【前回】⇒ 明治の表象空間(9)

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東京都文京区本郷4-32・31 樋口一葉「菊坂旧居」跡と「一葉の井戸」。

近隣には、金田一京助、石川啄木、宮沢賢治の旧居跡、坪内逍遥の故地もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

【25】 樋口一葉 ――「女家長」のかぼそい行路

 

 

 「維新」〔1868年1月「王政復古」宣言〕以前すでに言論界に地歩を固めていた福沢諭吉〔1835-1901年〕,土佐藩足軽の家督を継いでいた中江兆民〔1847-1901年〕はもとより、本書で扱われる著者は、1867年10月生まれの正岡子規〔1867-1902年〕まで、すべて「維新」以前に生を享けています。樋口一葉〔1872-96年〕だけが、「維新」後に生まれたにもかかわらず「明治の表象空間」を構成する重要な人物となっているのです。

 

 これは、彼女の生がきわめて短かったせいもありますが、彼女の生は、まさに「明治」の体制下で自己の途を切り拓いてゆく「筆一本の闘い」にほかならなかったのです。

 

 長兄の突然の病没〔1887年12月〕によって若冠15歳で戸主となり、その2年後〔89年7月〕には後見人であった父をも失います。明治国家の強権的家族主義体制下にあって、戸主は、一家を担って国家と社会の重圧に耐える責任を当然のように負う立場でした。しかも一葉は、女性であることによる社会的ハンディをも負わなければならなかった。

 

 一葉は、幼少から読書を好み、『南総里見八犬伝』を3日で読破したといいます。なぜそんなに速く読めるのか、と大人に訊かれて、「眼が2つあるから、2行ずつ読める」と答えたとの逸話が残っています。

 

 11歳の時〔1883年12月〕、私立学校高等科第4級〔4年制尋常小学校の上の高等小学校最終学年か?〕を首席で卒業したにもかかわらず、「女に学問は不要」という母の固い意向で進学を断念しています。86年、旧幕臣だった父の知人の紹介で和歌塾「萩の舎 や」に入門、翌年の「発会」〔「萩の舎」の発会は、毎年 2月21日〕では参加者中最高点を得て、目覚ましく頭角を現します。同塾は、公家・旧大名,明治政府の高官・軍人の夫人・令嬢らが通う・いわば社交界で、一葉は、和歌よりも晴れ着の艶やかさを競う門人の大勢からは浮いていたようです。長兄と父のタヒ後、一葉は口減らしのため、「萩の舎」住み込みの内弟子と無給の女中を兼ねる生活〔1890年4-9月〕を始めますが、心身の負担となり、まもなく一葉,母,妹の一家は、家賃の安い「本郷菊坂町」〔トップ画↑〕で借家住まいを始めます。

 

 一葉が「明治の表象空間」の重要な構成要素となったのは、本書の松浦氏によれば、公認遊郭「吉原」の周辺と「私娼」の、作中の女たちに、作者一葉の「実存的な何か」が共鳴し合って、数々の不朽の作品を創り出したことによるものです。そこに、一家を支える女戸主にかかった重圧の精神的結果をも見ることができますが、他方で、もっと端的に、彼女はその社会的境遇によって、創作活動に “追いやられた” とも言えるのです。というのは、一葉の一家が、題材の「吉原」近くで雑貨店を営んだ〔1893年7月-94年5月〕のは、生活苦を打開するためでしたし、その後ようやく作品が稿料を得るようになった一葉にとっては、精神的にも経済的にも、「書き続けること」だけが、生きてゆくための一筋のか細い径にほかならなかったからです。

 

 「菊坂町」での一家の収入は内職のほかにはなく、亡き父が残した借金の返済に加えて借財は雪だるまのように膨らんでゆくばかりでした。一葉は、原稿料を得るために小説を書くことを思い立って執筆を始め、「上野図書館」〔のちの「帝国図書館」→現「国立国会図書館」〕に通って独学し、その後、知人のつてで『東京朝日新聞』に紹介されて小説連載を打診しますが、まったく認められません。ただ、文芸雑誌『都之花』に掲載された『うもれ木』〔1892年11月〕で初めての稿料を得、借金を返済したのが、この間唯一の成果でした。

