青い線は 12月18日の ,
赤い線は 12月19日の軌跡。 .
「菅原遺跡」だった場所にある「疋田町4丁目公園」。説明板には、遺跡の内容が詳しく書かれている。遺跡は、奈良時代・8世紀の寺院跡で、行基の没後にその功績を讃え弔った円筒形(ないし伏椀形)の塔が中央にそびえる。底面が円形の建造物は日本では珍しいが、のちの「多宝塔」〔鎌倉時代に発生する日本特有の仏塔で、2層建ての上層部が伏椀形〕の前身に位置づけられるともいう。もし伏椀形ならば、インドの初期ストゥーパにそっくりだ。
行基とその信仰集団は、菩提僊那ら渡来インド僧との交流を通じてインド本来の仏教に関心を寄せていた、と推定する学説がある。円形供養塔の建造は、その現れだったのかもしれない。
遺跡保存運動の努力もむなしく、開発のために破壊されてしまったことはまことに残念だが、発掘記録と写真が残っただけでも、せめてもの後世への言い訳としなければなるまい。
「行基集団」の場合には、他の仏教宗派のような教団も存在せず、神道のような国家的護持も無いことが不利に働いたと言えるだろう。遺跡というものは、いちど破壊されてしまったら二度と復活することはない。このことを、もっと多くの人が理解してもらいたいのだ。
「菅原遺跡」の説明にもあった行基終生の地「喜光寺」へ向かう。路に沿って流れるこの水路は、西方・丘陵沿いの「蛙股池 かえるまたいけ」から流れてくる。
「蛙股池」↓は、飛鳥時代に築造された記録のある溜池の一つで、それらのなかでも巨きい部類に属する。貯水量でいえば最大かもしれない。『日本書紀』の 607年の条に記された「菅原池」が、この池を指すと推定されている(⇒:馬子と聖徳(18)【50】)。 「菅原池」の建造を担った土師 はじ 氏は、土器や埴輪の製造を担う職能集団だったが、主要な職能は古墳造営などの土木工事だった。彼らはすぐれた土木技術を持っていただけでなく、大規模な土木工事を組織できる労働力編成を持っていた。大和國・河内國の各地に「土師郷」という地名が残っており、それらは土木工事集団「土師」氏の拠点だったと推定されている。
和泉國にある行基の故郷も「土師郷」に隣接しており、橋梁・溜池の築造にめざましい功績を残した「行基集団」の技術と組織は、おもに「土師氏」に支えられていたと見られる。「蛙股池」「菅原郷」と「行基集団」のあいだには深いつながりがあるのだ。
「蛙股池」からは幾つもの水路が延びて、広い地域を潤している。この溜池は、中近世を通じて、特定の村や集団によって独占されることがなかった。私はそこに、行基信仰集団から菅原天神信仰に受け継がれた「互恵平等」の思想を見ることができると考えている。
以上3枚は、2022年5月撮影。 .
「喜光寺」は、『行基年譜』によると、721年に信者の寄進した平城京・右京3条3坊の土地に行基が創建した。聖武帝が参詣して、本尊から光が発しているのを見て喜び、「喜光寺」の号を献じたとの伝承もある。行基がここで没したことは、生駒・竹林寺の「行基墓」から出土した「舎利瓶記」に記されている。これらの資料は正史ではないけれども信ぴょう性が高いと言えるだろう。
裏の通用門から覗くと、ちょうど真新しい「行基堂」が見える。
正面に回ろう。「南大門」と本堂。
本堂は、戦国時代 1544年の再建。奈良時代の創建本堂の址に建てられていることが、発掘調査で確認された。
「喜光寺」は、撮影自由なのが有難い。本堂の中の仏像も、心ゆくまで撮せる。看守もいない。左から、勢至菩薩,阿弥陀如来,観自在菩薩の三尊。阿弥陀如来は平安後期、脇侍2像は南北朝時代の作。
とりわけ眼を惹くのは、阿弥陀如来の光背にぎっしりと象られた諸像だ。
阿弥陀仏の周りをめぐる曼荼羅のような諸仏。その外側には、飛天、緊那羅などが飛び交う。平安朝ならではの華やかな天上世界だ。
弁天池と「弁天堂」↓。ここの本尊は「宇賀神 うがじん 石像」で、厨子 ずし に収納されているが、御開帳の際に撮した写真があるので出しておこう。
2022年7月撮影。 .
「真言律宗」の叡尊,忍性、そして湘南の「江ノ島弁財天」が、行基ゆかりの喜光寺と結びついていることに、はかりしれない興味をかきたてられる。行基を祖とする信仰集団は、平安初めまでには歴史の舞台から姿を消しているが、ほそぼそとした伝統が中世の「アジール」に流れこんでいるのだろうか?「江ノ島弁財天」といえば、網野義彦氏が「無縁・公界 くがい」の証拠として最初に世に問うた史料の出どころにほかならない。
「行基堂」↓。この「行基坐像」は、唐招提寺所蔵の木像(鎌倉時代作)のレプリカ。
「喜光寺」は、入口のゲートで拝観料を取る強慾の諸寺とは異なって、拝観料を支払いたい者は、いちばん奥にある寺務所で払えと掲示している。払いたいのは山々なれど、寺務所まで行くのが面倒だし、パンフはもう何度ももらっているので、行基堂の賽銭箱に千円札を突っ込んで拝観料代わりとした。
境内には石仏も多い。
「菅原天満宮」は、すぐ近くにある。この周辺は「菅原氏」の本拠地なので、この社も、全国の天満宮のなかで中心的な意義をもつのではないかと思う。「菅原氏」は、もとは「土師氏」の一分枝で、782年に桓武天皇から「菅原」姓を賜ったと『続日本紀』には記されている。が、この土地が古くから「菅原」と呼ばれていたことからすると、賜姓以前から事実上「菅原」を名乗っていたと考えられよう。その公認後の「菅原氏」から出たのが菅原道真で、天満宮(天神)信仰の祖となった。
「天満宮」の前から東方へ歩いてゆくと、住宅地の間に「天神堀 てんじんぼり」というものがある↓。現地の石碑は磨滅して読めないが、ネットで説明を検索してみると、菅原氏の発祥の地、あるいは、道真の生誕の地との伝承のある場所とわかる。
しかし、私はむしろ、そのような、「菅原氏」にかかわりのある場所が、「蛙股池」から流出する水路の中にあるということに注目したい。巨大溜池の運営と、互恵互譲による分配利用、そこにこそ「菅原信仰」の社会的意味のエッセンスがあったと考えるからだ。
「天神堀」からの水路に沿って、さらに東へ向かう。
「菅原東遺跡」に到着↓。ここは、埴輪を焼いた窯 かま の跡が見どころだ。その担い手だったと考えられているのは無論、「土師氏」だ。
タイムレコード 20251115 [無印は気圧高度]
(11) から - 1141「疋田町4丁目街区公園」[100mGPS]1152 - 1205「デイリーヤマザキ」疋田町1丁目[82mGPS]1214 - 1224「喜光寺」[76mGPS]1258 - 1300「菅原天満宮」[75mGPS]1304 - 1315「菅原東遺跡」[74mGPS]1326 - (13) へ 。



































