【前回】⇒ 明治の表象空間(1)

 

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東京日本橋風景。芳虎・画。国会図書館蔵。「文明開化」の象徴である馬車が

行き交うが、乗っているのは江戸時代と変らぬチョンマゲと和服の人々である

 

 

 

 

 

 

 

 

【3】 「理性」の使い分け ―― 明治官僚の二面性

 

 

 今日わたしたちが使っている漢字2字熟語の大部分は、古来からあるものではなく、明治時代に日本の啓蒙家たちが、西洋文明の導入にあたって考案したものです。彼らは、岩倉具視,大久保利通,伊藤博文といった明治政府の指導者層(薩長藩閥)とは異なり、穏健な「民権派」に属する知識人でした。

 

 明治の啓蒙家の代表的な人物は、森有礼の提唱で結成された〈明六社〉に集まっていました。そのなかでも、近代的漢字熟語の創出に、とりわけ大きな役割を果たしたのは西周 にし・あまね 1829-1897〕です。「科学」「芸術」「技術」「哲学」「理性」「心理学」「意識」「知識」「概念」「定義」「分解」‥‥これらの語はすべて、西が考案し,または現在の意味で使い始めたのです。

 

 啓蒙思想家としての西周は、一方では『国民気風論』〔1875年〕において、天皇制とそれを支えた民衆の「気風」を、近代合理主義に基いて激しく批判しました。西は、「神武創業以来〔…〕君上を奉戴して自ら奴隷視する」風潮は、我が国において「尤も甚し」かったと書いています。ところが、その西が、他方では、「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある」で始まる『軍人勅諭』〔1882年〕を政府・陸軍のために起草したという驚くべき事実があります。西周に代表される・日本啓蒙思想のこのような二面性は、彼らが明治政府の「国権」専制を批判しながら、その一方で政府に出仕し、藩閥政府の官吏として専制的国家の建設をその足許で支えていたことによるものです。

 

 明治政府の「開化」政策じたいが、開化啓蒙と専制支配の二面性を有していました。明治啓蒙派の二面性は、藩閥政府の二面性を引き継いだものと言うことができます。



『明治政府の指導者層は、民衆をしばしば子供に譬 たと え、みずからそれを善導する「保傅 ほふ」すなわち子守りたらんとしていた〔…〕この保護者的姿勢と・それへの民衆の甘えとの共犯関係が、カント的意味での「啓蒙〔「理性」の自由な「公的」使用,「大きな正論」――ギトン註〕と真っ向から背馳する〔…〕ことは明らかだろう。自身の悟性〔=理性――ギトン註〕を働かせて自ら判断する〔…〕能力・を欠如させた民衆に代わって、政府が・判断し決断してやればよいのだ、という選良意識を基盤として、彼ら〔明治政府の指導者層――ギトン註〕は支配のシステムを構築〔…〕した。日本が内外のあまたの危機の芽に脅かされつつ近代的なネーション・ステートの形を整えつつあった過渡的な一時期を、「由 よ らしむべし知らしむべからず」という封建的支配観の残滓によって〔…〕切り抜けようとしたのである。

 

 この体制イデオロギーを批判し、また補完するかたちで、政治的主体としての「国民」の観念に内実を与えようとしたのは、〔…〕森有礼の発議の下、〔…〕西周,中村正直,加藤弘之,〔…〕福沢諭吉〔…〕箕作麟祥〔のち政府の下でフランス民法典を翻訳し「権利」「義務」「不動産」等の語を作った――ギトン註〕らが参加して結成された〈明六社〉の「啓蒙思想家」たちであった。彼らの身振りは基本的に「教育」であり、〔…〕半ば体制側に立つ穏健な漸進主義を堅持した〔…〕

 

