まえに予告したように、「鎌倉」をとり囲む丘陵地の東半分に多いという「やぐら」をたずねて、尾根すじを辿ってみたいと思っていた。とすると、「鎌倉」の外部から「切り通し」を抜けて入るスタートも悪くない。


 ちょうど、横浜市金沢区からの「朝比奈切り通し」は有名だが、まだ行ったことがない。ここを最初のスポットにしよう。

 

 

 

 

 シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。

 

 今回は、新調したトレッキング・シューズの履き馴らしを兼ねていた。慣れない靴だと格段にスピードが落ちるということがわかった。大きな成果だ。

 

 

 

 

 

 京浜急行「金沢八景」駅からバスで「朝比奈」停留所下車。交通量がものすごい。しかも歩道が途切れとぎれだ。大型トラックが、歩行者の肩すれすれに疾走していく。

 

 

 

 

 

 小学校で「朝比奈の切通し」と習った記憶があるが、いまは「朝夷奈」と言うらしい。歴史的表記が「朝夷奈」なのだろう。

 

 バス停から少し戻って、横道に入る。こちらに入って来る車はない。通りを一歩外れると、閑静な住宅街‥‥と言いたいが、「切通し」の手前にある板金工場の轟音が耳をつんざく。上は高速道路で、これまた地を揺るがす喧騒を落としてくる。しばらくはしょうがないと諦める。

 

 

 

 

 


 「朝夷奈切通し」は、「鎌倉七口 ななくち〔朝夷奈切通,名越切通,巨福呂坂,亀ヶ谷坂,化粧坂,大仏切通,極楽寺切通〕のなかで最も崖の比高が高く険阻な路なのだそうだ。それほどの高所を鎌倉幕府があえて切り拓いた意図は、東京湾岸の良港「六浦 むつうら〔京浜急行で「金沢八景」の次の駅〕との交通を結ぶためだった。鎌倉の海岸は遠浅で、材木座海岸は今でも、砂を少し掘ると古い港の石畳が出てくるほどだが、大きな船を着けることはできなかったのだ。

 

 

 

 

 「朝夷奈切通し」は、横浜市側の「小切通し」と鎌倉側の「大切通し」に分かれている。切通しの崖面には、多くの「やぐら」〔主に納骨墓地〕が掘削された。鎌倉の「鬼門」〔北東〕にあたると説明されている↑が、幕府の本拠地〔鎌倉市雪ノ下1,3丁目。小町2丁目〕から見て、ここは真東だろう。

 

 切り通しの入口に石仏が集められている。

 

 

 

 

 高速高架の下をくぐる。

 

 

 

 

 ここが「小切通し」だろう。両側が切り立った狭い路だが、足もとが平らなだけ、この先の「大切通し」ほどではない。

 

 

 

 


 さっそく「やぐら」が現れた。

 

 

 

 

 説明も無いから見落としていく人が多いようだが、このあとに行く「天園ハイキングコース」もふくめて、たしかにこの山稜は「やぐら」が多い。切通しは、なお続く。

 

 

 

 

 また、「やぐら」だ。

 

 

 

 

 

 分岐点。左の路は、さきほどの説明にあった「熊野神社」に達するようだ。ちょっと寄って行こう。

 

 

 

 

 

 

 この岐れ道から看板を出している。頼朝が「朝比奈切通し」〔うん、そうだ。昔は「朝比奈」だった〕を開いたというのは、国史跡の説明〔『吾妻鏡』による〕と違うが、ともかく鎌倉時代のうちには、この神社も設けられたのだろう。元禄年間に再建され、以後、修築を繰り返して現在に至っている。

 

 

 

 

 「熊野神社」へ向かう途中、杉の喬木が目立つ。樹齢の古い杉林を伐採した名残りだろうか。

 

 

 

 

 「熊野神社」↑。背の高い杉林の中にある。鄙 ひな びた小さな祠かと思ったら、意外に大きくて立派な神社だ。

 

 石段を昇ると↓拝殿がある。

 

 

 

 

 拝殿から、さらに昇って一段高いところに奥殿がある。

 

 

 

 

 

 拝殿を見下ろすと、石段は攀じ登るくらい急だ。回り道が造られていて、そっちから登った。

 

 先刻の分岐点に戻って、「切り通し」道を先へ進む。

 

 

 

 

 このへんから「大 おお 切通し」になる。

 

 

 


 

 天井が崩落した「やぐら」だろうか↑? それとも壁龕 へきがん? 明らかに人工で切り拓いたものだ。

 

 

 

 

 路は上り勾配が大きくなってきた。

 

 

 

 

 小さな「やぐら」の中に石碑がある。

 

 「道造供養塔

 

 

 

 

 おなじく。

 

 

 「安永九子天 峠坂道普請/南無阿弥陀佛/十二月吉日 世話人‥‥

 

 

 字が磨滅していないわりに古いものだ。安永9年は 1780年。安永は天明の一つ前の年号。天明の大飢饉:1782年~

 



 

 

 路面がずっと濡れている。ところどころ泥濘している。ゆうべ雨が降ったのかと思っていたが、どうやら山から地下水が滲み出ているようだ。小さな流れができている処もある。‥‥とすると、鎌倉時代にも、この切通しを越えて物資を運ぶのは難儀だっただろう。

 

 峠を越えたようだ。路が下りになってきた。このあとの3枚は、うしろをふりかえって撮している↓。

 


 

 

 


 倒木の上にキノコが生えている。

 

 

 

 

 勾配が緩やかになる。路面は岩から土に変わったが、水はじゅくじゅく湧いている。

 

 

 

 

 

 下りの鎌倉側は、横浜側以上に水が多い。崖面には、シダや地衣類がびっしりと生えている。

 

 

 

 

 イチョウの葉ににた形をしたシダ。

 

 


 

 湧き出た水が、浅い川になっている。

 

 

 

 

 

 鎌倉側の「切通し入口」に到着。ふりかえると、うっそうとしたジャングルから出てきたようだ。

 

 

 

 

 「朝夷奈切通」という昭和16年の石碑もある。なるほど、戦前までは「朝夷奈」と呼んでいたのだ。戦後に「朝比奈」に変わって、今はまた元に戻したわけだ。「朝夷奈」という地名は、「朝夷奈三郎義秀」という武士がこの峠道を一夜で切り開いたという伝説に由来する、とも言う。


 

 

 

タイムレコード 20251028 [無印は気圧高度]
 830「朝比奈」バス停[25mGPS] - 900「熊野神社」分岐※[92mGPS]903 - 911「熊野神社」鳥居★[107mGPS]  - 916奥殿[120mGPS] - 928鳥居★935 - 939分岐点※ - 1015「朝夷奈切通し」入口(鎌倉側)[43mGPS]1022 - (2)へつづく 。