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奈良県斑鳩町三井、「岡の原」古墳。手前は瓦塚池。

聖徳太子の子・山背大兄皇子の墓所と伝える。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。
  • 616年~641年 狭山池が築造される。
  • 622年2月 厩戸皇子、没。

 

 

 

狭山池」は、大阪狭山市の中央部を占める約40ヘクタールの巨池だ。

灌漑貯水のみならず、市民のいこいの場、ジョッギングのフィールド

として現役で活用され、堰堤の下には「大阪府立狭山池博物館」がある。

訪れれば、この池を誇りとする市民の熱い思いが伝わってくるだろう。

 

 

 

【49】《第Ⅱ・Ⅲ期》 溜池造成事業の概観

 

 

 これまでに見てきた推古朝築造の溜池をまとめてみると、↓つぎの表のようになるでしょう。池は、607年記事から 613年記事へ、『日本書紀』の記載順に並べてあります。最後の2つ――「狭山池」と「磐余(いわれ)」――は、『書紀』推古紀には記載がないのですが、この時期に築造されたものであることが、発掘調査により明らかにされています。

 

 

 

 

 まず建造記事を見ますと、「依網(よさみ)」と「(わに)珥池」は、推古期のほかに、もっと昔の崇神、仁徳の治世にもダブって建造記事があります。「狭山池」「磐余池」は、建造記事は崇神~履中なのに、考古学調査によって判明した創建時期は 6世紀後半~7世紀前半、つまり推古朝の前後です。

 

 たしかに、溜池は、一度造ったらそのままずっとある、というものではありません。不断に点検修理をしていなければ潰廃してしまいます。しかも、溜池の底の土地は泥が溜まって地味がいいですから、耕地にすれば美田になるので、あとさきを考えずに水を抜いて自分の田んぼにしてしまう不心得者がいないでもありません。地域の外から来た権勢家は、しばしばそれを狙います。

 

 歴史時代の日本で、そうした溜池破壊があまり見られないのは、農村の組織がしっかりしている――「田舎はがんじがらめで蜘蛛の巣のようだ」と言われるくらい――からだと思います。中国・朝鮮の歴史では、溜池破壊はまったく珍しくない現象なのです。

 

 ですから、推古朝以前の古墳時代、弥生時代に溜池が造られても、いつのまにか潰されていて、また造り直した、というのは、ありうることです。

 

 しかし私は、「狭山池」「磐余池」の例を見ていると、どうも溜池の築造は、推古朝前後の 6世紀後半~7世紀前半に集中したのではないか、という気がするのです。それ以前の記紀の溜池築造記事は、推古朝以後の事績を古いほうへ遡らせて崇め奉っているのではないか、と思いたくなります。

 

 学者の見解はどうかというと、現在のところ文献史学者も考古学者も地理学者も、記紀に書かれているような仁徳朝前後に、溜池築造のピークがあったと、多くの人が考えているようです。どちらかというと文献史学者は、記紀を信用しないので、「ホントは推古朝に造ったんだ」という人もいますが、歴史プロパーでない考古、地理、土木工学者のほうがかえって、記紀をそのまま信用して、仁徳朝‥、その実年代を修正して 4世紀だとか 5世紀だとか言っています。

 

 それは、疑り深い歴史学者と違って、穴掘り屋さん、土木屋さんは人がいいから‥‥というわけではなくて、根拠があります。4-5世紀といえば、「仁徳天皇陵」をはじめとする巨大古墳が造営された時代です。古墳を造る土木技術を応用すれば、溜池など造るのはかんたん――と彼らは考えるのです。

 

 しかし、この常識的な判断――“科学的” な議論の背景にあって疑われない常識――に、私は疑問を感じます。疑問点は2つ: ①「できる技術や社会組織がある」ということと、じっさいに行われることとは違う。②古墳を造る土木技術と、溜池を作る技術は、似ているけれども同じではない。

 

 ②については、のちほど「狭山池博物館」見学のところで説明します。かんたんに言うと、「敷葉工法」という新しい土工法が、この推古期から使われるようになったことです。

 