 『明六雑誌』第32号掲載の論文「国民気風論」において西周は、日本人古来の「気風」を激しい語調で批判したうえで、その変化の必要を説いている。西は、』アジアの専制諸国家のなかでも『「就中 なかんずく 我ガ日本国ニ至テハ、神武創業以来皇統連綿茲 ここ ニ 2535年君上ヲ奉戴シテ自ラ奴隷視スルハ之ヲ支那ニ比スルニ尤甚シ」と断言する』西は、『民衆によるみずからの理性の公的使用・を阻害する主要因を天皇制に見』ている。『すなわち、天皇の権威の下に支配の正統性を基礎づけようとしていた政府と、天皇への拝跪が「啓蒙」の障碍となっていると考える〈明六社〉〔…〕とのあいだには明確な対立があった。〔…〕

 

 

Arnold Genthe:  "Travel Views of Japan and Korea", 1908~.

明治40年ころの日本のふつうの街角風景である。

 

 

 西周の「国民気風論」は、2535年にわたる皇統の君臨のゆえに日本の民衆が「自ラ奴隷視スル」に至っている現状に批判〔…〕を向けている。これは、未成年状態からの脱却を指嗾しそう: けしかけること――ギトン註〕している提言にほかならず、「啓蒙」のプロジェクトの一環として模範的なものと言ってよい。〔…〕西は、その一方で、明治 2年兵部省に出仕して以来〔…〕文部省,宮内省など〔…〕を歴任しており、そのかぎりにおいて〔…〕彼の地位と官職にふさわしい「小さな正論」の遂行にもいそしんでいた。彼は明治政府の軍制整備に尽力し、近代日本の軍人の倫理と行動規範の確立に決定的な役割を演じた2つのテクストの成立に本質的な寄与を行なっている。〔…〕「軍人訓戒」を起草したのは西周、と推定されており、〔…〕歴史的重要性ははるかに大きい「軍人勅諭」の〔…〕起稿に西が関与していることもまた確実〔…〕である。

 

 皇統が続くかぎり日本人は自由な主体たり得ないと『明六雑誌』に書いていたのと同一の人物が、「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある、昔神武天皇躬 み づから〔…〕中国 なかつくに のまつろはぬものどもを討ち平げ給ひ、〔…〕天下 あめのした しろしめし給ひしより、二千五百有余年を経ぬ」と始まる「軍人勅諭」の起草者〔…〕であったことの矛盾を説明するのに、変節とか転向といった概念は必ずしも必要ではない。理性の公的使用における無際限の自由と、その私的使用における制限された自由という2種類の自由の共存が、官吏にして知識人たる西の分裂した言説実践をそのつど正当化しているのだ。

 

 問題は、彼が官吏という職分上から理性私的使用して行なった作文が、やがて大きな正論虚像に溶けこんで国民全体を縛り上げ西自身の「啓蒙家」としての「論議」さえ圧殺する機能を果たすようになっていった〔…〕点である。第2次世界大戦期に至ると、「軍人勅諭」はほとんど神格化〔…〕し、陸軍将兵〔…〕はもとより、一般の学校においても暗唱』が強要され『ていったのだ。

松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.233-235,237,265-267.  



 「民は知らしむべからず」の徳川専制の下で・理性の使用を禁じられてきた愚昧な民衆に対して、「開化」による国権強化が至上命令であった明治政府は、「理性」の一定程度の使用を許し、いやむしろ強制しました。政府は、「開化」と近代的支配の貫徹に必要な限度の理性使用を、民衆にたいし強制したのです。民衆の「理性」使用なくして、徴兵も地租徴収も殖産興業も、…工場労働さえ不可能だったからです。義務的小学校教育は、国民に「理性」を強制的に植え付ける手段でした。

 

 その一方で、明治政府が国民に勧奨したのはあくまでも「理性」の「私的使用」――明治政府の「私的」な意図に都合よい理性の使用――であり、「小さな正論」でした。民衆の「理性」が政府の意図を超えようとしたとき――たとえば「自由民権」派による政府批判――、明治政府はこれを徹底的に弾圧したのです。