 

 翌年、「吉原」遊郭そばの現・台東区竜泉に越して駄菓子・雑貨店を開業しますが、まもなく近くで同業者が開店して客を取られたため、10か月で廃業。現・文京区西片に転居しますが、その年暮れの『大つごもり』発表〔1894年12月〕から、96年2月にかけて、『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』などの名作を次々と発表し、「奇跡の14か月」と呼ばれています。

 

 この年 4月、雑誌『文藝倶楽部』に再掲載された『たけくらべ』が森鴎外,幸田露伴ら当代一流作家らに絶賛され、樋口一葉の才能はようやく世間の認めるところとなります。が、その矢先、進行した肺結核は、鴎外の依頼で往診に来た医師らにも「もはや処置無し」とされ、同年11月一葉は24歳の生涯を閉じます。

 

 

鏑木清方『一葉女史の墓』1902年。樋口家の墓標に凭れる

『たけくらべ』のヒロイン美登里。 ©鏑木清方記念美術館。

 

 

 

【26】 一葉紀行 ―― 出生から「萩の舎」入門まで

 

 

 JR新橋駅と日比谷公園の中間にある「内幸町ホール」の玄関前の植え込みに、「樋口一葉生誕の地」碑があります。……あるそうです、と言うべきか。

 

 あいにく「ホール」の改修工事で、碑は、囲いの向こう側で見えなくなっています↓。
 

 

千代田区内幸町2丁目「千代田区立内幸町ホール」

 

 

 一葉がここで生まれたのは、1872年 3月。父は、甲州・塩山の小前百姓〔自作農〕でしたが、江戸表てに出て南町奉行所の同心株を買い取り幕臣の身分を獲得したところで大政奉還を迎えました。維新後は、そのまま東京府の下級役人に滑り込み、戸籍掛,社寺掛などをしています。

 

 ここはもとは武家屋敷でしたが、当時は「東京府構内長屋(官舎)」でした。が、一家は、一葉誕生の 5か月後には下谷練塀 ねりべい 町↓に移っています。

 

 

千代田区神田練塀町3丁目

 

 

 「練塀」とは、上を瓦でおおった土塀のことで、そういう塀で囲まれたお屋敷があったので「練塀町」の地名がついたそうです。ここは現在、JR秋葉原駅前で「ヨドバシカメラ」の角地。たいへん人通りの多い場所です。樋口一家は、ここに1年半ほど住んでいます。

 

 

「秋葉原練塀公園」

 

 

 ↑このように、すぐ隣はJRの高架。もちろん、当時はまだ鉄道はありません。

 

 

東京都港区六本木3丁目14

 

 

 1874年2月、一家は「麻布三河台町五番屋舗」↑に移っています。現在は「六本木」交差点、「アマンド」の対面地です。頻繁な転居は、父・則義が下級官吏として様々な部署に配置換えされたためでしょうか。この間に父は、東京府権少属 ごんしょうさかん から、東京府権中属 ごんちゅうさかん 兼 教部省権大講義に、さらに中属 ちゅうさかん へと昇進しています。「属」は、律令の「四等官」の最下位、「権~」は副官の意。が、たとえ最底辺ではあっても官吏は官吏です。則義は、1874年の「秩禄処分」で代償金 476円17銭〔幕臣藩士への秩禄米支給をやめる代償〕を受け取ったうえ、「士族」の身分を保証されています。

 

 もとが平民であった則義は、新時代の気流には敏感で、致富立身を志し、上記の秩禄代償金で、まず本郷六丁目五番地:加賀藩前田屋敷の「赤門」〔現・東京大学赤門〕の正面に屋敷を買い求め、その残余金を元手に、金融と土地に投資を手掛けていきます。東京府官吏として勤務するかたわら、実業にも手を広げていったのです。

