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法隆寺「夢殿」。発掘の結果、この地下に、

「斑鳩宮」と推定される建物の遺構が確認された。

 


 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 603-611

  • 603年7月 新羅遠征を中止、派遣軍を北九州から引き揚げる。10月、王宮を「豊浦宮」から「小墾田(おはりた)」に移す。12月、「官位十二階」を制定。
  • 604年 「朝礼」を改定。1月、諸臣に官位を与える(官位十二階の実施)。4月、「十七条憲法」を制定。
  • 605年10月 斑鳩(いかるが)が竣工し、厩戸皇子、移り住む。
  • 606年5月 鞍作止利(くらつくり・の・とり)に命じて「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)を造らす。7月、厩戸皇子、橘寺?で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講義。斑鳩・岡本宮(現・法起寺)?で「法華経」を講義。
  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 607年7月 小野妹子らを遣隋使として派遣し、煬帝に国書を呈す。
  • 608年8月 の答礼使裴世清を迎えて歓待する。9月、高向玄理らを遣隋使として派遣。多数の留学生・留学僧をに送る。
  • 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
  • 610年3月 高句麗僧・曇徴(絵具・紙・墨・碾磑の製法を伝える)を迎える。610年頃、法隆寺(斑鳩寺)の建設が完了。
  • 611年 新羅、「任那の使い」とともに倭国に朝貢。『勝鬘経義疏』を完成。

 

 

 

【15】《第Ⅱ期》 603-611 独自政策の展開――遷都と道路建設

 

 

 蘇我馬子に指導された旧態依然たる政治を刷新しようと志した厩戸皇子、――その最初の独自政策は、王宮の移転でした。推古はそれまで、「飛鳥」谷の入り口に位置する「豊浦宮」にいましたが、「小墾田宮」を造営してそちらに移ります。この “遷都” が厩戸の主導によるものだったと思うのは、それが政治の刷新に深いかかわりをもっていたからです。「小墾田」の新しい王宮は、「冠位十二階」「十七条憲法」といった国家機構の新しい “なかみ” にふさわしい “公共空間” として設計されたのです。「小墾田宮」の平面プランを見ると、それがよくわかります。

 

 「小墾田宮」の遺構はまだ発掘されていませんが(その理由は、梅原猛氏によれば、考古学者が本居宣長の説に従って、まちがった場所を発掘しているからです)、『日本書紀』のさまざまな記事から建物配置が推定されています。それによると(↓下図参照)、中央に「朝庭」、つまり諸臣が居並ぶ広場があって、ここでさまざまな儀礼が行われます。その左右に「庁」ないし「朝堂」が建ち、天皇の隣席のもとに大臣以下が審議、決定を行ないます。「朝庭」の正面には「大門」があり、その奥にある「大殿(おほとの)」で、天皇が報告を受けたり「詔(みことのり)」を告げたりします。この「大門」から奥は天皇の住まい――プライベート空間です。「大殿」は北の方角にあり、臣下は「南門」から入ります。「天子は南面して統治する」という中国の政治思想に従っているのです。

 

 

吉川真司『飛鳥の都』,p.23.

 

 

 「小墾田宮」への遷都は、それまでは単なる天皇の「すまい」であった「宮」から、公共の政治の場としての王宮への質的変化を意味しました。こうして整備された王宮の周囲に、さらに下級官吏が勤務するさまざまな政庁や、収税倉庫、人びとの集まる市場や官立寺院が建てられてゆくと、のちの「飛鳥京」「藤原京」「平城京」のような都邑が成立します。

 

 ところで、「小墾田宮」の場所については、推古の最初の王宮「豊浦宮」のすぐ近くだったという《豊浦説》《飛鳥説》と、桜井市大福にあったとする《大福説》が対立しています。↓地図では、《大福説》の位置に「小墾田宮」を示しました。私は、梅原猛氏にしたがって《大福説》を採ります。飛鳥谷の入口の狭い場所、しかも蘇我氏の本拠地飛鳥のしがらみを避けられない「豊浦」付近よりも、広々とした平原に出て、交通の便にも恵まれた「大福」のほうが、聖徳太子の刷新政治が展開される場としてふさわしいと思うからです。