 

 明治政府の「民権」弾圧の矛先は、「理性の公的使用」一般に向けられました。したがって、穏健派である〈明六社〉の言論活動もまた禁圧の対象となったのです。1875年に「讒謗律」「新聞紙条例」が公布されると、〈明六社〉は、彼らの「大きな正論」の「論議」の場であった『明六雑誌』を自主的に廃刊しています。


 しかし、〈明六社〉に集まった啓蒙家たちは、そもそも禁圧される以前から、民衆「啓蒙」と、政府への忠誠とを使い分けていました。彼らは、『明六雑誌』上で自由な「理性」による「論議」を発表するかたわら、政府の「富国強兵」政策に協力して、「軍人勅諭」など、国民に「理性」の使用を制限する文書・法令を作成することに努めていたのでした。明治政府の「開化」の二面性を引き継いだ「啓蒙」の二面性、そこに、明治「啓蒙」派の重大な弱点があったのです。

 

 

Arnold Genthe:  "Travel Views of Japan and Korea", 1908~.

明治40年ころの日本のふつうの街角風景である。

 

 

 

【4】 福沢諭吉と「啓蒙の二面性」

 


明治14年の政変以後、明治初期の洋学派知識人たちによる「啓蒙」のプロジェクトは、ある頓挫をきたすことになる。〔…〕大半が政府に出仕する官僚でもあった「啓蒙家」たちは、その「地位もしくは官職」の立場からの小さな正論群の練り上げに追われ、理性の自己目的的な行使〔=「大きな正論」「理性の公的使用」――ギトン註〕などに時間と労力を割く余裕が無くなっていった、という点もある。国際感覚を備えた彼ら開明派のエリートに求められていたのは、何よりもまず、小さな正論群からなる言説システム〔警察官・巡査の心得から、戸籍,刑法,教育勅語に至るまで――ギトン註〕を礎に据えたネーション・ステートを現出せしめることであった。風雲急を告げる国際政治の荒海へと、不平等条約というハンディキャップを背負って船出しようとしていた明治日本に、曲がりなりにも近代国家の輪郭を与えることが、彼らにとっての急務だったのである。〔…〕

 

 福沢諭吉〔…〕『学問のすすめ』は第2篇で「人は同等なる事」を謳い、第3篇に至って「一身独立して一国独立する事」を主張する。カント的に言うならそこには、「国民」一人一人が「未成年状態」を脱して理性主体となることによってのみ、日本というネーションもまた国際社会における行為主体ネーション・ステート、すなわち近代的主権国家――ギトン註〕たりうる、という認識が示されている。「右の次第に付、外国に対して我国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、国中の人々貴賤上下の別なく、其国を自分の身の上に引き受け、智者も愚者も目くらも目あきも、各 おのおの 其国人たるの分を尽さゞる可 べか らず」。

 

 これは、理性私的使用〔…〕にとどまる限りでの合理主義の導入によってはネーション・ステートは成立しがたい、という宣言であったとも言える。彼が「疑 うたがひ」の必要を強調し「惑溺」からの脱却を説いたのも、限界のない自由とともに、理性公的使用しうる主体の出現を待望してのことだろう。』

 

 しかし、「明治14年政変」以後は、『その福沢の言説も、民権から国権へと重心移動し、〔ギトン註――「理性の公的使用」である〕「論議」よりはむしろ、小さな正論群の発信による世論操作へと向かっていった。〔…〕福沢はつねに「現在」を、「現在」のみを相手どり、その時その場での現実的効果を狙って発言しつづけてきた言論人であり、』彼の『発信は、たしかにその時その場で或る効果を持たなければ意味がないというプラグマティックな配慮に貫かれて』いた。が、そうであるだけに『その融通無碍 むげ なプラグマティズム』による『発言は〔…〕文脈依存的な振動やぶれを示さざるを得ない。その臨機応変のリアリズム』は、『『時事新報』の最終的な右傾化を押しとどめるには無力であった』

松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.267,240,268,210.  