 

 さて、「赤門」ですが、これまた現在は改修工事中で撮れないので、だいぶ前に撮影したものを出しておきましょう:

 

 

東京大学「赤門」。2015年9月撮影。

 

 

 それにしても、内幸町といい、六本木「アマンド」といい、「赤門」といい、一葉が一度でも過ごした場所は、どうして揃いも揃って花やかな界隈になっているのでしょうか? 偶然とは思えない因縁が感じられます。それにひきかえ、彼女自身の墓所は、見つけるのが困難なほど目立たないものです。この落差は、いったい何なのか?


 本郷通りを隔ててて「赤門」と向かい合っているのが、「法真寺」へ通じるこの参道↓です。

 

 

 

 

 参道に入っていくと、正面に本堂がいきなり現れます。奥に見える時計台は、「銀時計」というレストランのものです。その向こうに墓地があり、ここは、お寺の建物、レストラン、商事会社のビルなどが、たがいの間柄を気にせず混じり合っているような不思議な界隈です。


 

 

 

 

 樋口家の跡地は右手前で、「桜木の宿」という表示があります。この名前は、一葉が日記で、自分の家を指して呼んでいたものです。のちに近所の人びとが、一葉文学を慕って、この名を残しているのでしょう。

 

 

 

 

 現在の建物は、墓地の管理事務所で、前に小さな噴水と、日傘をさした一葉像があります↓。当時、一葉の家には土蔵もあって、幼い彼女は土蔵に潜り込んでは「草双紙」を読みふけっていたようです。父を訪ねてくる土地・金融関係のブローカーの手合いには馴染めなかったし、他の女の子と手毬や羽子板に興じる気にもならず、もっぱら「草双紙」に夢中になり、とりわけ「英雄豪傑の伝,任侠人の行為などのそゞろ身にしむ様に覚えて、凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき」と日記に記しています。

 

 のちの時代で言えば、花よ愛よの少女漫画には眼もくれず、冒険活劇の少年漫画を読みふける少女だったのでしょう。

 

 

 

 

 

 「法真寺」本堂の・向かって左奥に「一葉塚」と彫った石碑があり、読書する一葉の幼年像があります↓。彼女が、ここで過ごしたのは 4~9歳ですから、こちらの像のほうが当時の似姿でしょう。

 

 左の観音像は、一葉の小説『ゆく雲』にも描かれた「腰ごろもの観音さま」。

 

 一葉は、父のもとに出入りする商売人たちを、「利慾にはしれる浮きよの人あさましく厭はしく」思われたと、成長してからの日記に書いています。が、それでも父の経済活動のおかげで当時の樋口家は裕福で、一葉も、安定した幼年時代を過ごすことができたのです。「其ころの目には、世の中などいふもの見ゆべくもあらず、只雲をふみて天にとゞかむを願ふ様なりき」。

 

 

 

 

 

 1877年9月、5歳で本郷の私立・吉川学校に入学し、ここから通っています。学校では、先生が特別に一葉だけに漢文のてほどきもしたようです。

 

 81年、9歳。父は「警視庁警視属」に転じ、一家は、おそらく父の勤務のためでしょう、本郷の家を売り払って、7月、現・台東区台東2丁目に転居。10月には台東区東上野2丁目に移ります。

 

 住居の移転に伴って、一葉も、この年11月に上野・池之端の私立・青海学校に転校。2年後の 83年12月には同校の「小学高等科第4級」を 11歳で卒業しています。当時の学制は、「下等(尋常)小学3~4年」「高等小学4年」がふつうだったようです。一葉の場合は、6年2か月で「高等小学」まで卒業していますから、2年ほど飛び級していることになります。

 

 

上野「不忍池」。2015年10月撮影。

 

 

