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赤い線は 12月30日の,紫の線は 1月2日の,青い線は 12月14日の軌跡。 .

 

 

 

12月14日の軌跡。 .

 

 

↑ 12月14日の行程。 .

 

 

 シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。

 

 

 まんだら堂やぐら群」は、逗子市が、通常は立入禁止にして管理している。他方、鎌倉市にたくさんある「やぐら群」は、どこでも誰でもアクセスできてしまう代わりに、ほとんど管理も保存措置もとられておらず、その存在も価値も知られていない。大きな違いだ。逗子市の方針は、「やぐら」に関心をもつ愛好家にとって、たしかに便利ではない。が、そのぶん行き届いた保存・管理をしてもらえることを考えれば、不満に思う人はいないだろう。

 

 「まんだら堂やぐら群」は、その規模と内容から、費用をかけて管理するだけの価値があるとも言える。比較的文化財の少ない逗子市域に入っているから、それだけの手をかけてもらえるとも言える。鎌倉市のように歴史的文化財が山のようにある自治体では、「やぐら」のように未だ価値不明のものにまで予算と人手を割く余裕はないのだろう。

 

 逗子市亀ヶ岡団地の中にあるバス停で降りると、電柱に「限定公開」の貼り紙が貼ってある。

 

 

 

 

 ここが「名越 なごえ 切通し」の入口〔「第1切通し」〕。「朝比奈切通し」より規模は小さいが、ここも鎌倉時代に開かれた交通路だ。

 

 

 

 

 

 

 「名越切通し」は、鎌倉の他の6つの切通し道と同様に、鎌倉時代に外敵の侵入を防ぐために、あえて狭い掘り割り道を造ったのだと言われてきた。が、この通説は、最近の発掘調査をきっかけとして大きく覆されつつある。

 



 

 

 説明板の内容を要約すると、つぎのようになるだろう。

 

 「名越坂」が史料に初めて現れるのは 1233年〔『吾妻鏡』天福元年条〕だが、当時、鎌倉時代・前期には、ここは切通しというより峠道で、路面の掘りはあったとしても浅く、路は急坂だった。というのは、切通しに面した崖のかなり高い位置に、鎌倉~南北朝時代の「やぐら」があるからだ。(先日見た「朝比奈切通し」にも「やぐら」はあったが、路面から2-3m の低い位置だった。)

 

 その後、室町時代にかけて路面が掘り下げられて「切通し」の形になったらしく、15世紀後半には、「畳々たる巌 いわお をきり、山をうがち、旧跡の雲につらなる」〔堯惠『北国紀行』。鎌倉滞在は 1487年〕と記されている。発掘調査でも「第1切通し」〔「名越切通し」道にある3か所の狭い掘割のうち最も逗子側〕の逗子側で、現在の路より 5m 高い・15世紀の掘割道の跡が発見されている。(ということは、室町時代にも掘り割りの深さはまだ浅く、その後さらに深く掘削されていったことになる。現在の「第1切通し」は崖高 10m)

 

 「第1切通し」の発掘調査で検出された最も深い路面は江戸時代後半のもので〔18世紀後半以降製造の陶磁器が出土〕、鎌倉時代初めの峠道は、時代とともに深く掘り下げられ、江戸時代後半には深い切通し路となったことが判明した。

 

 このことは、山歩きをする人には経験上理解できることだろう。関東でも近畿でも、前近代に交通路となった古い峠道は、車馬の通行のために、また雨水の浸食を受けて、深く掘れているのをよく見かける。鎌倉の「切通し」の場合には、人工的な道路整備の掘削が、さらに加わったかもしれない。

 

 しかし、江戸時代後半以後になると、路面は逆に高まってくる。峠道は十分になだらかになって掘削の必要が感じられなくなってくると、地震,豪雨などで両側の崖が崩れるたびに路面が埋まり、整地・拡幅工事も行なわれて路面は嵩 かさ 上げされていったのだ。

 

 「第1切通し」の崖面↓。岩盤を掘り割って造っている。

 

 

 

 

 

 

 つぎの「第2切通し」を抜けると、「まんだら堂」への登り路が岐れる。

 

 

 

 

 

 まんだら堂」という名前は仏教施設を想像させるが、この地名が残っていた近世には、ここはただの畑地で、背景の崖にたくさんの「やぐら」が掘られている点だけが特異だった。この平場に、往時にどんな施設(寺院?)があったのかは未解明だ。

 

 

 

 


 2つの平場があり〔高さが同じなので、公式には1つの「東平場」〕、それぞれの背の崖に「やぐら群」がある。便宜上、入口に近いほうを「南群」、奥を「北群」と呼ぼう。現場では往復しながら撮影したが、ここではまず「北群」を見る。