 ①については、たとえば、灌漑は、灌漑用水に対する需要がなければ行われないし、たとえ灌漑施設が造られても利用されずに放棄されてしまう、ということです。「水田稲作が行なわれているのに、水の需要がないなんてありえない!」と思うかもしれません。でもそれは、日本の近世以後の感覚です。たとえば、東南アジアの相当の部分を占める地方では、現在でも焼き畑方式の稲作が行われています。そこでは、人びとはあえて連作を行なおうとはしません。「進歩」は、良いことずくめではないからです。灌漑工事をして連作水田にすれば、たしかに収量は飛躍的に増大しますが、稲作にかかる手間と労力も飛躍的に増え、稲は病気にかかりやすくなり、それやこれやで、人びとが何千年にわたって営んできた伝統的な生活様式は崩壊してしまうでしょう。

 

 そういう意味で、人びとが古墳時代まで、(弥生文化流入以来)約千年にわたって営んできた生活様式や、自然・神に対する考え方がもはや維持できなくなり、そこに新しい大陸の技術と宗教・政治を導入してリードしていったのが “聖徳治世期” だったのではないかと、私は考えるのです。

 

 そういうわけで、私の結論を言えば、推古期以前の「崇神」「仁徳」などの記紀の溜池建造記事は、信用できないと思います。「推古期以前には、溜池は無かった」とまでは言いませんが、たとえ造られても、放棄されたり、手入れが足りずに潰滅したりして、推古期にはまた造り直したのだと思います。

 

 

高市池」跡を遠方から望む。橿原市木之本町。

木立に隠れた・2つの矢印の間が、「高市池」のあった窪地。

 

 

 

【50】《第Ⅱ・Ⅲ期》 溜池の面積からわかること

 

 

 ↑前節に挙げた表を、さらに見ていきましょう。まず、《第Ⅱ期》に築造を開始した「高市池」から「依網池」までの面積です。

 

 この時期に挙がっている溜池は、小規模なものが多いことがわかります。最小規模は 0.5ヘクタールから、3ヘクタール程度まで。「菅原池」の 8ヘクタール、「依網池」の 15ないし30ヘクタールは例外です。

 

 よく見ると、『日本書紀』の記載の順序は、そのまま、溜池建造事業の進展と、その間の技術進歩を示しているように思われます。

 

 最初に挙げられた「高市池」は、↑写真からも分かるように、せいぜい 1ha 以内の、ひじょうに狭い窪地を利用して水を溜めたものです。地形上、これ以上拡張してゆく余地もありません。しかも、ここは、↓のちほど取り上げる「磐余(いわれ)」の近くでして、20ヘクタールあまりの巨池が(香久山をへだてた向うに)、6世紀後半にはすでに存在していました。そこになぜ新たに小さな池を、国家的大事業と銘打って造ったのか? 

 

 私は、「高市池」は、新たな技術と組織による溜池築造事業の “試行モデル” として、まず造られたのではないかと思うのです。

 

 そして、そのあとに置かれた「藤原池」以下の諸池は、さまざまな技術的進展を示しています。まず、「藤原池」「肩岡池」「戸苅池」では、勾配のある谷地の斜面を堰堤で “段々” に区切って、広い面積に貯水するという工夫が行われました。

 

 「菅原池(蛙股池)」は約 8ヘクタールで、これら3池よりもかなり大きいのですが、“段々” になってはいません。その結果として貯水量はたいへん大きくなります。広くかつ水深もある一体の池の貯水量を支えるために、堰堤は、より堅固に造られたはずです。

 

 「菅原池」の建造を担った「土師(はじ)」氏は、土器や埴輪の製造を担当する職能集団だった、ということを前回に紹介しましたが、「土師」氏の職能は焼き物だけではありません。むしろ主要な職能は古墳造営などの土木工事だったのです。彼らはすぐれた土木技術を持っていただけでなく、大規模な土木工事を組織統率できるだけの労働力編成を持していました。このヤマト北部だけでなく、ヤマトから河内にかけての各地に「土師郷」という地名が残っており、それらは土木工事集団「土師」氏の拠点だったと推定されています。

 

 「高市池」築造で、試行的に開始された推古朝の溜池造成事業は、「菅原池」の建造を機に「土師」氏集団を実施主体として巻き込み、新たな段階に達したと言えます。

 

