【前回】⇒ 明治の表象空間(12)

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Eugène Boudin, Rue Saint-Romain, Rouen, 1895. Clark Art Institute.

 ユージェヌ・ブーダン「ルーアンのサン・ロマン通り」1895年。

 

 

 

 

 



 

【32】 『にごりえ』第5節の文体分析

 


 小説『にごりえ』に戻って、松浦寿輝氏はとともにテクストの分析を行ないます。「第5節」は、ストーリーの展開はわずかですが、「お力」および他の遊女たちの心理に分け入った描写が中心で、一葉のテクストの特徴がよく表れています。テクスト中の時間の進行とともに、一葉の「言語」がどう変化してゆくかをたどることができます。

 

 

 た れ白鬼 しろおに とは名をつけし、無間 むげん 地獄のそこはかとなく景色づくり、何処にからくりのあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出 い でよと甘へる声も蛇くふ雉子 きぎす と恐ろしくなりぬ、さりとも胎内十月 とつき の同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手打々々 てうちてうち あわわ〔赤ん坊が手を打つしぐさ〕の可愛げに、紙幣 さつ と菓子との二つ取りにはおこしをおくれと手を出したる物なれば、今の稼業に誠 まこと はなくとも百人の中の一人〔の客〕に真からの涙をこぼして、(A)聞いておくれ染物やの辰 たつ さんが事を、昨日 きのふ も川田やが店でおちやつぴいのお六めと悪戯 ふざけ まわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡 りようけん で末が遂げられやうか、

 

 まあ幾歳 いくつ だとおもふ三十は一昨年 おととし、宜 い い加減に家 うち でも拵へる仕覚 しがく をしておくれと逢ふ度に異見をするが、その時限りおいおいと空 そら 返事して根つから気にも止めてはくれぬ、父 とつ さんは年をとつて、母 はは さんと言ふは目の悪るい人だから心配をさせないやうに早く締つてくれれば宜 い いが、

 

 私はこれでもあの人の半纒 はんてん をば洗濯して、股引 ももひき のほころびでも縫つて見たいと思つてゐるに、あんな浮いた心では何時引取つてくれるだらう、考へるとつくづく奉公が嫌 い やになつてお客を呼ぶに張合 はりあひ もない、ああくさくさするとて常は人をも欺 だま す口で人の愁 つ らきを恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり、』

にごりえ』青空文庫;『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,pp.101-107. .  

 

 

 これが「第5節」の冒頭です。一葉の原文には、この「第5節」を通して1か所しか段落がありません。が、それでは読みにくいので、適宜段落をつけました。

 

 「白鬼」は、私娼を呼ぶ蔑称。 の部分は、「新開地」の私娼街を通りすがりの通行人,ないし遊客の視点で描写する〈地の文〉。一般社会の眼で見た私娼街が、地獄にたとえて語られます。「蛇くふ雉子」は、芭蕉の俳句「蛇食ふと聞けば恐ろし雉の声」。「恐ろしい」と思うのは、遊女に「食われる」側の一般人です。

 

 これに対して、 の部分では、ひとりの私娼が登場して、身の上の回想を始めるのですが、文章は〈地の文〉のままであって、当の私娼はなお三人称です。「おこし」は、浅草銘菓「雷おこし」。子供が、差し出されるお菓子と紙幣に手を出すように、無邪気な気持ちで今の稼業に入ってしまったことが語られます。 と 、いずれも作者が語る形式ですが、 は客または一般人の視点、 は遊女の視点で、視点は逆転しています。どちらの利害にも立てることが、一葉という作者の卓越した特性なのです。

 

 

「雷おこし」の看板。台東区竜泉3丁目。

 

 

 (A)では、その私娼の告白が一人称で述べられます。よく見ると、その前の  の部分も、後になるほど私娼自身の気持ちに近づいているようです。(A)の告白の中に、「まあ幾歳」から「おくれ」までの〈会話文〉が挿入されています。これは、この私娼が馴染み客に語りかける言葉です。(A)の告白は、不安定きわまる我が身と稼業のつらさを嘆きつつ、「ああくさくさする」まで延々と続きます。

 

 そこからは再び、作者が語る〈地の文〉になります。接続助詞「とて」が、独白の終る標識となっています。ふだんは人を「だます」口で、自分の身の「つらきを」恨んでいる――と、作者は私娼たちの境遇と心情を理解しつつも、かなり手厳しい批判を持していることには注意してよいでしょう。

