本郷5丁目・赤門前 法真寺門前のポスター。
【28】 「萩の舎」の一葉と田辺花圃
「萩の舎」では、歌題を与えられて和歌を詠む「稽古」・添削のほか、2者対決の「歌合 うたあわせ」、『古今集』『伊勢』『源氏』『枕草子』『徒然草』などの古典の教授、古典散文を書き綴って講評を受ける「作文」も行われていました。一葉の3歳年上の姉弟子に田辺花圃 〔かほ. 1869-1943年. 92年、国粋主義者・三宅雪嶺と結婚し三宅姓〕 がおり、この人は、一葉が入門した翌々年の 1888年6月に、坪内逍遥の校閲で処女作の小説『藪の鶯』を出版して原稿料 33円20銭を得ています。当時は、米 10kg が 33銭。今は 5kg で 3000円以上ですから、33円=1000kg= 60万円を超える金額となります。
この田辺花圃と樋口一葉が、その年の春、「萩の舎」で書いた作文が残っているので、比較してみましょう(島内裕子『樋口一葉の世界』,2023,放送大学教育振興会,pp.50-54.)。当時、花圃は 19歳、一葉は 16歳、花圃はデビュー直前です。まず、花圃の作文↓:
『 月夜に梅を尋ねて
繭籠もりたる柳〔芽吹き前の葉つぼみの柳。『枕草子』「三月三日」段〕の枝に、夕月の、覚束無げにかかれる様〔∽『徒然草』104段〕、いとをかしきに、〔…〕まづ、岡辺の林に至れば、いつか三ツ四ツ咲き初 そ めて、薫り、えも言はず。風は寒けれど、これもしるべと思へば 風ガハコンデクル匂イヲ道シルベニシテ、なつかしくて行 ゆ き帰る間 ま に イッタリキタリシテイルト、月は、いつしか山の端 は に入りて、あたり、暗うなりゆくままに〔∽『枕草子』1段〕、梅の匂ひ、いよいよ添ひて、限りなくをかし。されど、あやなき闇は〔「春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる」『古今集』春上41〕、何 なに となく、後ろのみ見られて ヒトノ目ガ気ニナッテ、〔…〕』
放送大学での説明によると、古典の表現や語彙を切り出して自分の文章に取り入れているが、わざとらしくなく「自然な書きぶりであり、なおかつユーモラスで巧みである」。省略した後半は、『古今集』を本歌取りした自作和歌で締めくくっています。
しかし、私の受ける感じでは、古典の想起をつなぎ合わせた以外は、どうということもない月並みなヨモヤマ談義で、「えも言はず」「限りなく」といった空虚な表現も目立ちます。全体に、感性よりも、ありきたりな理屈づけがまさっている。これなら、目の前の風景も嗅覚も無視して、古典そのものを読んでいたほうがまし、ということになるでしょう。(言い過ぎ?)