 その技術組織力をもって遂行したのが、30ヘクタール近い巨大な「依網池」の築造だったと考えられます。「依網池」については、記紀には推古朝以前の記事が多く見られますが(表には建造記事のみ挙げた)、ここは洪水のたびに水が滞留する低湿地で、もともとは灌漑よりも、洪水時の「遊水池」として、誘導水路の開鑿や堤防の築造が行われたと推測されています。「仁徳朝」などの「依網池」の記事は、河川の堤防治水工事とともに記されているからです。

 

 このような土地条件を利用して、「依網池」は、同時期には他に例を見ない巨大な面積の池として築造されたのです。

 

 『日本書紀』は、たしかに既存の歴史を文筆によって修正し書き換えてしまう意図のもとに書かれています。太安万侶(おお・の・やすまろ)らは、歴史修正主義に凝り固まった「扶桑社」のような集団だったかもしれない。その意味で、「記紀の記述は信用できない」という近代日本の史学者の考え方は正しいのです。しかし、その反面で、『書紀』の記述はたいへん含蓄に富んでもいるし、紙背に徹して読めば、奥行きの深い史実が浮かび上がってきます。

 

 

「黒須池」。羽曳野市蔵之内。「戸苅池」の谷奥にある。

現在では、谷地の大部分は蘆の湿原になっており、水面はごく一部。

 

 

 ↑上記の表で、《第Ⅲ期》に眼を移すと、挙げられている3つの池は、いずれも中規模以上のものです。「掖上池」も、盆地底部の「池之内」付近にあったとすれば、かなり大きな規模の池です。「畝傍池」は、近世に記録された面積から考えれば、古代には、現在よりも広い 7ヘクタール以上の池であったと思われます。「和珥池」は、「広大寺池」「粟ヶ池」のいずれであったとしても、10ヘクタール近い面積をもっていたでしょう。

 

 

現在の「狭山池」。北堤の上から南を望む。右は取水塔。

 

 

 

【51】《第Ⅲ期》 「狭山池」―― 博物館の展示から

 

 

 「狭山池」の創建は、記紀によれば崇神・垂仁ということで、これは年代の誇張を修正しても 4-5世紀ということになります。しかし、堰堤(北側)の基礎まで発掘調査した結果により、7世紀前半にはじめて建造されたことが明らかになりました。

 

 堤体の最下部に埋設されていた「東樋」に使用された木材の年輪年代測定〔その年の気候によって樹木の生長が異なる毎年の年輪間隔を、多数資料から調べたデータと照合して年代を決める方法によって、西暦616年に伐採されたという結果が出ました。しかしその後、別の木材で測定したところ、より新しい年代が出ています。他方、池に接して建造前と建造後に営まれた複数の窯跡の出土土器の型式から、池の建造は、飛鳥寺建築開始(588年)以後で、山田寺建築開始(641年)以前と推定されます。これらによって、「狭山池」の堤体建造は、616年と 641年のあいだ‥‥つまり、7世紀前半とすれば、まずまちがえないことになります。

 

 池底の堆積物に含まれたプラント・オパール〔イネなどの単子葉植物が含む珪素粒子。変性しにくく、植物種・品種ごとに形が異なるので、古環境の推定に有効の分析から、池築造以前には「水田を伴なわない自然栽培的な稲作」が行われていた可能性が指摘されています。「狭山池」が造られる 7世紀まで、この地域では灌漑はおろか、水田さえ存在しない粗放な直播き稲作が行われていたのかもしれません。

 

 

創設時の「狭山池」(「大阪府立狭山池博物館」。以下同じ)

堤(現在の北堤)の右寄りに「東樋」が通っている。

 

狭山池」「東樋」。堤体の下から、創設時(7世紀前半)の取水樋が出てきた。

取水部以外は、のちの奈良時代の改修で、管を取り換えている。

 

 

 その後「狭山池」は、奈良時代に3回、鎌倉時代に1回、江戸時代はじめに1回の改修が行われ、池面積は当初の約26ha から、35ha(762年)、51ha(1608年)へと拡張されました。しかし、近世を通じて大きな改修工事はなかったようで、明治時代までに、池面積はかなり縮小しています。『大日本地名辞書 第1巻』(1900年)には「南北八町、東西四町」と記され、概算すると 4.76~9.52ha になります。大正・昭和初期には何度か改修が行われ、1931年大改修後の湛水面積は 39.3ヘクタール、副池を併せて 44ha で、近代では最大となりましたが、江戸時代初めの広さは回復できませんでした。