 

 

『ここで注目すべきはまず、〔…〕先立つ「地の文」じたい――ギトン註〕、中立的かつ客観的な記述ではなく、すでに情動的な価値判断で磁化されているという点であろう。「恐ろしくなりぬ」〔…〕の恐怖とは、銘酒屋に引き寄せられてきた男たちの〔…〕思いとも、売春〔…〕とは縁のない良識的な市民意識が下した判定とも読めるが、いずれにせよ顔も名前もないこの話者は、語り〔…〕に鮮明な情動をまとわつかせることを憚 はばか っていない。

 

 だが、この情動性のヴェクトルは、「さりとも」で逆転される。〔…〕視点は私娼の側に飛び移る〔…〕、当初「白鬼」』として蔑視されていた『存在の内面に語りが沈潜するや、〔…〕その衝撃を〔…〕心理的に消化する間もなく、すでに語りは、「聞いておくれ」で始まる一人称の台詞 セリフ の中に滑りこんでいる。

 

 「地の文」の視点が女の内面に潜ることが、三人称から一人称へという話者のシフトを準備し、それを滑らかに完了させる』

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.8.  

 

 

 (A)の一人称告白文は、「とて‥‥暮れるもあり」で、いったん作者の〈地の文〉に戻りますが、すぐに、「2人目の女」の一人称の語りに転換します。語りというより独白に近いものです。「その台詞は、[聞いておくれ]という呼びかけを伴った1人目の女のそれとは異なり、内向的な独白の色合いが強い。」:

 

 

Johann Sperl, Mutter und Kind, um 1895. ©Wikimedia.

ヨハン・シュペルル『母と子』1895年頃。

 

 

『(B)ああ今日は盆の十六日だ、お焔魔様へのお参りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて小遣ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて二人揃つて甲斐性 かひせう のある親をば持つてゐるのであろ、私が息子の与太郎は今日の休みに御主人から暇が出て何処へ行 ゆ つてどんな事して遊ばうとも定めし人が羨しかろ、父 とと さんは呑 のみ ぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母はこんな身になつて恥かしい紅白粉 べにおしろい 、よし居処が分つたとてあの子は逢ひに来てもくれまじ、

 

 去年 向島 むかふじま の花見の時女房づくりして丸髷 まるまげ に結つて朋輩 ほうばい と共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これこれと声をかけしにさへ私の若く成 なり しに呆れて、お母 つか さんでござりますかと驚きし様子、ましてやこの大島田に折ふしは時好 じこう の花簪 はなかんざし さしひらめかしてお客を捉らへて串談 じょうだん いふ処を聞かば子心には悲しくも思ふべし、

 

 去年あひたる時今は駒形 こまかた の蝋燭やに奉公してゐまする、私はどんな愁 つ らき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、父 とと さんをもお前をも今に楽をばお為 さ せ申ます、どうぞそれまで何なりと堅気 かたぎ の事をして一人で世渡りをしてゐて下され、人の女房にだけはならずにゐて下されと異見を言はれしが、

 

 悲しきは女子 をなご の身の寸燐 マッチ の箱はり〔内職〕して一人口 ひとりぐち  すぐ しがたく、さりとて人の台処 だいどころ を這ふ〔女中仕事〕も柔弱の身体 からだ なれば勤めがたくて、同じ憂 う き中にも身の楽なれば、こんな事して日を送る、

 

 夢さら浮いた心では無けれど言甲斐 いひがひ のないお袋とあの子は定めし爪はじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日ばかりは恥かしいと夕ぐれの鏡の前に涕ぐむもあるべし、

 

 菊の井のお力とても悪魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ此処の流れに落こんで嘘のありたけ串談 じようだん にその日を送つて、〔…〕

にごりえ』青空文庫;『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,pp.102-104. .  

