがった『勅語』のテクストは、国内のいかなる思想傾向の者をも納得させるものでなければならない、として、極端な言説、あるいは、特定の宗派・思潮に偏った見解を除去するために細心の注意を払ったという点です。たとえば、当初の中村正直草案にあった「天」の字がことごとく排除されたのは、それがキリスト教を想起させる語と見られたためでした。そして、『日本書紀』「天孫降臨」段を出典とする「天壌無窮」が、唯一の「天」字を含む語として採用されました。つまり、井上毅ら開明官僚は、「ネーション統合」を至上の目標として追求していたことが判ります。そのためには、『勅語』のテクストがカドのとれた常識的な通俗なものになってしまうことも、厭わなかったのです。発布された『勅語』に対して、儒・仏,神祇,和・洋,民権,国粋など各派から毀誉褒貶が浴びせられることなどは、何としても避けなければならないと考えられたのでした。
そこで、次節では、『教育勅語』の起草・制定過程を、松浦氏の論述に沿って、やや詳細に追ってみたいと思います。
【47】 『教育勅語』の起草過程
『教育勅語』の起草過程は 1890年2月に始まります。同年10月30日には、翌月の第1回帝国議会招集を睨んで完成・公布されています。つまり、わずか1年足らずの準備期間で成立しているのです。これほど重い歴史的意義をもった文書にしては、期間が短い。10年に近い制定(準備・起草・枢密審議)過程を経て公布された「帝国憲法」と比べれば、あまりに短いと言わざるをえません。しかし、そのことは、『教育勅語』がテキトーに粗忽に造られたことを意味しません。むしろ、起草者たちがいかに、この仕事を喫緊の使命と感じて短期間に集中したかを物語っています。もっとハッキリ言えば、「第1回帝国議会招集」にはどうしても間に合わせなければならないという、彼ら政府官僚の切羽詰まった危機感を、そこに見ることができるのです。
『教育勅語』起草の「直接の契機は、内閣総理大臣山縣有朋の影響下にある地方長官会議が 2月26日に[徳育涵養の義に付建議]を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。」山縣は「文部大臣榎本武揚に道徳教育の基本方針を立てるよう命じた〔…〕が、榎本は」道徳教育には消極的だったので従わず、その「ため更迭され」た。後任文相に就いた山縣の腹心芳川顕正は、起草を「中村正直に委嘱」した。(Wiki)
中村正直は、福沢諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ明治初期啓蒙思想の名著『西国立志編』〔サミュエル・スマイルズ『自助論』の翻案〕の著者であり、「明六社」の設立メンバーとして活動した啓蒙主義者でした。明治7年にはメソジスト教会で洗礼を受けています。
Paul Gauguin, Paesaggio, 1901, Musée de l'Orangerie.
ポール・ゴーガン『風景』1901年、オランジュリー美術館。 ©Wikimedia.
しかし、「中村草案」は、内閣法制局長官井上毅から強い反対を受けました。井上の主な反対理由は、「中村案」の「宗教色・哲学色」にありました。たとえば、「中村案」には「天」という語が何度も出てくるのですが、当時にあっては、「天は人の上に人を造らず」(『学問のすゝめ』)、「天は自ら助くる者を助く」(『西国立志編』)というように、「天」は儒教の「天」の意味から連想して、キリスト教の「神」を意識させる語でした。井上は、このようなテクストが『勅語』として公表されれば、宗教上の批判や争いを惹起することになるとして恐れたのです。井上は山縣の諮問に答えた手紙で書いています:「此勅語には敬天愛神等之語を避けざるべからず、何となれば此等之語は忽ち宗旨上之争端を引起すの種子となるべし」(『明治の表象空間 中』,p.201)。つまり、「中村案」は、キリスト教色・西洋思想色があると見られたために、結局採用されませんでした。
『中村草案の最初期形では、「天」が主導概念として全篇にわたって執拗に反復されている。〔…〕そこにはまず、忠孝を尽くすことが「天意ニ叶フ」道であるといったごく平凡〔…〕な儒教的「天」概念があり、それが草案全体の道徳的トーンを決定してもいる。〔…〕
そればかりではない。「忠孝ノ心ハ天ヲ畏ルヽノ心ニ出デ、天ヲ畏ルヽノ心ハ人々固有ノ性ニ生ズ、サレバ天ヲ畏ルヽノ心ハ即チ神ヲ敬フノ心ニシテ……」に至って「神」概念が導入され、「天」はこれとほとんど等置されることになる。〔…〕「深夜暗室ノ中ニ在テ発生スル所ノ一念ハ、善ニモアレ悪ニモアレ〔…〕天ノ昭臨スル所ナレバ自 おのづか ラ青天白日、公衆ノ面前ニ発覚シ〔…〕隠セドモ隠サレズ、〔…〕之ヲ知ラバ、人々争 いか デカ〔…〕天ヲ畏レ神ヲ敬ハデハアルベキ」といった一文を見れば、この「天=神」にキリスト教的〔ギトン註――プロテスタント的〕含意があることは明らかだ。〔…〕個人の内面の良心にまで「昭臨」する人格神の全知全能とそれへの畏敬だからである。それはいわば超越的審級の内面化であるが、中村はこれを「吾心ハ神ノ舎 やどり スル所ニシテ天ト通ズル者ナリ」と言い換えてもいる。
この中村正直案に加えられた修正のうちもっとも大きなものは、「天」「天意」の語のほぼ網羅的な削除である。〔…〕中村草案に従うかぎり、国民が帝室にたいして忠誠を誓わなければならないのは、それが「天意ニ叶フ」からであって、その対象が帝室だからではない。中村草案を貫く思想は、天皇という歴史的実体よりも上位に「天」という超越的原理があり、それこそがあらゆる倫理的価値の源泉であって、天皇への忠誠というモラルもまた畢竟、その「天意」から発する副次的帰結の一つにすぎないというものだ。』
松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,pp.197-199.