 

 

 


 左から右へ移動しながら撮している。

 

 

 

 

 


 いちばん右の「やぐら」は、トンネルのように向う側へ抜けている。抜けてはいるが、ずん胴のトンネルではなくて、中は広くなっている。石室ではあるのだ:

 

 

 

 

 

 全体的な印象として、「北群」の「やぐら」は、整った方形をしていない。開口部が丸いもの、不整形なものも多い。

 

 

 

 

 いちばん左には、五輪塔を収めたものもあるが、全体に「北群」は納入品が少ない。残っていないと言うべきか。

 

 

 

 

 「南群」に移ろう。まず、全景を左から右へ。4段になっており、整った方形の開口部をもつ「やぐら」が多い:

 

 

 

 

 

 展望台から見下ろすと:

 



 

 

 展望台からの俯瞰。左から右へ。ほとんどすべての「やぐら」に「五輪塔」が入っている。多数入っている「やぐら」もある:

 

 

 

 

 

 

 平場に戻って「南群」の観察を続ける〔2枚目だけ、展望台からの写真〕。左から:

 

 

 


 上部の2段↓。最上段は土砂で埋まっている。2段目の「やぐら」はみな、「五輪塔」がぎっしり詰まっている。隔壁を介して隣り合っており、この点は「朱垂木やぐら群」の中段に似ている。ただし、隔壁の奥で両室がつながった “円柱” 状のものはない。 

 

 

 


 下部の3段↓、左から右へ。3・4段目にも、「五輪塔」のある「やぐら」が見られる。写真では “円柱” のように見える隔壁も、奥まで達しており、両室は分離している。

 

 

 

 

 

 少し右に移る。この辺からは、3・4段目のみになる。複数の「五輪塔」を収めた「やぐら」が多い。隔壁での隣り合わせも見られる。

 

 

 

 

 さらに右へ移っていく。「やぐら」の前にも「五輪塔」が置かれている。やはり、開口部はみな方形。ただし、羨道〔ソデが出っぱって・すぼまった開口部〕のないものが多い。これが「南群」の特徴のようだ。

 

 

 

 

 

 

 以下、特徴のある「やぐら」を大写しに。“円柱” に見える「やぐら」群↓、左から右へ。ただし、隔壁はみな奥まで達している。そして、どの石室にも「五輪塔」がぎっしり。

 

 

 

 

 

 

 

 「やぐら」の中に、入れ子のように、小さな「やぐら」がある。「ひさし」のような天井も、風化ではなく最初から「ひさし」として造られたように見える:

 

 

 

 

 その上の段。磨滅しているが、これも元は「ひさし」だったかもしれない:

 

 

 

 

 以上、ざっと見てきた。初見としては、こんなところだろう。今年の公開期間にも、ぜひまた行きたい。何度も見るうちに、新しい発見がいろいろあって、さまざまな想定をしてみることができるだろう。専門家だけでなく、さまざまな人の異なる見方を総合してこそ、遺構の本来の形態や機能は明らかになるものだ。

 

 「やぐら」群は、学術研究の貴重な資料であるだけではない。人為と自然の働きが織りなして造形された芸術作品と言ってよいのではないか。「まんだら堂やぐら群」は、そんな感懐を胸に生じさせた。

 

 このような遺跡の保存に尽力しておられる逗子市には、心から敬意を表したい。また、鎌倉市にある多数の「やぐら群」のなかにも、注意深く調査・整備すればこの「まんだら堂」に匹敵するものが少なくない。それらが、ただ風化に委ねられている現状は、あまりにも残念なことだ。

 

 鎌倉市域には、著しく多数・多岐にわたる文化遺産があって、「やぐら」まではとても手が回らないのが実情かもしれない。が、たとえば、ここのように公開期間を限定したうえ、鎌倉の多くの寺院のように観覧を有料にし、管理・調査費用の一部に充当することも検討してよいのではないだろうか?

 

 

 


 

 

 

タイムレコード 20251214 [無印は気圧高度]
 「亀ヶ岡団地北」バス停[58mGPS]1328 - 1332「名越切通し」入口[71mGPS]1540 - 1400「まんだら堂」入口※[58mGPS]  - 1419「まんだら堂」展望台[58mGPS]1430  - 1433「まんだら堂」入口※  - 1440衣張山方面分岐[58mGPS]  - 1452「名越切通し」鎌倉側入口[58mGPS] - 1500鎌倉市街地進入[58mGPS] - 1511「長勝寺」バス停[58mGPS]。

 

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