 

 

 「この2人目の女の台詞の中には息子[与太郎]の一人称の台詞が入れ子状に嵌め込まれ」ています。「この2人目の女の語りはやがて、」「鏡の前に涕ぐむもあるべし」に至って「地の文に着地」します。この「あるべし」という文尾は、(A)の「思案に暮れるもあり」に呼応しています。

 

 しかし、ここで〈地の文〉はただちに「お力」を登場させ、「語りの視点は〔…〕お力]の内面へと移行する。」

 

 「[地の文]が登場人物の心理に半ば磁化されてしまう〔…〕現象は、一葉の小説でしばしば起こることだが、」亀井秀雄氏は、この「情動的バイアスのかかった[地の文]の語り手に、[作中人物の癒着的な半話者]というみごとな定義を」与えた。

 

 

Nikolai Bogdanov-Belsky, Fischen am See, 1895. ©Wikimedia.

ニコライ・ボグダノフ=ベルスキー『湖の魚捕り』1895年。


 

 

【33】 登場人物に「磁化」される語り手

――『たけくらべ』第7節の例

 

 

 このような〈地の文〉の・作中人物への「磁化」は、文体にも影響を及ぼします。伝統的な「雅俗折衷文体」では、〈地の文〉は「雅文体」(文語体)、〈セリフ〉は「俗文体」つまり口語体で書かれ、〈地の文〉と〈セリフ〉が文体によって明確に区別されます。

 

 ところが、一葉の小説では、この区別がしばしば、あえてあいまいにぼかされるのです。〈地の文〉が、半ば「俗文」化しながら、人物の内面に潜り込んで「感情価」を強め、人称もいつのまにか一人称化して、いわば “鍵カッコのない会話文” となっていきます。その典型例として松浦氏がここで引くのは、『たけくらべ』第7節の美登利の心理描写です:

 

 

『祭りは昨日に過ぎて其あくる日より美登利の學校へ通ふ事ふつと跡たえしは、問ふまでも無く額の泥の洗ふても消えがたき恥辱を、身にしみて口惜しければぞかし クヤシイカラニチガイナイ表町とて横町とて同じ教場におし並べば朋輩に變りは無き筈を、をかしき分け隔てに常日頃意地を持ち、我れは女の、とても敵ひがたき弱味をば付目にして、まつりの夜の處爲 しうち はいかなる卑怯ぞや、長吉のわからずやは誰れも知る亂暴の上なし コノウエナイ乱暴者 なれど、信如の尻おし〔応援〕無くば彼 あ れほどに思ひ切りて表町をば暴 あら し得じ、〔信如は、〕人前をば物識 ものしり らしく温順 すなほ につくりて、陰に廻りて機關 からくり の糸を引 ひき しは藤本〔信如〕の仕業 しわざ に極まりぬ、よし タトエ 〔学年〕は上にせよ、學 もの は出來るにせよ、龍華寺さまの若旦那にせよ、大黒屋の美登利 トシテハ 紙一枚のお世話にも預からぬ物を、あのやうに乞食呼 よば はりして貰ふ恩は無し、〔…〕大黒やに大卷 おほまき〔最上位の遊女。美登利の姉のこと〕の居ずば彼 あ の樓 いへ〔大黒屋〕は闇とかや、さればお店の旦那とても父さん母さん我が身をも粗畧には遊ばさず〔粗末には扱わず〕、常々大切がりて〔…〕我れ寮住居に〔女郎屋の寮で〕人の留守居はしたりとも姉は大黒屋の大卷、長吉風情 ふぜい に負 ひ けを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外と、これより學校へ通ふ事おもしろからず、我 わが まゝの本性あなどられしが口惜しさに、石筆〔石板に書くチョーク〕を折り墨をすて、書物 ほん も十露盤 そろばん も入らぬ物にして、中よき友と埓も無く遊びぬ。』

たけくらべ』青空文庫;『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,pp.204-205. .  

 

 

 ピンクの背景をつけた部分は、内容は美登利の心理そのままで、人称も一人称の独白です。ただし、文体は「そのまま口にのぼったとは思えない」文語がかった口調です。背景の白い部分は、ピンクの部分よりは、作者の〈地の文〉に近づいていますが、ところどころ、かなり美登利の「感情バイアス」がかかっています。「あのように乞食呼ばわりしてもらう恩は無し」といった悪態、「お店の旦那とても〔…〕常々〔私を〕大切がりて」といったカラ自慢がそうです。それにたいして、「これより学校へ通う事、おもしろからず」以下は、美登利の心理から離れて、作者から客観的に見た状況が述べられています。

 