 

 605年には「斑鳩宮」が完成し、厩戸皇子と一族が入居しています。前回も書きましたが、「斑鳩宮」と、天皇がいて群臣が集まる「小墾田宮」のあいだには、奈良盆地を横断するほどの距離があります。馬で行くにも直線の道など当時はなかった、と前回言いましたが、厩戸は、自分の通勤のために、直線の道を造ってしまったようなのです。それが「太子道」と言われるものです。

 

 桜井市大福が、王宮のあった「小墾田」だと考えれば、「太子道」は、ナナメの道「橘街道」の一部として、その跡が残っていると考えられます(↓下図参照)。梅原猛氏の見解であり、大福の地元の人たちに支持されています。

 

 これに対して、岩波新書『飛鳥の都』の吉川氏は、「小墾田宮」は、「豊浦宮」のすぐ近く――飛鳥の入口にあったと考えています。そのため、「太子道」も、南北のタテ線に近い角度になります。現在「筋違い道」と言われているものが「太子道」だった、ということになります。奈良県は、この説に従って「筋違い道」を「太子道」として観光開発しています。⇒:「奈良県のウォーキング・ポータルサイト」

 

 吉川氏のほうが学会の通説です。本居宣長が《大福説》を言下に否定したので、いまも大半の日本史学者は宣長が正しいと思っているのです。それに従って考古学者も、飛鳥の入口付近だけを何度も発掘して「小墾田宮」の痕跡を探しました。ところが、まったく何も出て来ないのです。だから、梅原氏は異端の《大福説》を採用しているし、私も梅原氏に賛成なのです。

 

 

7世紀初めの王宮と道路。梅原猛『聖徳太子 2』,pp.244-245,254-255; 

同『聖徳太子3』160,215,228; 吉川真司『飛鳥の都』,pp.xiii-xiv. 

および「奈良県のウォーキング・ポータルサイト」により作成。

 

 

斑鳩から竜田を越えて難波への道〔「竜田道」〕は、〔…〕大和と難波を結ぶ交通の要路の一つである。〔…〕難波に近く、海外文化の移入にも便利な地・斑鳩に太子は目をつけたのであろう。

 

 〔…〕太子の斑鳩宮の建造は、小墾田宮の建造と、まさに歩調を合わせている〔…〕私は小墾田宮建造も、斑鳩宮建造も、馬子の圧力から離れ、太子独自の政策を行なおうとする一連の太子の政治姿勢を示すものであると思う。〔…〕推古11年〔603年〕に小墾田遷都は行われた。そしてやや遅れて太子の斑鳩移住が行われた〔…〕


 大福の地から斑鳩までには、橘街道といって、一本の道がある。距離にして 14キロ、それほど遠くはない。〔…〕『聖徳太子伝暦』その他によれば、太子は馬に乗って斑鳩から都へ通ったと伝えられ、太子が馬に乗った姿は絵像などでよく見られる。〔…〕もし小墾田宮が飛鳥ではなく、大福であるとすれば、それは十分に通うことが可能だと思う。』

梅原猛『聖徳太子 3』, p.189-192.  


『聖徳太子の一族を「上宮王家」と呼ぶが、太子のキサキや子供たち、さらに王家に仕える氏族も居を構え、斑鳩は上宮王家の勢力拠点として発展していくことになった。斑鳩の地が選ばれた理由〔…〕大和川が奈良盆地の水を集めて河内に流れ出していく、その出口近くに斑鳩はある。飛鳥と難波を結ぶ川船はみな斑鳩を通らなければならず、政治的にも経済的にも重要な場所だったのである。

 

 王宮〔「小墾田の宮」〕から遠いことは問題であったが、小墾田斑鳩をまっすぐ結ぶ道路が敷かれ、馬なら1~2時間で到達できるようになった。〔前回に正確な計算を示したように、「1~2時間」は誤り。↓下の「富士山飛翔」の絵を見てほしいのですが、聖徳太子のような貴人の乗馬は、必ず徒歩の付き人がいますから、全速力で馬を駆ることはできません。「なみあし」で、片道最低3時間かかります。――ギトン註〕

 

 推古朝には奈良盆地に東西・南北方向の直線道路(横大路(よこおおじ)下ツ道(しもつみち))が建設されたと推定されている。それとは全く無関係の斜向道路が敷設されたところに、〔…〕聖徳太子の絶大な権力を読み取らねばならない。この道は「太子道(たいしみち)」と呼ばれ〔…〕ている』

吉川真司『飛鳥の都』, pp.31-32.  

