Lucien Lévy-Dhurmer, La Bourrasque (The Squall or The Gust of Wind), 1896.
リュシャン・レヴィ=デュルメル『突風』1896年。 ©Wikimedia.
【43】 「時間の支配」とボードレール
『「時間の支配」は、19世紀に至って、かつてなかったほど〔…〕強制力を発揮しつつ資本主義社会の構成員の日常生活に浸透した。産業革命以後、〔…〕製造工程の効率化の進展とともに、〔…〕資本主義は社会の成員一人一人に、利益追求の有能なエージェントとしての自己成型を求めた。〔…〕経済主体としての個人は、みずからの身体に固有の生物学的な時間(生命の時間)をあえて捩じ曲げて、それを生産と流通のシステムを統轄する社会的な時間(労働の時間)に従属させなければならない。そうした労働生活のモデルをシミュレーション的に内包した学校教育の制度の内部に、人々は幼少期から取り込まれ、そのモデルへの馴致、すなわちパンクチュアルな「規則正しい」生活習慣の内面化を強制される。時計が生活の必需品となり、それが冷酷に刻む〔…〕機械的時間に即して生活全体のリズムを構築しなければならない。それに耐えられない者は、阿片の恍惚に逃げ込むか、神経症を病むしかない。』
松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,pp.248-249.
以上のような近代文明批判の言説は、決して松浦氏の独創ではありません。むしろ、今時ではもう言い古されていると言ってよい。が、松浦氏がここでこの議論を引いてきたのは、明治日本の言説空間における『教育勅語』の位置と役割が、このことに大きく関わっているからです。文中にもあるように、明治政府が導入した近代的「学校教育」は、江戸時代の前近代社会から生い出てきた日本人の子弟に、近代社会の「時間の支配」を刷り込み、政府がなお建設途上にあった近代的産業資本主義への順応を準備させる場であったのです。そうした訓練の場において、明治23年〔1890年〕以後、儀式のたびごとに朗読され暗誦され幼い脳髄に刷り込まれた『教育勅語』こそは、「時間の支配」への馴致を円滑に遂行するための装置でした。
前回に私が述べた説明をここで繰り返せば、『教育勅語』と、樋口一葉の『にごりえ』における「お力の独白」とは、近代日本における〈カント的理性の崩壊〉すなわち「啓蒙の自壊」という出来事の両面をなしています。下田歌子流の「婦徳」の価値観からいえば、前者はその「善い」面であり、後者は「悪い」面です。
松浦氏によれば、「『教育勅語』と[お力の独白]という・これら2つの言説を両極とし、そのあいだに張りめぐらされた表象的力学の磁場こそ、明治20年代以降〔1887~〕の日本の表象空間の核心に位置する〔…〕。[お力の独白]に対置されるべきは、〔…〕同じく一人称主語〔朕〕の語りで組み立てられた『教育勅語』という・この高度に政治的なイデオロギー装置なのではないか。
一方における[善]の提唱と、他方における[悪]の告白は、[啓蒙]的言説の自壊以後の明治の表象空間に、それぞれ別のしかたで、一種の捩 ねじ れた近代性を定礎しようとした〔…〕試みだったのではないか。」(『明治の表象空間 下』,pp.47-50.)
じつは、松浦氏がここで、「時間の支配」を説明するためにボードレールを引いているのは、偶然ではありません。たいへん大雑把に言うと、幕末から明治時代前半期にかけて、日本は朝野ともに、西洋のなかでもフランスの思想・制度を見習おうとしていました。それは、〈市民革命のフランス〉ではなく、ナポレオン3世の「第二帝政」期のフランスです(⇒:(7)【18】)。それは、警察官僚国家の建設と近代的〈啓蒙〉との二面性を有しており、〔フランスでも、移植先の日本でも〕その矛盾のゆえに自壊せざるをえませんでした。明治20年代以降、日本の上級国家官僚は、フランスに代えてドイツを範とする専制軍国国家をめざす方向へ転換していきます。
ボードレールはまさに、そうした二面性のなかで「時間の支配」が人びとを捕らえつつあった「第二帝政」期フランスを生きた詩人です。私たちはまずボードレールを参照して、「時間の支配」とはどういうものか認識を深め、しかるのち、その「時間の支配」を、フランスにおけるような抵抗を未然に防いで浸透させることに成功した・明治後期の支配者たち(伊藤博文,山縣有朋ら)の卓抜なイデオロギー装置『教育勅語』に、考察を進めたいと思います。
Carlos Schwabe, Spleen et ideal, 1907. ©Wikimedia
カルロス・シュヴァーベ『憂鬱と理想』1907年。
【44】 ボードレール「二重の部屋」
『パリの憂鬱』は、ボードレールの死後1869年に刊行された晩年の散文詩集ですが、そのなかで松浦氏が注目するのは、「二重の部屋」という・翻訳文庫本にして 5ページ足らずの作品です。松浦氏の援用の意図を理解するためにも、読者はこの詩自体を読んでいただきたいのですが、ここでは簡単に概略を紹介しておきましょう。
内容は、ある古ぼけた埃っぽい部屋(おそらく自室)のなかで作者が夢想にふける、というもので、大きく前・後2つの部分に分かれます。文章は、次のように始まります:
『一つの部屋、謂わば夢想にも似て真に霊的と呼ぶにふさわしい部屋、中に澱んだ大気はうっすらと薔薇色と青色とに彩られている。
そこに魂は、悔恨と欲望とで香味をつけられた、怠惰の沐浴 ゆあみ の中に涵 ひた る。――それは黄昏に似た何ものか、仄かな青みと薔薇色を帯びた何ものかであり、日月の蝕する間の悦楽の夢である。』
ボードレール,福永武彦・訳『パリの憂愁』,岩波文庫,2008改版,p.18.