 

狭山池」。発掘調査された堤体の断面(写真と模式図)。

 

狭山池」。発掘された堤体の断面(展示された実物)。

 

 

 さて、7世紀以来使われてきた北堤の堤体は、断面を切り取って調査したところ、歴代の改修工事により、7回以上にわたって積み増しされてきたことが分かりました。「博物館」には、切り取られた断面に保存処置をほどこした巨大な切片が展示されています↑。

 

 8世紀の堤体の高さは約10メートル、1931年大改修後の最大堤高は 15.2メートルでした。

 

 堤体断面を切り取って調査した結果、「敷葉工法」と「土嚢(どのう)積み工法」を用いていることが分かりました。

 

 「土嚢積み」は、土を、荒い布の袋に入れて積み重ねるやり方で、現在も道路の応急修理や登山道の補強で、よく用いられています。「敷葉工法」は、アラカシ、ウラジロガシの粗朶(そだ。葉のついたままの小枝)を敷いた上に、土を厚さ 10~20cm 積んで踏み固め、さらに粗朶を敷いて土を積む、ということを繰り返して、サンドイッチ式に積み重ねて土手を造ります。こうすると、たんに土を積んで踏み固めるよりも崩れにくくなります。

 

 土手の中に敷き込まれた葉枝は、池の水が浸透して還元状態となるために、腐敗することがありません。発掘時には、1400年以上経過しているにもかかわらず、緑色をしていたといいます。空気に触れた瞬間に炭化して黒変したそうです。

 

 

 

狭山池」の堤体の断面

 

↑上の断面の模式図

 

 

 「狭山池」の堰堤は、創設時の7世紀に造られた基礎部分と、行基改修の積み増し部分では、底に土のうを積み重ねた上は、全面的に「敷葉」で土手を造っています。が、ところどころに土のうの壁と “天井” を造っています。「敷葉」だけでは横すべりの応力に弱いのでしょうか? ともかく、よく考えられていると思います。

 

 また、館の説明では触れていませんでしたが、↑展示されている断面を見ると、粘土と砂土のような粒径の異なる土を交互に重ねて強度を高めているように見えます。

 

 「敷葉工法」は、中国・朝鮮では古くから例があり〔百済の碧骨堤など、渡来人によって伝えられてきたものと思われます。壱岐島では早い実施例が検出されているそうですが、九州では「大宰府水城(みずき)〔664年が最初と思われます。本州・近畿でも、本格的な使用は 6-7世紀ころからではないでしょうか。つまり、7世紀初めに溜池造成が盛行した背景には、「敷葉」などの新しい土工技術の導入があったのではないかと思います。

 

 古墳の築造技術と、溜池堤防の築造技術は異なります。溜池の場合は、水を溜めておくので、重い水圧に耐えなければなりませんし、水が浸透して堤体が崩れてゆく現象に対しても、対策がなくてはなりません。


『敷葉は盛土の補強・圧密促進とともに,土の堤に浸透した水分を抜き去るドレン(導管)と考えられている。現在も,土盛りに布などを挟みこんでドレンや地滑りを防止する技法として継承されている。』

「狭山池の改修とその技術の変遷」(PDF) ,p.56.    

 

 このように、「敷葉」は、たんに充填剤として堤体を補強するだけでなく、堤体に浸透した池水を堤外に排出する機能をもっているのです。

 

 

狭山池

 

 

 

【52】《第Ⅱ期》 「磐余池」――現地の説明板から

 


 天の香具山の東麓に「池尻」「池之内」という集落があり、現在は橿原市と桜井市に分かれていますが、古くはともに、「磐余(いわれ)」と呼ばれる地域に属していました。この2つの村の境界には、高さ 2メートルほどで幅のある土手状の高まりが、水田地帯に張り出したようになっている場所があり、その上に立って見ると、2つの広々とした平坦な谷地が合流した谷口であることがわかります。現状の張り出しを、もう少し延長して谷口を塞げば、ふたまたの形をした巨大な人工池が現出すると思われます。

 

 

橿原市東池尻町と桜井市池之内の境界付近。

手前が、「磐余池」の堰堤だったと思われる「土手状の高まり」。

 