 

 

 ところで、上の地図↑で、「斑鳩」から、大福の「小墾田宮」の方向に、定規で直線を引いてみると(オレンジの太線)、「筋違い道」と「橘街道」の各一部と、ちょうど重なることがわかります。《飛鳥説》の奈良県と、《大福説》の桜井市がケンカする必要はないのでして、《大福説》を採れば、どちらの道も正しく「太子道」の一部なのです。

 

 

桜井市大福・三十八柱神社にある

「小墾田宮伝承之地」碑。梅原猛氏・揮毫

 

 

 

【16】《第Ⅱ期》 603-611 独自政策の展開――内政

 

 

 こうして整備された王宮「小墾田宮」において、603年12月「冠位十二階」が制定・布告され、翌年元旦から実施されます。604年4月には「十七条憲法」も制定されています。

 

 「冠位十二階」は、「大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、……」という 12の位階を設け、それぞれの位を表す 12色の冠をかぶらせて支配層を序列づけるシステムです。儀礼の際には、この色別の冠を着けた群臣が「朝庭」に居並んで天皇に対面し、目に見える形で結束と服従を示したことでしょう。

 

 ただ、この序列システムは決して完全なものではなかったのです。まず、皇族は、この序列に属していませんでしたし、蘇我馬子も「冠位」の外(上?)にいました。馬子以外にも、「冠位」を受けない豪族が多くいました。地方豪族には「冠位」は与えられていません。「冠位」の名称には、のちの「正一位」「従二位」、あるいは「左大臣」「大納言」といった位階・職階のような具体性がありません。それでも、諸臣に初めて位階制を導入して、律令官僚制への「官僚化」の方向を示したという点で、画期的なものであったと言えます。

 

 「十七条憲法」は、のちの「律令」のような具体的な規定はなく、抽象的な「臣下・官僚の心得」のような訓令に終始しています。法律というよりは、教え、戒めと言った方がよい内容。いったいこんなことを「憲法」と銘打って制定する意味があったのか?‥とさえ思わせます。しかし、私たちがそう思うのは、すでに法律も規則も存在する世界から見ているからです。「倭国」にはそれまで、法律のようなものはまったく存在しなかったのです。何か問題が起きれば、そのたびに神様にお伺いを立てたり、延々と話し合ったり、偉い人がテキトーな感情で決めたりして解決していたのです。

 

 

『十七条憲法は抽象的な内容に終始しており、〔…〕多くの条文は儒教思想をベースとした訓戒であり、〈君-臣-民〉の秩序を重んじ、正しい政治を行うよう豪族たちに求めたものである。表現はきらびやかだが、内容は君主制・官僚制としては初歩的なこと、当たり前のことばかりである。〔…〕聖徳太子の政治理念を示した教令法とするのが伝統的理解である』

吉川真司『飛鳥の都』,pp.17-18.  

 

 

 「卑弥呼」のような神政的な神がかりの指導者への崇拝をきずなにして、豪族の連合体がどうにかまとまってきた・それまでの「倭国」の体制を、より合理的な中国式の専制政治の体制に転換させるのが、摂政太子の意図だったと考えてよいでしょう。たしかにそこには、儒教道徳を模範にしているような表現が多く見られますが、太子が抱いていた・より大きな意図をひとことで言えば、「法治主義」の導入だったと私は考えます。

 