このような「ほのかな青色と薔薇色を帯びた」空間では、「家具」はみな「疲れ倦んだ形」で横たわり、夢幻のなかに遊んでいる。壁やソファに掛かった「織物」は、花々や天空の落日がそうであるように、「声のない言葉」を語っている。香 かぐわ しい湿り気の中で、精神は「快い温室」に微睡 まどろ むかのようだ。
ベッドの上に、「夢の国の女王、偶像の女」の幻影が現れる。その「焔のような双の瞳、この鋭利にして危険な眼」は、「恐るべき悪意」を隠し持っている。彼女に見惚 と れた愚か者を「惹き寄せ、服従させ、貪り食ってしまう。」――これはおそらく、《後半部》で言及される薬物「阿片」の隠喩です。
「おお、この至福!」それは、私たちがふだん生きている日常の生とは何の関係もない「至上の生」である。この「至上の生」のなかで、「時間は消滅した。」もはや懸念されるような未来も、悔恨をいざなう過去もなく、ただ「永遠に続く快楽」だけが私を領している。
ところが、感極まった瞬間に作者は現実に引き戻され、文章は《後半部》に移ります。
「ぞっとするようなノックの音」とともに、「時間」という「亡霊」が部屋に入ってくる。「亡霊の手荒なノックの響きと共に」、「楽園の部屋」も「夢の国の女王」も消え失せ、汚れて「塵まみれ」の、「煙草の臭」さと「黴くささ」に満ちた荒廃した現実の「部屋」が現れる。この「嫌悪にみちた世界のなかで、ただ一つ〔…〕阿片の一壜」だけが「私に微笑する」。
『「時間」は再び現れる。「時間」は今や至上者として君臨する。そして、〔…〕彼に従う悪魔的な供奉 ぐぶ の面々が帰って来る。「追憶」と、「悔恨」と、「痙攣」と、「恐怖」と、「苦悩」と、「悪夢」と、「憤怒」と、そして「神経病」とが。』
ボードレール,福永武彦・訳『パリの憂愁』,岩波文庫,2008改版,p.21.
日常的な生、現実の生において「幸運」と呼ばれるものは、「時間」のなかにある瞬間にすぎません。それは、「秒」によってもたらされる。しかし、「秒」がもたらす「幸運のしらせは、すべての人に名状しがたい恐怖を惹き起こす」。なぜなら、「秒」は人を駆り立てるから。それは、「時間」の外にある「至福」とは、まったく異なるものなのです。
リュクサンブール公園にあるボードレールの胸像。 ©Wikimedia.
Il n'y a que trois êtres respectables : le prêtre, le guerrier, le poète.
Savoir, tuer et créer.〔尊敬に値する存在は3つしかない:
司祭,兵士,詩人。知ること,タヒぬこと,そして創造〕と刻まれている。
【45】 「時間」と《進歩》の支配、そこから離脱する欲望
散文詩「二重の部屋」が、「時間の支配」と、そこから逃れようとする空しい非現実的な欲望を象徴していたとすれば、それに続く散文詩「人はみな幻想を」(『パリの憂愁』,岩波文庫,pp.23-26.)は、《進歩》という幻想の怪物 シメール を背負って、荒れはてた「大平原」を、列をなして前進してゆく人びとを描きます。彼らは、「ただ前進しようという打克ちがたい欲求に絶えず駆り立てられ」、「諦めきった面持ちで」、「永久に希望を持つべく運命」づけられた「者の諦め」を持って進んでゆくのだった。
ボードレールが『いかに「時間」の外に逃れることを夢想し〔…〕ようと、結局彼の身体は、薔薇色の「進歩」の幻想があまねく行きわたった第二帝政期のフランスという、特定の歴史的条件に縛られたこの「世界」のうちにとどまり、そこで〔…〕「機械化された時間」の専制に常時脅かされ〔…〕なければならない。〔…〕貧窮に苦しみつつ細々と売文業を続けた「呪われた詩人」は、46歳でのその早逝まで、「時間の支配」の圧迫との間で激しい軋轢を生きなければならなかった。
〔…〕ドラッグのある服用による「人工楽園」〔…〕は畢竟、束の間の救済、仮初 かりそめ の解放の幻想でしかない。〔…〕
「呪われた詩人」にとってこの〔ギトン註――「時間」の〕圧政の裏をかくゲリラ的反攻の手段があるとすれば〔…〕詩作それ自体によるほかはない。それは、「美」の創造――現世の時間的秩序とは本質的に異なる秩序に属する価値の創出によって、有用性原理と拝金思想の瀰漫するブルジョワ社会の成立根拠そのものを、観念の水準で一挙に相対化し破砕する〔…〕試みである。』
松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,pp.249-250. .