つぎに、一葉の作文を見てみます:
『 月夜に梅を尋ねて
葦垣のもとには、昨日まで消え残りたる雪も見えしも、さすがに、月の影など霞むとはなけれど、寒からぬ程になりぬ。宵のほど、閉め忘れたる窓の内に、薫り入りたる梅の香 か の、いとなつかしきに、思ひ出づれば、今朝なむ、「向かひの野辺の梅の咲きぬる」とか、道行人 みちゆきびと の言ひぬるを、事に紛れて、忘れにたり。「いでや。夕月夜の面白きほど、余所見 よそみ 過ぐさむも、花のため情けなくや」とて、出づるとはなしに、柴の戸を出でてみれば、慣れたる道も折からにや、珍しう覚えて行くほどに、「白く見ゆるは」と言ひけむ〔「うちわたす遠方人に物申す我 そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」『古今集』1007:相手を梅の花と見なしての求婚歌〕も、かかる夜にやあらむ。それかとばかり見ゆるも、いとなつかしう、香 か など吹き送る風の、寒く身に沁むも、そぞろ嬉しき心地する夜 よ の様 さま になむ。』
京都市右京区嵯峨鳥居本北代町。
これは、一読して衝撃を覚えずにはいられません。なによりもまず、作者の人物像が、言外に、眼の前に浮かんできます。おそらく、作者は日中忙しく立ち働いていたのでしょう。ふと耳にした通行人の「梅の便り」も、雑事にまぎれて忘れていたのが、たまたま閉め忘れた窓の隙間から入ってきた梅の香りで、俄然と思い出されます。その「匂い」から蘇るなつかしさ。1年前、あるいは数年前に感じ取った感性の記憶が、こみあげて来るようです。みなさんも、こんな・まざまざと蘇ってくる「季節の想起」を体験したことがあるのではないでしょうか? 誰にでもある感性体験なのだけれども、それをテクストにして表現することができる才能は、並みのものではありません。
それは、おおげさに言えば「自己の発見」「人間の発見」であり、発見された「自己」が・その中で生き生きと躍動する「自然の発見」であったと言えるでしょう。たとえば、18世紀末ドイツのゲーテ〔1749-1832年〕は、言語的・文化的伝統を切断して、彼が思うところの「感じたまま」の感性をシンプルな表現で表出しようと努めました。それと同じことが、明治20年代の日本でも起きていたのだ、と思われるのです。
花圃の絢爛たる「本歌取り」の連続に比べ、一葉の文に使われている「本歌」はたった一つですが、その歌の「こころ」は、「せっかく咲きそめた花を見に行かないのは非情だ」という一葉の思いにつながっています。それは、〈世間から無視されている・目立たないものをこそ私は取り上げて注目しよう〉という作家の姿勢として、のちの一葉において花ひらくものです。
このように、一葉の文は、その内容においては瑞々しくも近代的であるのに、テクストの語法は花圃の文よりも古めかしく、当代の口頭言語から懸け離れる程度が大きいことも注目されるでしょう。逆に言えば、花圃や、当時の新聞記事のような・当代口語風に変化した文語テクスト、或いは後の「言文一致体」のようなテクストでは失われてしまう古典文学特有の感性や表現の仕組みを、近代小説の中に生かしてゆく余地を、一葉のテクストは持っていたのかもしれません。
放送大学では、花圃の作文は「結びもユーモラスでメリハリがあり、一読して印象の強い作品となっていた。それと比べると、一葉の文章は、全体になだらかで、おとなしい感じがするが、気をつけて読むと、時間の推移と情景描写が細やかである点が優れている」と評しています。そのなかで、とりわけ「時間の推移」、つまり「[今]を起点として」「昨日」「宵のほど」「今朝」‥‥というように「間断なく時間の流れを自在に前後させ」る手際のみごとさは、私も強く印象づけられます。
語法の用語で言えば、「時制」の自在な扱いであり、それは、「人称」の交替と ぼかし、「話法」の交替をあえて隠す効果、といった技法と相まって、のちに一葉小説特有の躍動感溢れるテクストを形造ってゆくこととなります。
一葉が「萩の舎」に入門した翌年 4月16日の稽古日、中島歌子の発案で、「伝通院」を抜けて「小石川植物園」まで花見に出かけることになりました。「伝通院」の境内は荒れており、令嬢たちは歩行に難渋していましたが、歌子は果敢に先頭を進み、一葉も負けじと後に続きます。
「植物園」に着くと、令嬢たちはみな「思い思いに桜の枝を折り取って遊楽していたが、一葉だけは、植物園の桜を折り取るような行動に批判的であった。帰途、」ほかの塾生はみな桜の枝を髪に刺したり手に携えたりしていたが、一葉は、「あなたの枝は?」と問われて、「日陰に生えていた楓が、太陽の光も知らずに枯れてしまうのが惜しいので、抜き取って家の庭に植えることにしました」と答えています。日陰の楓の幼樹を移植して日の目を見させようとする一葉の行為は、「奇しくもその後の一葉の人生」を象徴していたのです。(『樋口一葉の世界』,pp.60-61)。
のちの「菊坂町」居住時代〔18-21歳〕に一葉は、生活を打開するために、田辺花圃に倣って小説を書き、原稿料で家族の生活を支えることを思い立ちます。そこで一葉は、花圃の「『藪の鶯』を何度も何度も読み返し、逍遥の書いた序文や、本文などを書き写したりして研究し、自分でも習作を書いてみた。」(『樋口一葉 人と作品』,p.35.)。
この「模倣」というやり方は、小説家を志す人が必ず実践する修行のひとつですが、一葉の場合には、それが、もしかしたら彼女を遠回りさせたかもしれないと思います。前回【27】で見たように、「14か月」直前の一葉は、花圃のテクストにたいへん近い「本歌取り」一辺倒のような小説を書いていました。が、その「型」を破ってはじめて、一葉は一葉になれたのです。たしかに、花圃を模倣した極限として書かれた『やみ夜』は、技巧的には高度なものとなっていますが、一葉らしさが発揮されていないようにも思えるのです。むしろ、まだ小説家をめざす前の「作文」のほうが、一葉らしいとさえ言えるのではないでしょうか?
