【前回】⇒ やぐら探索(3)

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紫の線は 11月7日の,青い線は 11月8日の軌跡。 .

 

 

 伝統的な木造建築で、屋根の傾斜に直交する水平方向の骨材を「母屋 もや」と言い、傾斜方向の骨材を「垂木 たるき」と言う。とくに「和様」建築は、天井を張らない「化粧屋根裏」が多く、内部から屋根の垂木が見える。天井を張る「唐様 からよう」でも、軒先は「垂木」を見せる

 

 

 

 

 「朱垂木 しゅだるき やぐら群」は、上段にある「朱垂木やぐら」から名づけられている。「朱垂木やぐら」は、文字どおり、天井の石面に「朱」〔ベンガラ。F2O3〕で「垂木」を描いて木造建築の軒先を模した「やぐら」である。

 

 しかも、この「やぐら群」は、上段に「朱垂木」を模した「やぐら」があり、中段・下段の「やぐら」には、寺院の円柱を模したような隔壁があって、全体として巨大な神殿を形づくっているようにも見える。さらに、比較研究と復元想定が進めば、鎌倉の「やぐら」群の本来の壮麗な姿が浮かび上がってくるにちがいない。

 

 「朱垂木やぐら群」上段↓。

 

 

 

 

 「上段」は、天井の低い平べったい「やぐら」。2つの「へや」が隣接しているが、奥がつながっており、1つの「へや」になっている。隔壁の「そで」部分は、磨滅しているが元は「中段」のような “円柱” だったかもしれない。

 

 右の「へや」を左から見る。最右の「そで」が、しっかりとある。鎌倉期の「やぐら」の特徴だ。

 

 

 

 


 左の「へや」の側面には、くぼみがあって、2基の塔婆が浮き彫りされている。

 

 

 

 

 天井の「朱垂木」は、左の「へや」のほうが、よりハッキリと残っている。

 

 

 

 

 

 比較のために、寺院建築の「朱垂木」の例を出しておこう。奈良の喜光寺・行基堂。最近建てられたもので、真新しい状態。

 

 

 

 

 奈良の般若寺・鐘楼。

 

 


 

 

 「朱垂木やぐら群」を離れて稜線に出る。いつもの古い道標↓。

 

 

 


 覚園寺」への路が岐れる分岐点に向かう。分岐点の近く、「鷲峰山」の斜面に「百八やぐら群」がある。

 

 

 

 

 

 「百八やぐら群」は、ひじょうに広い範囲に多数の「やぐら」が見られ、その数は 108 どころか 200 近いのではないかと思われる。私はまだ全貌を目にしてはいない。

 

 やぐら群は、覚園寺への下り路の左右に展開している。路の東側は、アクセスの踏み跡もしっかりしていて見学者も多いようだ。西側は深いヤブにおおわれていて未知数だ。私もまだざっとしか見ていない。まず、東群から紹介しよう。

 

 東群は、上下2段に分かれる。上段から見ていく。

 

 

 

 

 ほかの「やぐら」群と比べて磨滅が大きいように見える。古くから参詣者が訪れてきたためかもしれない。

 



 

 


 仏像などを置いていたものか、手前に石の台がある↑。奥の台に置かれた石仏は首がない。壁にも、浮彫で仏像が描かれている。

 

 

 

 

 

 “円柱” のように見えるが、「朱垂木やぐら群」のものよりも磨滅が大きいようだ。“円柱” の奥には隔壁がなく、両方の「へや」は通じている。

 

 「首無し」の石仏が多いのも、この「やぐら群」の特質だろう。「首無し地蔵」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 「首無し」も含めて、石仏は、床面の浮彫ではなく、外から持ち込んだもののようだ。材質は、洞穴と同じ岩石に見える。見たところ、洞穴面と比べて磨滅が少なく、比較的新しいようだ。鎌倉~室町時代に築かれた「やぐら」の廃墟に、後世の人びとが持ちこんだのかもしれない。もともと首が無いのではなく、安置した後で、何者かによって破壊されたようだ。

 

 明治時代の「廃仏毀釈」で、路傍の石仏をことごとく谷に突き落としたり、粉々に破壊したり、といった行為は各地で行なわれているが、首だけ落として胴体を晒し物にするというのは、聞いたことがない。まるでイスラム教の偶像破壊だ。いったいいつの時代のどんなふるまいなのか、私にはまったく判らない。

 

 

 

 

 


 上段の「やぐら」群はまだまだ続いているが、きりがないので、このへんで下段に移る。

 

 

 

 

 

 

 やはり「首無し」が多い。

 

 


 

 

 

 

 

 

 「首無し」が多いが、ともかく石仏を安置した「やぐら」の多さが「百八やぐら群」の特徴と言えるだろう。その大部分は、岩盤の浮彫ではなく、外から持ちこんだものだ。

 

 

 

 

 穴の外にも、五輪塔などが置かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 このように↑、奥に入れ子式に小さい石室があるものも多い。奥の石室が大きいと、手前の空間は羨道のようになる。羨道の「そで」が出っ張っているのではなく逆に引っ込んでいる形だ。こういうのも鎌倉時代様式なのだろうか。

 

 こちら↓の「やぐら」は、奥の壁に五輪塔が浮彫されている。

 

 

 

 

 

 

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 踏査記録⇒:YAMAP

 

 

 

 

 ここで、11月4日の記録に移る。

 

 

11月4日の軌跡。 .

 

 

 「百八やぐら群」東群を、下方の「覚園寺」降り路から仰望する。下からでは、全体はとても見えない。下段の一部がようやく見える程度だ。

 

 

 

 

 

 西群も、「やぐら」の数は東群に匹敵するほどだったが、崖の中途にあって近づける踏み跡がないので、遠望するにとどまった。