このような制定経過を見ると、最終的に確定した形の『教育勅語』が、国民道徳の模範であるかのように発布され学校教育を支配したことは、結果的には日本人の道徳意識を空洞化する役割を果たしたのではないか、という思いを禁じえません。天皇への「忠」、家父長への「孝」という徳目は、なるほど、現在のわれわれの倫理感から見れば不合理なものです。しかしそれは、「中村草案」では、「天」ないし「神」への畏敬という深い道徳意識に支えられるはずでした。それはルター的な神義信仰に発するとしても、儒教倫理とも結びついていました。その、いわば道徳の「核」を排除してしまった空っぽなドグマが「中村草案」に代わって造出され、「国体」として、あたかもそれこそが日本人の道徳の最高峰であるかのように祭り上げられたのです。日本の侵略戦争における最低線の兵士の行動から、「731部隊」のような高学歴層の行為までに見られる恐るべき反倫理性を見るとき、その根底に、『教育勅語』による〈虚無の刷り込み〉のような、人間としての最低限の倫理をも空洞化してしまう動因を想定しなければ、これはどうにも理解しがたい、と私には思われるのです。
Arnold Genthe, Travel views of Japan and Korea, 1908. より。
ともかく、「中村案」が没になった結果として、中村に代わって井上毅が起草を担当することになり、「井上草案」が提出されました。「井上草案」が、数次にわたる修正を経て、1890年10月『教育勅語』として明治天皇の名で公布されるのですが、内容の骨格は井上の原案からほとんど変わっていません。
明治初年から、神道ないし儒教に基いて天皇国家の精神的統一を固めようという主張は、政府部内で一貫して唱えられていました。明治 3年〔1870〕に公布された『大教宣布の詔 みことのり』は、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を「祭政一致の国家」とする基本方針を示していました。この詔は、「神祇官」内の・平田派復古神道〔江戸後期の国学者平田篤胤 あつたね が大成した教派で、儒教・仏教の影響を受ける前の日本固有信仰の復元を標榜する――ギトン註〕を奉ずる国学者が中心となって打ち出したものです。しかし、「廃仏毀釈」への批判や、欧米政府からの「キリスト教弾圧〔明治初年には、カムアウトした隠れキリシタンや新規入信者に対して激しい弾圧・刹戮が繰り返された。遠藤周作など参照――ギトン註〕」停止要求が重なり、「神祇官」の「祭政一致」構想がそのまま実現したわけではありませんでした。
1879年には、明治政府の教育方針として『教学聖旨』が天皇の名で発令されています。「学制」〔1872〕以来の教育政策は「知育」に偏っていたとして、儒教による「徳育」の重視を命じたものです。これを起草したのは、保守的儒学者で宮内官僚の元田永孚 ながざね でした。侍補〔天皇の最側近――ギトン註〕として明治天皇の信任を得ていた元田は、天皇親政を主張し、欧米流の官僚国家による近代化には強く反対。それだけに、伊藤博文ら開明派官僚の反発も強く、これまた明治政府の唯一の教育方針とまではなりえませんでした。ただ、元田らの超保守的・復古的な思想は、政府部内の有力な論調として一貫して影響を与え続けていました。
1890年の『教育勅語』制定にあたっても、山縣有朋・井上毅らは、枢密顧問官となっていた元田のほか復古主義宮内官僚の意向を、無視することはできませんでした。「井上草案」は、起草の最初から、元田らの儒教的復古主義と、中村・福沢ら在野啓蒙派とのあいだで調停をはかるべく苦心した折衷の産物だったのです。「[啓蒙]と[天皇]との和解を模索する井上草案には、もともと『教学聖旨』以来の元田の思想への十分な配慮があり」ました。(『明治の表象空間 中』,p.207.)