 「高等小学」卒業後、一葉は、母の強い意向で、それ以上学業を続けることができなくなりました。女に学問はいらない。家に閉じこもって花嫁修業をしろ、というわけです。通っていた青海学校には、おそらく「中学」もあったのでしょう。が、一葉はそこへ進学することは許されず、父の知人のもとへ、裁縫を習いに通わされます。

 

 翌84年10月、一家は、上野西黒門町〔現・上野1丁目11-7〕に転居します。この住居で 88年5月まで 4年近くを過ごしています。「西黒門町」は、現在の上野広小路、松坂屋デパートの近くで、中央通り沿いには、大正時代から有名な和菓子店「うさぎや」↓が店を開いています。樋口家があったのは、「うさぎや」のすぐ裏方、現「黒門小学校」の隣り番地です。

 

 

 

「黒門小学校」

 

 

 

 しかし、特筆すべきは、この「西黒門町」時代に一葉は、父の知人人脈をたどって、小石川・安藤坂の歌塾「萩の舎」に入門した〔1886年8月, 14歳〕ことです。

 

 母親とは違って、父・則義は、一葉に、なんとか勉強を続けさせてやりたいと思っていました。教部省時代の部下に歌人がいたので、和歌の個人教授を頼んだりもしますが、指導は手紙のやり取りのみ。しかも、残っている来書簡を見ると、型通りの詠みっぷりを押し付けるような指導で、わずか 3か月で教授側の病気を理由に沙汰止みとなっています。

 

 むしろ甲州人脈をたどって裁縫を習いに行った家で、のちに歌人となる佐々木信綱とのつながりができています。佐々木は、一葉が「萩の舎」に弟子入りした後で、親しい文学仲間の一人として交流をもつことになります。

 

 

安藤坂」。坂は、中ほどで「L字」に曲がっている。

萩の舎」があったのは、「L字」の上方右側。

 

安藤坂」。矢印の先に「萩の舎跡」の説明板があるので、

「萩の舎」があったのは、この付近であろう。

 

伝通院」。安藤坂を昇りきった正面にある。

 

 

 「安藤坂」は、現在の「後楽園」「東京ドーム」の西にある坂で、小石川「伝通院 でんづいん」から神田川~飯田橋駅方面へ下りてゆく道すじになっています。「萩の舎」では、桜の開花時期には塾生総出で、「伝通院」を抜け、「小石川植物園」まで花見に出かけたりもしています。

 

 「萩の舎」の塾長・中島歌子は、水戸藩士の尊王過激派林忠左衛門の妻で、夫が「天狗党の一揆」〔筑波山で蜂起し、幕府の追討を受けるや、尊王倒幕・攘夷を呼びかけて中仙道~伊那谷方面へ進軍し、越前で交戦後敗北。島崎藤村『夜明け前』に描かれている〕に参加して敗れ、斬首されたあと、小石川の実家に戻っています。実家は、「伝通院」前で水戸藩の定宿「池田屋」を営んでおり、歌子は帰京後、和歌を学んで免許皆伝を受け、実家の隣りに開いたのが「萩の舎」でした。

 

 「萩の舎」の塾生は、明治初期の華族・士族の奥方・令嬢が大部分で、その数は 1000人とも 2000人とも言われます。明治初期の士族といえば、倒幕の志士たちで、その奥方は、実のところ下賤な酌婦・芸者上がりが多かったので、皇族・公家に負けないよう教養と立ち居振舞いを洗練するために、競って和歌を学んだのです。

 

 しかし、中島歌子らの和歌教育そのものは格調の高いものだったようであり、塾生に対する評価・指導も正当なものだったと思われます。そうした環境のなかで、一葉も、これまでになく伸び伸びと才能を伸ばすことができたのです。

 

 「安藤坂」の近傍にある「北野神社」には、中島歌子の歌碑が残っています:

 

 

北野神社

 

中島歌子歌碑


 

『   雪 中 竹

 

 ゆきのうちに 根ざしかためて 若竹の

 生ひ出むとしの 光をぞ思ふ』 

 

