2026年4月26日 ,
「慈雲寺」の門前からは、周囲の山々がよく見えます。西方の山々↓。手前には「塩ノ山」、奥の連なりは「帯那山」の尾根、その奥に、甲府盆地の西を限る「櫛形山~鳳凰山」。さらに向こうには「南アルプス・白峰三山」が見えるはずですが、きょうはほとんど見えません。
北方の「金峰山・国師ヶ岳」方面↓。
東方は、直近の「恩若峯」。この尾根は、「源次郎岳」を経て「大菩薩」へと連なります。
さて、『ゆく雲』の碑を見ておきましょう:
碑には、「‥‥遠慮なく身をきる寒さ」までしか表示されていませんが、そのあとを青空文庫で読んでみると:
『我が養家は大藤 おほふぢ 村の中萩原とて、見わたす限りは天目山 てんもくざん、大菩薩峠の山々峰々垣 かき をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺 ね は、をしみて面かげを示めさねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、
魚 うを といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やうやう𩻩 まぐろ の刺身が口に入 い る位、あなたは御存じなけれどお親父 とつ さんに聞て見給へ、それは随分不便利にて不潔にて、東京より帰りたる夏分などは我 が まんのなりがたき事もあり、そんな処に我れは括 くく られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々 こつこつ として月日を送らねばならぬかと思 おもふ に、気のふさぐも道理とせめては貴嬢 あなた でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたはさう仰しやれど母などはお浦山しき御身分と申てをりまする。
何がこんな身分うら山しい事か、ここで我れが幸福 しやわせ といふを考へれば、帰国するに先だちてお作 さく が頓死するといふ様なことにならば、一人娘のことゆゑ父親 てておや おどろいて暫時 しばし は家督沙汰 ざた やめになるべく、〔…〕我れは首尾よく離縁になりて、一本立の野中の杉ともならば、それよりは我が自由にてその時に幸福 しやわせ といふ詞 ことば を与へ給へと笑ふに、おぬひ惘 あき れて貴君 あなた はその様の事正気で仰しやりますか、平常 つね はやさしい方と存じましたに、お作様に頓死しろとは蔭 かげ ながらの嘘 うそ にしろあんまりでござります、お可愛想なことをと少し涙ぐんでお作をかばふに、それは貴嬢 あなた が当人を見ぬゆゑ可愛想とも思ふか知らねど、お作よりは我れの方を憐 あは れんでくれて宜 い い筈、目に見えぬ縄につながれて引かれてゆくやうな我れをば、あなたは真の処何とも思ふてくれねば、勝手にしろといふ風で我れの事とては少しも察してくれる様子が見えぬ、〔…〕田舎へは帰らねばならず、情 なさけ のあろうと思ふ貴嬢がそのやうに見すてて下されば、いよいよ世の中は面白くないの頂上、勝手にやつて見ませうと態 わざ とすねて、むつと顔 がほ をして見せるに、野沢さんは本当にどうか遊 あそば していらつしやる、何がお気に障りましたのとお縫はうつくしい眉に皺を寄せて心の解 げ しかねる躰 てい に、それは勿論正気の人の目からは気ちがひと見える筈、自分ながら少し狂つていると思ふ位なれど、気ちがひだとて種なしに間違ふ物でもなく、いろいろの事が畳まつて頭脳 あたま の中がもつれてしまふから起る事、〔…〕しらぬ顔をして情ない事を言つて、お出 いで がなくば淋しかろう位のお言葉は酷 ひど いではなきか、〔…〕女といふものはもう少しやさしくても好い筈ではないかと立てつづけの一ト息 ひといき に、おぬひは返事もしかねて、私しは何と申てよいやら、不器用なればお返事のしやうも分らず、唯々こころぼそく成りますとて身をちぢめて引退くに、桂次拍子ぬけのしていよいよ頭の重たくなりぬ。』
樋口一葉『ゆく雲』(中),青空文庫;『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,pp.44-45. .