『帝国憲法』が公布された 1889年2月11日には、政府上層部最左翼の啓蒙派官僚で〈明六社〉設立の中心でもあった森有礼〔初代文部大臣。道徳教育の基礎を西洋倫理学に求めようとしていた――ギトン註〕が、国粋主義者の襲撃を受けて翌日タヒ亡する事件が起き、政府に衝撃を与えています。その一方で、在野の自由民権派も、度重なる強硬な弾圧を受けて衰えていたとはいえ、国民の間ではなお根強く支持されており、新設の『帝国議会』には多くの議員を送りこむことが予想されました。山縣・井上らにとっては、翌年の『帝国議会』召集までに、何とかしてこの国論分裂状況を収拾しなければならない、それに失敗すれば、彼らの「帝国」は民選議会の成立とともに崩壊しかねない、という危機感は、きわめて現実的なものだったのです。
井上毅は、思想的には西洋「近世哲学」を奉じ、「啓蒙」の側でダーウィン,スペンサーらの「社会進化論」に基いて、儒教的な神政政治も中村正直のようなキリスト教的「天神」信仰も否定していました。が、その一方で〔啓蒙的開明官僚の二重性!――ギトン註〕、「国家に仕える官僚」であり欧化的「国家主義者」であった彼「の至上命題は、プロイセン流の立憲君主国家の創出にほかならず、〔…〕彼の第一の関心は、この『勅語』を誰からも」指弾されえない「[至尊の言説]として」創り上げ、強固な君主国家の接合剤とすることにあったのです。『帝国憲法』の発布から『帝国議会』召集に至る 21か月間は、「[啓蒙]と[天皇]との間に何らかのイデオロギー的調停をはかることが」井上ら「国家主義者」には「切迫した急務と認識された、危機的[画期]にほかならなかった。」(『明治の表象空間 中』,pp.205-206.)
帝国議会「仮議事堂」。第1回帝国議会当時、正規の議事堂は建設中であり、木造の
「仮議事堂」が議場とされた。天皇の乗った馬車が議場に向う。国立国会図書館蔵
井上が山縣にあてた前述の手紙で、井上は『教育勅語』起草の方針を7項目に分けて語っているのですが、それらはいずれの項目も「~すべからず」「~を避けざるべからず」という消極的な否定の形で書かれており、そこには、「何らかの積極的な価値〔…〕ポジティヴな規範を定立すること」じたいを避けなければならない、避けることによって、諸派の争いを防がなければならないという、井上の過剰なまでに没価値的な姿勢が読み取れます。「政治も宗教も哲学も避けねばならず、またそこに[漢学の口吻]も[洋風の気習]も持ちこんではならない」というのです。
これに対して、井上とは異なる “諸派統合” の考え方が、中村正直流の〈シンクレティズム〔諸教混淆〕〉です。「すべては[天]の定めるところであり、そこに儒教もキリスト教も国学神道も何もかも合流するといった中村流の言説は」、明治前半期の「楽天的な啓蒙主義のパラダイムに属するものと言ってよい。」その後「自由民権」の軋轢とその圧伏を経た『帝国憲法』施行の危機的時期に、「[啓蒙]と[天皇]との」ぎりぎりの対立を和解させようとするにあたって、「中村正直の提起したようなシンクレティックな〔ギトン註――どうにでも受け取れるようなナァナァ的な〕[天]原理」では、危機的対立の収拾を達成できないことが明らかでした。
しかも、「中村案」に顕著に見られるような、権威を超える「超越的原理としての[天]」の措定は、天皇の「権威の絶対性に、思想的=ステータス的な混濁をもたらさずにはおかない」のです。これは、元田ら天皇側近の復古主義官僚と国粋主義者が最も警戒するところであり、井上ら開明派官僚も、両翼の統合と「和解」をめざす以上、この種の「天」原理は、細心の注意を払って除去しなければならないと考えたのです。
井上らのこのような配慮のもとに練り上げられた『教育勅語』本文に見られる特性は、いわば一種の・思想の「空洞化」であったと言えます。(『明治の表象空間 中』,pp.202,207,209.)
ほぼ3段に分かれる『教育勅語』のテクストにおいて、『道徳の教えとしての実質的内容をなすのは、「ナンヂ臣民父母ニ孝ニ……」から始まる中段である。〔…〕親孝行から国法の遵守まで、ここに挙げられている 12の徳目の、なんと平凡、なんと無個性的であることか。政治も宗教も哲学も避け、誰からも』批判『されない消極性に徹した結果、残ったものは〔…〕日常的な「五倫の徳」とそのコロラリーだけになった。そして、このテクストが途方もない〔…〕成功を収めえた理由の第一〔…〕が、突出したものをことごとく排除し、ありきたりの紋切り型のオンパレードに終始する〔…〕にあることは明らかだ。〔…〕井上の戦略がみごとに図に当たったのである。』
松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,p.209. .
次節以下では、じっさいに『教育勅語』のテクストを見ながら、「空洞化」などの諸点を検証していきたいと思います。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!