 

 このような地形から、ここは『日本書紀』や『万葉集』に何度か現れ、『枕草子』でもふれられている「磐余の池」の跡ではないかと言われてきました。最近、土手周辺の発掘調査が行われ、大型建物の柱穴や、堰堤を横断する大溝(余水吐か)が検出されたので、「磐余池」説ががぜん有力になってきました。

 

 

 

 

『遺構が見つかったのは天香久山の北東1.1キロ。小丘陵を発掘したところ、粘土などを積み重ねて堤を造成した跡を長さ80メートルにわたって見つけた。

 
〔…〕谷を塞いで川の水をせき止め、南北600メートル、東西700メートルに及ぶ広大な池を造ったとみられる。

 堤の上では大型建物跡(東西約4メートル、南北17メートル以上)や、朝鮮半島から伝わった技法を用いた建物跡などを発見。柱穴から6世紀の土器が出土しており、堤はそのころに造られたとみられる。

 市教委は「池には鑑賞や遊宴、灌漑(かんがい)などの役割があった」と推察。造成には渡来系氏族が関わった可能性がある、としている。

 大型建物跡については聖徳太子の父・用明天皇(6世紀)が池のほとりに建てた「池辺双槻宮」との関連を指摘する見方も出ている。』

日本経済新聞 2011年12月15日  

 

 ただ、堰堤の上の建物の跡が用明の王宮「池辺双槻宮」だというのは、私は違うと思います。『日本書紀』の原文を見ると、

 

『九月甲寅朔戊午、天皇、即天皇位す。磐余に宮つくる。名(なづ)けて池辺双槻宮と曰ふ。』

家永三郎・他校注『日本書紀(四)』,p.52,用明即位前紀.  

 

 となっていて、宮を「磐余池」の「池辺」に造ったとは書いてありません。「池辺双槻宮」という名前から、「磐余」地域のどこかの池の辺にあったと推測できるだけです。そして、推古紀で厩戸皇子について、

 

『父の天皇、愛(めぐ)みたまひて、宮の南の上殿(かみつみや)に居らしめたまふ。』

家永三郎・他校注『日本書紀(四)』,p.84,推古天皇元年4月.  

 

 と書いていますから、用明の「池辺双槻宮」は、厩戸が少年時代に居住した「上宮(かみつみや)」の北方で、すぐ近くであったことになります。そうすると、「池辺双槻宮」の所在地に関する諸説のなかでは、桜井市の桜井公園下にある「菰池(こもいけ)」畔の「石寸山口神社」とする説(『大和志』等)があてはまります。(⇒:【蘇我馬子と聖徳太子】(7) 最下の写真)

 

 脱線しましたが、「磐余池」跡の話に戻りましょう。

 

 

古代における「磐余池」の想定図。地図は、上が南で、下が北。

 

 

 堤の跡――「土手状の高まり」――から、左(東)の谷奥を望みます↓。

 

 

 

  ↓数歩踏み出して、土手の突端から

 

 

 

 ↓こんどは、右(西)の谷奥を望む。谷が広くて1枚の写真には収まらないので、こうして二度に分けて撮りました

 

 

 

 

『百伝(ももづた)ふ  磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ』

 

 政争による冤罪で処刑された大津皇子が、刑死の前日に詠んだという・この歌〔『万葉集』三,416〕も、眼の前に広がる池のスケールを考えると、鑑賞がちがってくるのではないでしょうか?

 

 「鳴く鴨」とは、1ぴきや2ひきではなく、広大な池を雲のようにおおう数えきれぬほどの水鳥の群れ。その鳴き声と、飛び立つ羽音は、天にとどろくようです。

 

 そのように受けとめてはじめて、この歌は、姉・大来(おおく)皇女が皇子を二上山に移葬したときに詠んだ↓つぎの歌〔『万葉集』二,165〕と、対等の振幅で響き合うのではないでしょうか?

 

『うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む

 

 なお、「高市池」→「磐余池」踏査記録⇒:YAMAP

 

 

二上山」。左:雄岳。右:雌岳。

 

 

 さて、たいへん長々しいシリーズになってしまいましたが、【蘇我馬子と聖徳太子】は、ここで結末といたします。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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