 そこには、厩戸皇子の幼少時からの体験が、大きく作用していると思うのです。厩戸は、その出生からして、「堅塩媛(かしひめ)」系の用明天皇と、「小姉君(おあねぎみ)」系の間人(はしひと)皇后のあいだに生まれました。皇位をめぐって争い合う2大派閥のはざまで幼少期を過ごしたのです。どちらの系統の誰を採るかは、「堅塩媛」と「小姉君」の兄弟である蘇我馬子の意向に大きく左右されました。まもなく宗教戦争が開始され、その渦中で間人皇后(穴穂部皇女)の同母兄・穴穂部皇子が、「堅塩媛」系の推古馬子に殺害されます。つづく蘇我‐物部戦争では、厩戸も蘇我側で戦闘に参加しますが、ともに戦った叔父・初瀬部皇子(崇峻天皇)は、馬子に殺害され、こうして推古天皇と摂政厩戸が即位するのです。

 

 いったい何が正しいかの基準がなく、互いの欲望を唯一の基準にして人びとが争い合う世界‥‥そこから脱出したい願望が、厩戸をして、仏教と、中国王朝の法治体制、それを支える儒教道徳に向かわせたのだと思います。

 

 しかし、法治体制の導入のために厩戸が行なった政策は、法律(律令)を作って公布することではありませんでした。法律というものを知らない人たちに、いきなり法律を押し付けて守れと命じても、守られるとは限りません。たとえ守っているように見えてもそれは表面だけのことで、心から納得して従っているわけではないのです。法律というものは、人びとに「遵法意識」がなければ、まったく有効にはならない。厩戸には、このことがよく解っていたのだと思います。

 

 そこで、彼はまず、人びとに「法を守る意識」を植え付けるような抽象的な徳目を公布したのです。具体的な規則や条文のある法令を作るのは、そのあとのことです。

 

 厩戸のこのような政策が、現実的に有効なものだったかどうかはわかりません。はじめに「遵法意識」があって、しかるのちはじめて、有効な法律が存在しうる――という理屈はまったくそのとおりですが、法律を知らない人が、「法律を守る」徳目を理解できるかどうか。むしろ、いきなり法律を布告して強制したほうが、うまくいくかもしれない。はじめは言われたとおりに盲目的に従っているだけだとしても、守っているうちに法律の意味を理解して「遵法意識」が湧いてくるのかもしれません。ともかく、聖徳太子は、理論通りの “哲人政治” を行なおうとしたのです。

 

 

「甲斐の黒駒」に乗って富士山に飛翔する聖徳太子。

紺紙金字一字宝塔法華経断簡・太秦切(平安時代・12世紀)

の見返し(後補)。東京国立博物館蔵

 

 

 

 しかし、太子の「十七条憲法」は、中国の法治主義や儒教道徳を、そのまま持ってきて押し付けたわけではありませんでした。儒教のように見えながら、徳目の内実は換骨奪胎されています。「倭国」で従来から人々が信じている “常識” に入れ替えてしまっているのです。儒教や仏教になじみのない人々にも分かるように、色を付けていると言ってもよい。ここでは、2点だけ例を挙げましょう。

 

 まず、第1条:

 

『一に曰く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違(たが)う。しかれども、上和ぎ、下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん。』

梅原猛『聖徳太子 2』,p.387.  

 

 梅原猛氏によれば、「十七条憲法」は、第1条から第17条まで、各3条ずつ順に、「仁」「礼」「信」「義」「智」を述べています。儒教の徳目「仁義礼智信」の通常の順序と違いますが、「冠位十二階」と同じ順序です。そこで、第1条の「和」とは、儒教でいう「仁」のことだ、ということになる。

 

 しかし、儒教の「仁」は、「和」と同じでしょうか? ただたんにケンカをしないようにすることが「仁」なのでしょうか? ‥‥太子はここで、「さからわないことをムネとせよ」と言い、「主君に従え」「父に従え」「隣家や里の人びとに順え」と命じ、逆らわないようにして話し合えば、おのずから議論はまとまる、と言うのです。みんなが自分の意見を言わないようにして、「隣里」の大勢に従い、「君父」に服従すれば、まとまるのは当たり前です。しかし、それは果たして「仁」でしょうか?