ボードレールと松浦氏が「ブルジョワ社会の成立根拠」を「破砕する」と言っても、それは「観念の水準」にすぎないではないか? 「ブルジョワ社会」の現実に対して全く無力ではないか! ‥と言えば、たしかにそうも言えます。しかし、その「現実」というものも、人間の観念と行動と物質的世界との相互交渉が造り上げているのだとすれば、観念だから無力だ、ということにはなりません。詩作もまた、歴史の「現実」にたいして何がしかの意味はある。少なくともそれが、現実の「時間の支配」を裏から明るみに出し、批判し、「それが、存在しうるすべてではないよ」と相対化して見せる場合には、です。その点において、ボードレールのような〈時代に切り込む詩作〉は、ドラッグへの耽溺や、通俗文学・芸能への〈逃避〉などとは異なる現実的意義をもっているのです。
Никола́й Алексеевич Касаткин, Сбор угля бедными на выработанной шахте.
Государственный Русский музей. Nikolay Kasatkin, The Poor Gathering Coal
in a Worked-Out Mine, 1894. ニコライ・アレクセーイェヴィチ・カサートキン
『 廃坑で石炭を集める貧しい人々』 1894年、ロシア国立美術館。 ©Wikimedia.
『都市化と産業化が本格的に進展しつつあった明治中期の日本でもまた、「時間の支配」が強化されてゆく。政府は、教育や法令を通じて、単位化=均質化された「時間」の刻む機械的リズムへと民衆の精神と身体を馴致し、資本の蓄積の奉仕する経済主体〔労働者および消費者として――ギトン註〕を創出し〔…〕つつあった。〔…〕膨大な数の日本人成年男子が徴兵先の兵舎で体験したのもまた、起床と「日朝点呼」から〔…〕消灯まで、隅々まで時間厳守を強制される生活であり、〔…〕この列島の民にとって史上未曽有の経験であった。〔…〕
「時間」によって管理され、〔…〕「時間」を能動的に管理することもできる自立的な経済主体の形成は、明治日本の国家事業であり、〔…〕「一身独立して一国独立する事」 (『学問のすゝめ』)と福沢諭吉が謳った「独立した個人」育成の「すゝめ」からさして隔っているわけではない。ただ、人は物理的時間そのものから「独立」することは不可能であり、〔…〕それを自己の意図や欲望に適合する形態に組織し直し主体的に管理』することができたとしても、『人が依然として「時間の支配」に従属している〔…〕事実に変わりはな』い。その矛盾を『ふだんは識閾下に抑圧していても、あるとき不意に痙攣や苦悶や神経症が噴出し、人格の統合が脅かされる危険に、「近代人」はたえずさらされている。過去をめぐる後悔、未来にたいする恐怖〔…〕が悪夢となってのしかかってくるのだ。
〔…〕だから、たとえ仮初のものであれ救済の避難所〔酒,煙草,薬物,また通俗的な「文学」――ギトン註〕を用意しておくことが、』国家の近代化政策が推し進める『効率性の原理により適った措置だということになろう。〔…〕そこでは「時間の支配」がいっとき嘘のように弛み、その専制から解放されたかのごとき幻想を人々が享楽でき』る『精神と身体のアジールが人々の前に差し出される。〔…〕
実のところ、そうした安直な避難所こそ、権力が民衆一人一人を効率的な経済主体へと成型するためにしつらえた装置の、必須の一部分をなしてもいるのだ。学校や軍隊や工場や会社が〔…〕現実原則の圧力で民衆の精神と身体をぎりぎりと縛り上げる一方で、その抑圧にふと倦んだ民衆が、嗜好品のもたらす酩酊や、「文学」的感傷や、芝居小屋の興奮や悪所場のスリルといった〔…〕快楽原則が全面化する数々の情緒的アジールに逃避し、そこに束の間の自由と安息の幻影をみいだす。〔…〕
快楽と現実は両者一体となって一つの装置を構成しているのであり、〔…〕権力は決して快楽に敵対しない。むしろ、快楽の契機を自らのうちに取り込み〔じつは、それが『教育勅語』制定の意味――ギトン註〕、 それと一体となって機能することで、自身の全能性を〔…〕補強しようとする。』
松浦寿輝『明治の表象空間(中)』,2024,岩波現代文庫,pp.251-254. .