 

 

【27】 坪内逍遥の提言と、一葉の「14か月」

 

 

 坪内逍遥〔1859-1935年〕は『小説神髄』〔1885-86年〕・上巻において、「小説の主脳は人情なり。世態風俗、これに次ぐ」で始まる「写実主義のマニフェスト」を「力強く主張」しました。これは、日本の近代小説の幕開けを導いたものとして、「逍遥の小説理論の歴史的意義は、従来高く評価されてきた。」その下巻において、逍遥は、小説の「文体や構成や主人公の設定等〔…〕具体的な技術論」を展開しているのですが、こちらのほうは、あまり顧みられることがなかったと言えます。それというのも、逍遥がここで「最終的に推奨するのは雅俗折衷文体で」、これは、「明治中期以降急速に一般化していった[言文一致体]に〔…〕あっさり駆逐」されてしまったからです。「逍遥は[俗言]〔口語〕の価値を認めながらも、それに[一大改良の行なはれざるあひだは」これを[地の文]に用いるなと誡め」ていました。

 

 「樋口一葉の小説の文体は、〔…〕いわゆる[奇蹟の14か月]〔1894-96年〕に書かれた代表作群に関するかぎり、まさにその[雅俗折衷文体]にほかならない」のです。そして、これらの作品が、逍遥の言う「人情」を主眼とし、「世態風俗」を次位として描いていることも異論はないでしょう。つまり、一葉の代表作群は、逍遥の小説理論を忠実に実践しているように見えます。

 

 はたして、そうなのか? とりわけ重要な問題は、彼女が用いているその(広い意味での)「雅俗折衷文体」にあります。彼女の小説文体は、代表作群に関するかぎり、江戸時代の曲亭馬琴柳亭種彦――逍遥は、これらのテクストをお手本として文体論を説明している――の「雅俗折衷文体」とは明らかに異なっています。はたして、「一葉の文体」から「[近代]への通路は、開かれていないのか」?

 

 

Paul Cézanne , Pont de Maincy, circa 1879. Musée d'Orsay.

セザンヌ「マンシー橋」1879年ころ。 ©Wikimedia.

 


『「奇蹟の14か月」の直前に位置する「やみ夜」〔1894年7-11月〕には、つぎのような文章が含まれる:

 

 秋は夕ぐれ夕日花やかにさして、塒 ねぐら にいそぐ烏の声さびしき頃〔枕草子:「秋は夕暮れ。夕日のさして...烏の寝どころへ行くとて...飛びいそぐさへあはれなり」――ギトン註〕、めづらしき黒鴨の車夫〔黒/紺のハッピ・股引き装束の車夫。多くは富貴家のお抱えだった――ギトン註〕に状箱〔手紙を入れた箱――ギトン註〕もたせて、波崎さまよりのお使ひと言ふが来たりぬ、折しもお蘭さま籬 まがき の菊に日映りのをかしきを御覧 ごらう じけるほどなりしが、おそよが取次ぎて珍らしきお便りとさし出 いだ すに、おかしや白妙 しろたへ の袖にはあらで〔古今集・紀友則「花見つつ人待つときは白妙の袖かとのみぞ あやまたれける」。愛人を待ちながら見ていると、白菊の花が愛人の袖に見えてしまうの意。来たのは波崎本人じゃなくて手紙か、という落胆――ギトン註〕と受取りて座敷へ帰られける。〔『やみ夜』(九)〕

 

 〔…〕文学史的記憶をめぐるインターテクスト的遊戯が圧縮されており、結局その興趣を読者と分かち合うことが一葉にとっての文学的行為の意味だった、ということになろう。〔…〕「お蘭さま」の人物像に現実感はきわめて乏しく、ここでの眼目が、この女性の心理と身体の即物的描写より〔…〕、言語の表層に繰り広げられる引用の戯れのほうにあることはまちがいない。

 

 〔…〕直後に書かれる『大つごもり』以降、こうした「本歌取り」の趣向は姿を消す。〔…〕引用遊戯の洗練から自己を切断し、逍遥が「小説の主眼」とした・「人情」と「世態風俗」の言語による再現へと移行してゆくのだ。』

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.238-239.  