 文中に登場する「美登利」「長吉」「信如」は、「育英舎」という同じ私立小学校に通っているのですが、子供たちの近隣集団で言えば、火消しの棟梁の息子である「長吉」は、下層階級の子供が集まる「横町組」の頭目であるのに対し、「美登利」と「信如」の立場は微妙です。「信如」は、この界隈の大地主である「龍華寺〔「大音寺」がモデルとの説もあるが、「千束神社」の別当寺「龍泉寺」とすれば信如の権威は絶大〕の跡取り息子ですから、本来は中・上層子弟の「表町組」であるはずが、今年の「千束神社」の祭礼では、なんとかして「横町組」として「表町組」を出し抜いてやりたい長吉の説得に負けて、「横町組」の味方をすることとなります、絶対に乱暴はするな、と長吉に条件を付けたうえで。逆に「美登利」は、いくら大店 おおだな の花魁 おいらん 女郎の妹とはいえ、しょせんは女郎屋の寮に身を寄せる一家、「表町組」にふさわしい身分とはいえないのに、「表町組」の花形となって仕切っています。

 

 

Émile Munier, Deux Filles Avec Un Panier De Chatons, Two Girls

 With A Basket Of Kittens, 1895. ©Wikimedia.

エミール・ミュニエ『仔猫の籠をもつ2人の少女』1895年。

 

 

 いざ祭礼の日には、信如の忠告はどこへやら、長吉ら「横町組」は、美登利ら「表町組」が幻燈会を催そうとしていた会場へ暴力的に乱入して狼藉のかぎりを尽くします。その場で長吉は、催しの主催者である美登利めがけて泥のついた草履を投げつけ、これが美登利の顔面に的中したことから、美登利長吉信如を恨み、学校に登校しなくなってしまうのです。↑上の美登利の独白では、長吉に対する恨みが、信如への一種お門違いな怨恨に転化していくさまが、少女の心理に即して如実に描かれています。

 

 

『本来は中立的であるべき「地の文」が登場人物に癒着して感情価を帯びる、その一方で、登場人物の主観的発話のほうもまた半ば「地の文」化し、西欧語における「自由間接話法」に似た何かが出現する〔…〕。このような相互浸透が、一葉の小説言語にしか無いものだとまでは言えないが、『発話者と言語態とのこうした複雑な絡み合いが一葉のエクリチュールの本質的な魅力の一つを形づくっていることはまちがいない。

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.11-12. .  

 

 

 松浦氏は一葉の話法を、フランス語,ドイツ語等の「自由間接説話」になぞらえているのですが、この喩えは必ずしも正確ではありません。これらの言語では、英語の that-clause にあたる構文を使わずに、〈地の文〉と変わらない構文で間接説話を表現することができるのです。というのは、英語以外のヨーロッパの言語では、間接説話には「接続法」という特別な動詞活用形を使うからです。that-clause が無くても、動詞の形を見て〈地の文〉と間接説話を区別することができます。英語は「接続法」が無いために that-clause が必須になるのです。

 

 この「接続法」にあたるものは、日本語の「雅俗折衷文体」では、俗文体がその役割を果たしていると言えます。用言が口語活用ならば〈セリフ〉文、文語活用ならば〈地の文〉と言うことができます。ところが、一葉の場合には、上記引用のような〈地の文〉と「登場人物発話」の「相互浸透」の場面では、「登場人物発話」が〈地の文〉と同じ文語体になってしまうのです。通常の〈地の文〉よりも俗語的な語彙が多くなりますが、それでも、用言語尾は大部分が文語活用形です。けっきょく、区別の明確な指標は無く、人称の使い方や、感情価の濃さといった、きわめて曖昧なものから判断するほかはありません。しばしば、どこから「登場人物発話」になり、どこから〈地の文〉に戻っているのか、判断に苦しむ場合があります。

 

 しかし、この《あいまいさ》こそが一葉の小説文体の特徴であり、卓越した特性でさえあるのです。そこでは、個人と他の個人の境界,個人と集団との境界が曖昧になり、しばしば融合していくかに見えます。が、それでも個人の主体が消滅してしまうわけではなく、むしろその曖昧さをつらぬいて、集団からも権威的な個人からも離反することを恐れない強靭な《主体》が現出する、そのような語りを可能にする文体だと言ってよいと思います。

 

 次回は、『にごりえ』第5節に戻って分析を続けるなかで、こうした《主体》表出の問題にも触れていきたいと思います。

 

 

 

 

 


 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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