 

 『論語』では、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(立派な人物は、他人と仲よく付き合うが、安易に同調はしない。つまらない人物は、他人に安易に同調するが、けっして仲よくは付き合わない)」と言います。また「巧言令色鮮(すく)なし仁(口先がうまく、もの柔らかい顔つきの人には、仁[まごころ]が少ない)」とも言います。「仁」とは、なによりも自分の考えと主張を持つことであり、他人に対して自分の主張を隠したり偽ったりせず、かつ意見の違う他人を尊重することだと思います。「仁」と「和」は、本来的に違うものなのです。

 

 しかし、太子は、「仁」を「和」に言い換えてしまいます。こうして儒教を換骨奪胎します。太子は、意見の違う人々がみな自分の主張を暴力で押し通そうとして殺し合った時代を、決して繰り返してはならないという思いが強いので、とにかく争うな、逆らわないで、目上や周りの人に同調せよ、と言うのです。

 

 第2条は、「篤く三宝を敬え」――仏教を崇敬せよということで、これはとくに問題ありません。第3条を取り上げましょう:

 

『三に曰く、詔(みことのり)を承りてはかならず謹(つつし)め。君をば天とす。臣をば地とす。〔…〕地、天を覆(おお)わんとするときは、壊(やぶ)るることを致さん。ここをもって、君言(のたま)うときは臣承る。上行なうときは下靡(なび)く。ゆえに詔(みことのり)を承りてはかならず慎(つつし)め。謹(つつし)まずば、おのずから敗れん。』

梅原猛『聖徳太子 2』,p.388.  

 

『和の世界は、〔…〕詔を承りて、天皇の命を受けては必ずつつしんで従うことによって実現できるというのである。〔…〕ここで聖徳太子は、君主の権威の絶対性を天にたとえて主張する。天と地があるように、君と臣があり、上と下があり、それゆえ地すなわち臣、すなわち下は、天すなわち君、すなわち上のいうことに従うべきである。詔を承れば、必ず謹(つつし)まねばならぬ。

 

 ここでわれわれは、天皇絶対主義の思想にぶつかる。』

梅原猛『聖徳太子 2』,pp.410-411.  

 

 中国では、皇帝を「天子」と言いますが、あくまで「天の子」であって、絶対的な「天」そのものではありません。もし「天子」が不徳であったならば、「天」はその「天子」を罷免し、別の人に命(めい)を与えて「天子」とするのです。これが「易姓革命」の思想であり、儒教の根本的政治思想です。「天子」とは、あくまでも「天」の命によってこの国の支配権を任されている人間にすぎない。ところが、聖徳太子の‥‥

 

『この第3条の思想は、こういう関係を無視して、君主をそのまま天にたとえて、君主の命令を天の命令として、絶対化しようとするものである。これはけっして儒教あるいは法家の考え方ではないと思われる。』

梅原猛『聖徳太子 2』,p.412.  

 

 聖徳太子の思想と政策が、良い意味でも悪い意味でも、いかにその後の・この国の政治と文化の方向を定めてしまったか――ということを、思わないではいられません。このように天皇を絶対的存在とする考え方は、おそらく世界でもこの国にだけ成立した思想で、けっして、専制独裁国家ならどこにでもあるような考え方ではないのです。「万世一系」ということが、何か価値あることのように思われてしまうのは、このような特殊な思想土壌における異常現象だということに、私たちは気づかなければなりません。

 

 「冠位十二階」「十七条憲法」と同じ年に、「朝礼」の改定を行なっています。「朝礼」は、王宮(朝庭)に出入りするさいの礼法のことですが、宮門(南門)をくぐる時は跪(ひざまず)いて地面に両手をつき、敷居を越えてから立って歩くように改訂したというのです。それまでの「倭国」の作法が、全面的に四つん這いの匍匐前進だったのと比べ、中国式に立って歩くように変えた点に進歩が見られると、解されています。しかしそれでも、完全に直立歩行に改めたのではなく、門をくぐる際に四つん這いを残したのです。ここにも、太子の先進文明受容の不徹底さが見えると思います。

 

 次回は、聖徳太子独自の外交政策について見ていきます。


 

桜井市・谷 「こも池」

用明天皇の「磐余池辺双槻宮」は、

この池のほとりにあったと言われる。

 

 


 

 

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