一葉は「故郷」にたいして、かなり辛辣な描写を重ねているのです。そこに、父・則義の故郷に対する複雑な思いが反映していることは否定できません。それは、作中のプロットでいえば、佳次が感ずる・養家と故郷と親戚筋の拘束、そこから解放されて「自由に」生きたいという青年らしい思いでしょう。
一葉の多くの小説と同様に、『ゆく雲』という題名は古典和歌から採っています:
『春の夜 夢の浮橋 途絶えして 峰に別るる 横雲の空』
『新古今和歌集』巻第1、春歌上38、藤原定家。 .
つまり、「横雲」が、『ゆく雲』では田舎から出て東京に寄留している青年佳次を象徴しており、佳次がお縫に心惹かれながら2人の思いは行き違うばかりで、けっきょく、故郷を棄てて自由に生きる夢を達することはできず、「峰」から離れて、故郷と「定められた人生」に帰ってゆくことを表しています。
『ゆく雲』のあらすじ:
『東京の親戚宅に寄宿して書生生活をしている甲斐出身の野沢佳次と、この家の娘「お縫」とのつながりが、佳次の帰郷によって途切れる〔…〕のが骨子である。〔…〕お縫は、母のタヒと父の再婚によって〔…〕継母の辛い仕打ちに苦悩の限りを体験したうえで自己形成を遂げた若い女性という設定である。それに対して、佳次青年のお縫への思いは、この小説の全体を通して、表層的に〔…〕留まる。〔…〕
野沢佳次〔…〕は貧しい農家の息子だったが、土地の名士で造り酒屋である野沢家に見込まれて養子となり、その家の娘「お作」を許婚 いいなづけ とした。ゆくゆくは結婚し家督を相続するという人生のレールがすでに敷かれている。〔…〕
お縫は、小利口で人柄の良くない後妻によって厳しい扱いを受けて、ひっそりと暮らしている。上杉家〔佳次の寄宿先、お縫の家〕に寄宿している佳次も、この後妻から見下されている。佳次は、お縫に同情する気持ちから、居心地が悪くとも上杉家から離れられないでいる。〔…〕
だが、二人の対話は嚙み合わない。』佳次は『一方的に自分の非運を嘆き、お縫から深い同情の言葉が聞かれない、と拗ねている』。他方、お縫はといえば、『佳次の未成熟〔…〕な気持ちに対して〔…〕落ち着いて対応する』。つまり、お縫は、苦労して自己形成を遂げた「おとな」の配慮をもって佳次を扱い、その言葉には感化されず、みずからの苦悩を打ち明けることもしない。『お縫は、亡き母の墓参りに行くたびに、日頃胸の奥に抑えつけている寂しさと辛 つら さが堰を切って溢れ出し、号泣し、寺の井戸に身を投げようとしたことも一度ならずあったと読者に明かされる。けれども、そのことを知るよしもない佳次は、お縫の態度を冷ややかだと感じて、噛み合わない。
〔…〕佳次が大藤村に帰る日が決まり、〔…〕大藤村に帰郷してからは、最初は月に何度も来ていた手紙が、月に一度、三月に一度となった。年始状と暑中見舞いだけの交際になることが見越されている。
結末は、余韻を残すように、お縫がいつまでもこのまま上杉家で父と継母に仕えて過ごすのか、それもむずかしいのではないかと、締めくくられている。』
佳次のような当世風の書生は、当時の小説ではありふれた俗物的な人物類型だったといえる。しかし、この小説で『一葉は、ありふれた若い男の描き方』に『新機軸〔…〕を打ち出している。東京での自由な書生生活を終えて郷里に戻り、世間普通の家庭生活に入ってゆく男の人生。』この小説が掲載された総合月刊誌『太陽』の読者たちは、「自由」「平等」「男女同権」といった『当時としては進んだ考え方を持っていただろうが、男女の恋愛感情や家庭生活にたいしては常識的な人々だった』ろう。『そのような読者にも共感可能な作品でありつつ、女性の生き方を問おうとする結末は、翻って男性たちにも多くのことを問いかけている。』
島内裕子『樋口一葉の世界』,2023,放送大学教育振興会,pp.193-196. .