【29】 一葉紀行 ――「高輪」から終焉の地まで
「萩の舎」では、「歌会ともなれば、まるで衣裳比べの会でもあるかのようにその日の着物のことでもちきりになる〔…〕令嬢たちの中に入って、一葉は」切ない思いをしました。「一葉は心の中で、彼女たちのきらびやかさにいつも反抗していた。〔…〕自分の歌が一番になると得意であったし、自分の才能も信じていた。」ところが、そうした矢先、樋口家は、跡取りの長男・泉太郎のタヒという不幸に見舞われます〔1887[明治20]年12月〕。思えば、これが樋口家没落の始まりであったのです。
一葉は、後日の日記で、つぎのように回想しています:(『樋口一葉 人と作品』,pp.27-28.)
『廿年十二月兄〔泉太郎――ギトン註〕を失ひ、それよりだん乀/わざわひおこり〔…〕、すべて世の中のことをそれより知りはじめし、〔…〕
廿一年五月あまりに親のよわければ、兄〔次兄・虎之助――ギトン註〕のそばよからんと、芝高輪 たかなわ え移る。
其とし人のすゝめに寄て、をかしき会社を父のたてんとて、九月半 なかば 神田表神保町え移る。』
東京都港区高輪2丁目「泉岳寺」。背景のビルが立つ高台まで「2丁目」。
長兄・泉太郎は「成績も優秀で、父の則義も目をかけていた。」1883年に漢学塾を卒業し、家督を相続しましたが、翌年には 3か月間、熱海で療養しています。この時から肺結核に罹っていたのかもしれません。85年2月には「明治法律学校」〔現・明治大学〕に入学し、大いに一家の期待を背負ったのですが、病気がちで学業継続が困難になったのでしょうか、まもなく退学して関西方面で事業を起こそうとしますが、それもかなわず帰京、大蔵省出納局に雇われたものの 87年9月に吐血。病床の人となり、年末にタヒ去。
戸主であった泉太郎のタヒ亡で、相続により一葉が戸主となります。次男・虎之助は「学問がきらいで、奔放な性格であったので、両親は早くから分家させ、陶工」のもとに弟子入りさせていました。そのため、家には泉太郎を継ぐ男子がおらず、一葉が、満15歳の少女の身で戸主となったのです。
「頼りにしていた泉太郎を亡くして、則義はがっくりしてしまった。にわかに老いが押し寄せてきたよう」になって、上野「西黒門町の家を売り」、妻子とともに、かつては勘当同然に分家した虎之助の住居に身を寄せたのです。
虎之助は、陶器の絵付師として身を立てていました。虎之助の住居は、現在の住居表示では「高輪2丁目」ということしかわかりません。ただ、同丁目には「四十七士」の墓所で有名な「泉岳寺」があるので、上に↑その写真を出しました。
明治中期の神田錦町。『明治の日本 宮内庁書陵部所蔵写真』吉川弘文館,2000年。
すっかり老いこんだ父に対して、家屋敷を売った金を持っていることに眼をつけ、事業を起こすよう勧める人(虎之助の住居の家主か?)があり、神田錦町1丁目1番地に「荷車請負業組合」というものを設立し、則義は「事務総代」に就任します。住居も、「組合」事務所に近い「表神保町」〔現・神田神保町1丁目の南部分か。「すずらん通り」の南方〕に移ります。