松浦氏の叙述から、明治時代後半期の「言説空間」を図示してみると、上のようになるでしょう。
「時間の支配」と「進歩」の思想を真ん中において、一方の極㊧にボードレールがおり、他方の極㊨に、酒、煙草、薬物、通俗文学、そして『教育勅語』が位置します。一方の樋口一葉と、他方の『教育勅語』が、「言説空間」の両極を画しています。
㊨の諸「言説」は、近代化へと駆り立てる「時間」の専制――からの避難所を提供しつつも、そこに人々を永久に匿ってくれるわけではなく、いわば一時の〈気晴らし〉〈息抜き〉であって、けっきょくは人びとを「時間の支配」のもとに押し戻し、「時間」と「進歩」の専制支配が支障なく進められることに貢献します。
これに対して、㊧の諸作品は、たんなる〈気晴らし〉であることを越えて、たとえ観念の上であっても「時間の支配」が人びとにもたらす矛盾を根底から剔抉し、それを人びとに意識させる〈批判〉的作用を持っています。
一葉との関係でいえば、彼女がかつてその中にあった下田的「婦徳」観は、奏琴,和歌といった古典的教養の「手すさび」を推奨していました。これは、上の図では「通俗文学」と並んで㊨側につらなるものでしょう。しかし、一葉が『たけくらべ』以後の自分の「文学」を見出した時、彼女は、一気にボードレールと並ぶ㊧側へ飛躍したことになります。彼女自身にとっても、当時の読者大衆にとっても、それがいかに巨きな飛躍だったかが分かります。
『教育勅語』について言うと、それが「通俗文学」や、違法すれすれの「悪所」通いと並んでいるのは、何かそぐわない感じがするかもしれません。ばかりでなく、『教育勅語』の内容がもつ前近代性は、「進歩」の理念とは真っ向から衝突するようにも思われます。
しかし、松浦氏が重視するのは、『教育勅語』のテクストに含まれた「天壌無窮」〔天地とともに永劫に続くこと。『日本書紀』「天孫降臨」段で、天照大神が、地上に降臨する皇祖に授けた言葉〕という語です。この語は、天孫降臨以来衰えることなく、未来永劫に栄え続ける「皇運」を意味します。そしてこれは、『教育勅語』のテクストに含まれた・ただ一つの「天」を含む語なのです。つまり、『教育勅語』は、近代的な「時間の支配」からの解放の幻想を与えることに、その本質があります。その古めかしい装いは、まさにそのためであり、「大日本帝国」という空間を、近代(富国強兵)と、古代ないし無時間(天壌無窮)に二重化することにあるのです。それは、幻想とは意識されない(意識させようものなら逮捕・投獄される!)幻想であるがゆえに、専制国家が強要する「進歩」とは決して矛盾することが無いのです。
‥‥と言っても、なお納得できないかもしれません。これは、次回以降に扱う問題群にほかなりません。
Jean-Paul Laurens, Otages, 1896, Musée des Beaux Arts de Lyon.
ジャン=ポール・ローラン『人質』 1896年、リヨン美術館。 ©Wikimedia.
一葉にしろ、ボードレールにしろ、図の㊨側にも一見似たものがあります: 薬物,非合法な赤線,通俗文学。彼らがそこから(いわば「泥」の中から)出てきたことは間違いありませんが、彼らをそれらから区別するもの,㊧側へと飛躍させたものは、社会の現実にたいする批判をふくむということです。たんなる〈気晴らし〉〈息抜き〉に終わらない批判がある。そのため、一葉とボードレールは、「時間の支配」を補完するかに見えて、それとは根底から対峙する言説を創り上げることができたのです。
一方、彼らとは対照的なのが「教育勅語」です。その神話的な古めかしい装いは、一見すると、近代化とは対立するかのようです。しかし、日本というコンテクストにおいては、それは本質的に日本国家による近代化と「時間の専制」を支える役割を果たしてきました。そのことが、逆に、日本国家と日本国民に特有の近代化のありかた――「国体」イデオロギー,「無責任体制」,軽薄な侵略主義,等々――をもたらしてきました。そこに、松浦氏の議論のカナメがあり、独自の見解があります。
次回は、その点をさらに深く見ていきたいと思います。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!