 

 

 つまり、この小説の文体もプロットも、「本歌取り」の連続で形作られた・現実感の乏しい風雅な女性と「みやび」の情景世界に尽きています。このような作品世界が、「14か月」直前の一葉が持っていた・「小説」とは「文学」とはこういうものだというイメージだったのでしょう。それは、当時の文学界一般のデフォルトでもあったのです。

 

 しかし、「やみ夜」の連載が終わった翌12月に脱稿した『大つごもり』の冒頭は、つぎのように書き出されています:

 

 

『井戸は車にて綱の長さ十二尋 ひろ〔両端に桶を付けた約21.6mの綱を滑車に掛けて上下させ水を汲む井戸――ギトン註〕、勝手〔台所――ギトン註〕は北向きにて師走の空のから風ひゆう乀/と吹きぬきの寒さ、おゝ堪えがたと、竈 かまど の前の火なぶり〔火をいじって暖をとる――ギトン註〕の一分は一時にのびて〔1時間にも思われる――ギトン註〕、割木〔たきぎの木っ端――ギトン註〕ほどの事も大台〔一大事――ギトン註〕にして叱りとばさるゝ婢女 はした の身つらや、〔…〕

『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,p.9. .  

 

 

 「[十二]という数字や[北むき]という客観的限定に含まれるリアリスティックな描写性」。ここには、まぎれもなく新時代の「写実」と「啓蒙」が刻印されています。そればかりでなく、綱索を手繰って地下から水を組み上げる「井戸」は、作者も意識しない隠喩として、“無意識への沈降” の痕跡を示しています。例えば、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のある箇所で唐突に出現するつるべ井戸の情景を思い出せるのは、よほど炯眼な読者でしょう。

 

 

鎌倉・明月院の つるべ井戸「瓶の井」

 

 

 『大つごもり』の主人公は、富裕な山村家に住み込む女中・お峰です。『大つごもり』は、「一葉が、はじめて貧しい庶民の実生活を描いて現実に迫った」作品であり、一葉は、「[床の間]のお嬢様を主人公に」した小説群から、「[台所]の女中のみじめな生活を」描く作品に脱皮しました。折りから、樋口一家は、「吉原」近くの雑貨屋の商売がうまくゆかず、店じまいして引っ越した直後であり、一葉「自身の生活の実感が、貧しく哀れな女中のお峰の描写をリアルなものにし」たと言えます。『大つごもり』は、「彼女の作品中もっともエポック・メーキングなものと」言えます。 (小野芙紗子・他『樋口一葉 人と作品』,2016新装版,清水書院,p.125.)

 

 『大つごもり』では、「もはや文学的記憶の参照ネットワーク〔…〕も、[お蘭さま]のような人工的な[雅]の体現者も登場せず、松原岩五郎『最暗黒之東京』〔1893年〕や横山源之助『日本之下層社会』〔1899年〕が描き出したような都市の底面に蠢く細民たちと、その哀歓の諸相が主題化される〔…〕。その際、「下流社会のまことの景状 ありさま〔『小説神髄』〕を浮かび上がらせるべく、彼等の発する言葉〔会話のセリフ〕に[俗文体]が存分に用いられる」


 地の文が「雅俗折衷文体」、会話文が「俗文体」というだけなら、柳亭種彦流の読本 よみほん など、明治前・中期にはめずらしくありませんでした。が、一葉の場合には、その文体は「ある固有の音楽性と触覚性を備えている」だけでなく、重要な点は、人称の自在な交替ないし「非人称化」にあります。次回は、これを、代表作『にごりえ』の分析を通じて明らかにするでしょう。 (『明治の表象空間(下)』,p.6.)

 

 

 

 


 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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