 

 

Arnold Genthe:  "Travel Views of Japan and Korea", 1908~.

明治40年ころの日本のふつうの街角風景。スラムとかではない

 

 

 

【5】 『三酔人経綸問答』

が書かれた歴史的条件とは?

 

 

中江兆民は、福沢諭吉より 13歳年下だが、〔…〕この年齢差は、明治初期の激動のなかに置いたとき決定的な意味をもつ。維新以前からすでに旺盛な言論活動を開始していた福沢に対して、兆民『『民約訳解』の刊行はようやく明治15年〔…〕の出来事である。兆民の言論活動がその本領を発揮するのは、明治初年の大らかな理想主義の芽が、冷徹な官僚的管理テクノロジーによってことごとく摘み取られ、楽天的な「啓蒙」の言説群が機能不全に追いやられて以降のことなのだ。兆民とは、いわば明治14年の政変以後の思想家なのである。

 

 『三酔人経綸問答』〔明治20年〕は、まず第1に、「啓蒙」のプロジェクトの頓挫が刻印されたテクストとして読まれなければならない。』

松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.268-269.  

 

 

 

 

Arnold Genthe:  "Travel Views of Japan and Korea", 1908~.

明治40年ころの日本のふつうの街角風景。スラムとかではない。

 

 

 それでは、中江兆民が直面した「明治14年」以後の「閉塞された時代」とは、何だったのか?「啓蒙」のプロジェクトが頓挫した後の「隘路」とは、どんな状況だったのでしょうか?

 

 それを端的に解らせてくれるのが、↑上の3枚の写真です。1,2枚目に写っているアメリカ人夫妻が、3枚目でカメラを構えていると思ってください。子供たちの表情は何を意味するものか、彼らの視線は何を語っているのか‥‥明らかではないでしょうか?

 

 留意してほしいのは、撮影された・この時代、日本は、一方では朝鮮の植民地化を着々と進めていたことです。〔明治43年、韓国併合〕

 

  このようなアメリカ人たちから、大砲の砲口を向けられながら不平等条約にサインさせられ、結構な「洋学」のイデオロギーと文明科学を教え込まれ、武装させられてアジアの戦場に送り出されるとしたら、どうでしょうか? しかも、この事態に対して日本人の側が抗議する道,平和を語る道は、「洋学」の中にしか無いのだとしたら?

 

  (『三酔人経綸問答』には、「東洋」のイデオロギーに立脚して平和を語る人物がいない、ということは特徴的です。なぜかと言うと、そのような人物はカリカチュアにもパロディにもならないからでしょう。〔『三酔人経綸問答』は、いずれかの「正論」を表明する論文などではなく、三人三様の暴論を風刺する戯作小説ないしパロディ漫画です。次回に詳論しますが、兆民自身が、そう自評しています。〕「洋学紳士」の平和論に、儒教的な思想が多少見えるものの、それも「洋学」のなかに吞み込まれてしまっています。いまだ、「植民地独立」も「東洋的平和主義」も現出してはいない世界。それが、当時の「歴史的隘路」であり「時代閉塞の状況」だったのです。)

 

  けっきょく、この道を切り開いていくには、国内的に産業と軍備を近代化してネーション・ステート〔国民国家〕の体制を整えるしかない。そのためには、福沢らが渾身努力したように、「理性」と「自由」を国民のものとしなければならない。ところが、ネーション・ステートの体制を確立していけば、いつか「啓蒙」はその自由の翼をもぎ取られ、頓挫せざるを得ない。国民の「理性」と「自由」は、育成された果てに裏切られることになる。


  兆民が言論人として直面した時代、『三酔人経綸問答』が書かれた歴史的環境は、このような時代的現実だったのです。

 

 





 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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