ところが、この事業は大失敗で、父は出資金を持ち逃げされたうえ、全責任を背負わされ、多額の借金を負って病いに倒れることとなります。上の日記を見ると、一葉は初めから、この事業は「おかしい」と気づいていたようですね。
事業の失敗とともに、住居を「淡路町2丁目4番地」に移しますが、ここで1889年7月、父は失意のタヒを遂げたのです。
千代田区神田淡路町2丁目。ここは戦後の住居表示が実施されなかった地域なので、
地番が変わっていないとすると、「4番地」は、横断歩道手前の右側。
父の葬式を出した後、一葉,母,妹の一家は再び虎之助のもとに身を寄せますが、この時虎之助は、高輪に近い現・芝2丁目に移っていました。家主との関係に、「組合」倒産の影響があったかもしれません。父が残した負債は、戸主である一葉の肩にかかり、実質上は一家の借財でした。ひきかえ、分家している虎之助は、負債の取り立ては避けることができたと思われます。当時は、民法制定前であり、「相続放棄」のような制度は無かったのでしょう。
芝2丁目の住居では、虎之助と母のあいだが、たいへん折り合いが悪く「もめごとが絶えなかった」といいます。おそらく、父の倒産の軋轢が尾を引いていたのではないでしょうか。一葉は、「萩の舎」塾長の中島歌子に相談したところ、「そんなら女学校の教師の口をさがしてあげるから、それが決まるまで、しばらく萩の舎に住みこんで、助手をしてもらいたい」と言われ、安藤坂に住み込みを始めます。ところが、「歌会の手伝いと思っていたのに反して、ろくろく稽古もできずに、台所仕事に追われ、まるで女中」のように只働きの毎日、女学校教師の話などはまったく沙汰止みでした。(『樋口一葉 人と作品』,pp.28-32.)
悪い時には悪いことが重なるもので、一葉はこの間に婚約破棄の憂き目を見ます。相手は渋谷三郎〔1867-1931年. 92年養子縁組後は阪本〕という男で、1885年に「東京専門学校邦語法律科」〔現・早稲田大学法学部〕に入学して高等文官試験〔現行・国家公務員上級職試験・司法試験・外交官試験を併せたもの〕をめざしていました。甲州人脈の一人で、入学・上京後、一葉が裁縫を習いに来ていた家で知り合い、樋口家にも足繁く訪れ、則義は、一葉の結婚相手として心中で白羽の矢を立てていました。病いに倒れた則義が病床からそのことを確かめると、渋谷は快く結婚を承諾したのでした。渋谷は自由党員の民権家で、「男女同権」を主張していました。
ところが、則義の没後、一葉の母が婚約の件を確かめると、一葉は思案するまでもなく承諾したものの、渋谷は言葉を濁し、結局破談に至ったのです。破談の原因は、渋谷が学費,生活費の援助を求めたのにたいし、則義亡き後の樋口家にそんな余力は無かったためと思われます。その後、渋谷は高文試験に合格して各地で裁判官,検事を歴任し、子爵の令嬢と結婚して秋田県知事,山梨県知事,早稲田大学理事,法学部長を務め、甲州人脈の VIP となっています。「この事件は一葉の若い心を深く傷つけ男性への不信感を植え付け」ました。それは失恋というよりも、経済的苦境の中で手のひらを返されたことで「身に沁みた零落意識」であったと言えます。(同上,pp.33-34.)