ところで、ここで私たちが『ゆく雲』について追及したいのは、そこに作者一葉と「甲州」「中萩原」とのどんなつながりが、あるいは、つながりの無さ,反発の強さが見いだされるのか、ということでした。
その点から注目されるのは、「お縫」が自己を取り戻すことのできる「亡き母の墓参り」の寺は、甲州の「慈雲寺」ではなく、一葉が「幸せな幼年時代」を過ごした本郷の「法真寺」(⇒:明治の表象空間(10)【26】)をモデルにしていることです。一葉にとって、なつかしい場所、安んじて帰って行ける親しい土地と素直に言えるのは、一家の「故郷」である甲州ではなく、みずからが幼年時代を過ごした本郷の丘だったのではないか? そうも考えられるのです。
一葉は、『ゆく雲』の出だし↓でも、甲州について詳しく言及しています。つぎに、その箇所を見ておきましょう。
『酒折 さかをり の宮、山梨の岡、塩山 ゑんざん、裂石 さけいし、さし手 で〔差出〕の名も都人 ここびと の耳に聞きなれぬは、小仏 こぼとけ ささ子 〔笹子〕の難処 なんじょ を越して猿橋 さるはし のながれに眩 めくる めき、鶴瀬、駒飼 こまかひ 見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京 ここ にての場末ぞかし、甲府はさすがに大厦 たいか 高楼、躑躅 つつじ が崎の城跡〔武田氏3代の居城。↓写真参照〕など見る処のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車 腕車 くるま に一昼夜をゆられて、いざ恵林寺 ゑりんじ の桜見にといふ人はあるまじ、故郷 ふるさと なればこそ年々 としどし の夏休みにも、人は箱根 伊香保ともよふし〔催し〕立つる中を、我れのみ一人あし曳 びき の山の甲斐 かひ に峯のしら雲あとを消すこと〔…〕、今歳 ことし この度みやこを離れて八王子に足をむける事 甲州ニ向カウコトガ これまでに覚えなき愁 つ らさなり。』
樋口一葉『ゆく雲』(上),青空文庫;『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,pp.33-34. .
「酒折の宮」は、甲府市東部にある神社で、ヤマトタケル伝説の故地。タケルがエゾ遠征からの帰路に滞在して、
『新治 にいばり 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる』
『古事記』『日本書紀』。 .
の歌を詠んだとされる。「差出の磯」は、塩山(甲州市)の西隣り:山梨市にある「大嶽山神社」の丘で、笛吹川の流れに突き出して聳える景勝地。塩山の「塩ノ山」とともに、歌枕として知られる:
『しほの山 さしでの磯に住む千鳥 君が御代をば 八千代とぞ鳴く』
『古今和歌集』巻第7、賀歌、詠人不識。 .
「裂石」は、大菩薩峠の西麓・登山口近くにある温泉地。
甲府市・躑躅ヶ崎館跡(現・武田神社) 2021年3月撮影。
甲州(塩山)市街地内に聳える塩ノ山。 2026年4月26日撮影。
「恵林寺」は、武田信玄の墓所がある古刹。塩山の笛吹川畔にあります。
甲州市・恵林寺 2026年4月26日撮影。
それにしても、一葉がこの小説の冒頭で、これでもか、これでもか、というほどに甲州の名勝,旧跡,地名を並べているのは、何を意味するのでしょう? しかもそれは、すなおな・お国自慢とは正反対で、そこの人びとの辛い生活、厳しい風土、「不便」で「不潔」で、都の人びとには顧みられない卑しい土地柄をことさらに強調して、あたかも同情の無いまなざしで描き切ろうとするのです。
そこには、鬱屈した、ねじれた郷土愛を見るようです。注目すべきは、一葉は甲州にも塩山にも「中萩原」にも、決して無関心ではない 〔いられない?〕ということでしょう。その意味で、通常の人にとっての「ふるさと」とは異なるものであっても、一葉にとってここはやはり「ふるさと」であったのかもしれません。
タイムレコード 20260426
925「隼上」バス停 - 944「恵林寺」西口 - 1022「恵林寺」黒門 - 1033「向岳寺」1058 - 1141「塩ノ山」 - 1237「塩山」駅1302 - 1311「大藤小学校」バス停 - 1323「慈雲寺」1334 - 1340「大藤小学校」バス停 - 1358「塩山」駅。
踏査記録⇒:YAMAP