「萩の舎」でも「内弟子」という名の女中生活に幻滅した一葉は、5か月で住み込みを切り上げ、1890年9月、安藤坂からほど近い「菊坂町」の借家へ、母,妹とともに移ります。そこは、本郷の高台住宅地と小石川・後楽園に挟まれた、吹き溜まりのような狭い谷間で、のちに、「はたらけど はたらけど猶ほ 我が暮らし 楽にならざり」の石川啄木や、蝙蝠傘一本で家出してきた宮沢賢治も住んでいます。とくべつに家賃の安い界隈だったのでしょう。それでも、3人の針仕事・洗い張りなどの内職以外に収入のない生活は苦しく、借財は膨らむばかりでした。「萩の舎」の稽古は休みがちでしたが、塾生の令嬢・貴婦人から針仕事を貰い受ける便宜があったので、通いつづけています。
文京区本郷4丁目32・31(旧菊坂町70・69番地)。
「菊坂町」の借家には、途中・町内で引越して合計3年間住んでいます。そのなかで、一葉が「小説家になろう」と決心したのは 1891年の年初、数え年 “はたち” でした。動機は、収入を得て「戸長」として家族を支えるため。一足早くデビューした田辺花圃が目標でした。「花圃が逍遥を師としたように、小説の師をみつけることが一番である考えた」一葉は、知人のつてをたぐって半井 なからい 桃水という流行小説家に行き当たります。
しかし、田辺花圃は、従三位・元老院議官の令嬢です。父は、幕臣であった時から何度も渡欧し、パリ万博にも派遣されており、政界にも文化界にも広い人脈を持っていました。花圃が坪内逍遥から直接指導を受けることができたのも、父の人脈と家のステータスあればこそなのです。
ひきかえ樋口家はといえば、幕末に百姓から成り上がった “にわか士族” にすぎません。半井桃水は、こんにちでは名も知られない通俗作家で、『東京朝日新聞』で記者を務める傍ら、挿絵入り大衆小説を書いていました。しかも、桃水は「派手好きな〔…〕美男で、遊び方もうまかった。」女性には物腰柔らかで「親切で〔…〕一葉〔…〕は初めて理想の男性にめぐりあった思いがしたにちがいない。」ほとんど一目惚れの状態でした。桃水は、とうてい人にものを教えられる風格の男ではないにもかかわらず、一葉は桃水の小説さえろくに知らず、ただ有名作家だというだけで、師事すれば「どこかの新聞に載せてもら」えるだろうぐらいの気持で入れ上げていったのです。
色男は醜聞も噴煙のように沸き上がります。ただの師弟の間柄ではない云々の噂は、まもなく「萩の舎」にまで伝わり、中島歌子から注意を受けた一葉は桃水との交際を断つのですが、半年もしないうちに一葉のほうから桃水を再訪し、以後は内密に師弟の熱い交流を続けていくことになります。
文学と言えば『源氏』『枕』『徒然草』しか知らない一葉の習作小説にたいして、桃水の批評指導は、「もっと一般読者の好むものを書け」ということに尽きました。ある時には、こんなものは到底新聞には載せられない、といった桃水の一言が、一葉を激しく落ち込ませたりもしたようです。それでも、「萩の舎」流の「みやび」だけでなく当世流の小説にも眼を向けるようになったのは、桃水のおかげでした。一葉は「上野図書館」に通って、当世小説を読み込んでいきます。田辺花圃の紹介で、92年11月から『うもれ木』を、当世一流の商業文芸誌『都之花』に連載し 11円あまり〔現価で 20万余円〕の原稿料を得ています。この小説は、幸田露伴流の作風にがらっと変えて兄虎之助をモデルに「世にいれられない名人気質の陶工の一生を描いたもの」でした。
また、桃水は、文壇に広い人脈を持つだけに、自分の影響下にある文芸誌に一葉の小説を載せたり、尾崎紅葉のような一流作家に一葉を紹介しようとしたり、そういった方面では、たいへんに骨折ってくれました。ただ、収入の面では、これらはほとんど一葉の助けにならなかったようです。桃水の関係する文芸同人誌のなかで、とりわけ一葉に発表の場を提供するとともに有益な文学仲間を恵与したのは、1893年創刊の『文学界』〔1933年創刊の現行同名雑誌とは無関係〕でした。同誌は、毎月投稿の催促をする一方で、小説の内容には一切干渉しなかったので、自分の作風を確立しようと模索中の一葉には、好適な活躍の場となったのです。
こうして、書いた作品が次第に読まれ、評価されつつある一葉でしたが、新聞小説作家の弟子になれば「すぐにもお金になると思っていた」母と妹にしてみれば、一葉の小説修業はまったく当て外れでした。そこで、一葉とも相談の上、1893年7月〔一葉 21歳〕、「吉原」遊郭に近い「下谷区下谷竜泉寺町」の繁華街に店舗兼用の住居を借りて雑貨・駄菓子店を開業します。開業資金15円は、あちこちの知人に奔走して借入れ、手持ちの衣類も全部売り払って調達しました。(同上,pp.39-49,52,60-66,72-73.)
手彩色絵葉書「東京吉原」(明治大正時代) ©Wikimedia.
「竜泉寺町」の雑貨店は、わずか 10か月しか続きませんでしたが、この間の見聞は、一葉の文学に恰好な素材を提供しました。「吉原」界隈を直接の舞台とする名作『たけくらべ』はもとより、他の多くの作品の人物造形や背景設定に影響を及ぼしています。現在でも、「一葉の旧跡めぐり」と言えば、この旧「吉原」界隈のツアーと相場が決まっているほどです。が、ここでは↑絵葉書を1枚出すにとどめ、詳しくは後ほどの紀行に送りたいと思います。
94年5月、一家は店をたたんで現・文京区西片に転居します。西片町には半井桃水の家もありましたが、それは高台の上。一葉らが越したのは、その崖下で「銘酒屋や安待合」〔接待付き居酒屋を装った私娼,女郎屋,売り専〕が犇 ひし めく・「新開地」と当時称された一角でした。
が、収入の面では、これ以後やや好転します。というのは、一葉に小説執筆依頼が増えてきたのに加え、近在の「銘酒屋」から看板の揮毫を、「私娼」たちから客筋への恋文の代筆を頼まれるようになったからです。
文京区西片1丁目17-8。赤丸内に「樋口一葉終焉の地」プレートがある。
右の工事現場から、すぐ奥が台地で住宅街になっているのがわかる。
文京区西片1丁目17-8。「樋口一葉終焉の地」プレートと「一葉樋口夏子碑」。夏子は
一葉の本名。「夏子碑」は、明治27年4月28日,5月1日の一葉の直筆日記を刻す。
一葉は、この地に 2年7か月居住して生涯を閉じます。その間、94年12月から 96年1月までが「奇蹟の14か月」といわれる最も多産な時期でした。一葉が最後の力を振り絞って数々の名作を生み出したのは、まさにこの場所であったのです。
一葉の日記『しのぶぐさ』の 1895年の箇所に次のように書かれているのは、この住居の隣りにあった「鈴木亭」という界隈最大の銘酒屋のありさまです:
『となりに酒うる家あり。女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめ〔女〕に似たり。つねに文かきて給はれとて、わがもとにもて来る。ぬし〔彼氏。手紙の相手――ギトン註〕はいつもかはりて、そのかず〔数〕はかりがたし。〔…〕
うしろは丸山の岡にて、物しづかなれど、前なるまちは、物の音つねにたえず。あやしげなる家のみいと多かるを、かゝるあたりに長くあらんは スンデイルト、〔ギトン註――一葉らも〕まだ年などのいとわかき身にて、終 つひ にそ〔染〕まらぬやうあらじと、しりうごと〔陰口――ギトン註〕折々に聞ゆ。
つまごひの きゞす キジ の鳴音 しかの声
こゝも うきよの さが〔嵯峨/性〕の奥也』
小野芙紗子・他『樋口一葉 人と作品』,2016新装版,清水書院,p.91. .
この「鈴木亭」の私娼をモデルとする小説が『にごりえ』で、次回はそのテクストを取り上げます。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!












