ミハイル・ズヴャーギン『屍肉を食らう大がらす Ⅹ 没落した組織』(1986年)。
Mikhail Zviagin; Михаил Звягин. Вороньё х б ткань, 1986. ©Wikimedia.
【81】 ‥‥そして、東欧はどうなったのか?
1989年の「東欧革命」によって、ソ連はじめ東欧各国の共産主義政権が倒れ、各国民は権利・自由を取り戻したかに見えました。が、その結果として、どんな新しい体制が構築されたのか? この疑問は、現在も十分には答えられていません。現に、大部分がその後EUに統合された東欧諸国の混迷した現状が、事実を把握することの難しさを語っています。著者ミュラーの見解も十分なものではなく、明確でもない、と私には思えます。しかし、まずは著者の見解を注意深く追ってみましょう。
『人民 ザ・ピープル ――いやむしろ人びと ピープル ――は、自らの手中に戻ってきた権力を使って、何をしようとしたのだろうか。大まかに言えば、彼らは自由民主主義の体制を創ろうとした。〔…〕人びとが望んだ』の『は、1945年以降の西ヨーロッパで発達した一群の諸制度として捉えられる民主主義であった。
中・東欧の国々は、さらに自由市場へと向かい、〔…〕ハイエクを熱狂的に支持した。しかしながら、多くの人びとは彼の絶対自由主義 リバタリアン 的な構想をすぐに捨て去ることとなり、暗黙のうちにオークショットに賛成するようになった。つまり、すべての計画化に抵抗する〔ギトン注――ハイエクの絶対自由主義的〕計画は、やはり〔ギトン注――計画経済と同様に〕演繹的合理主義の政治なのであって、中・東欧』の当時の状況〔計画と教条を誰もが憎んでいる――ギトン注〕にふさわしくなかった。
当時、英国首相『サッチャーが自由市場を推進する政策〔新自由主義――ギトン注〕をとろうとしたとき、「これ以外に進む道はない(There Is No Alternative: TINA)」と言い張った〔…〕西ヨーロッパではこれは当てはまらなかった』が『中・東欧においては〔…〕その通りだったのである。
〔ギトン注――東欧の〕どの国においても、非共産党系左派は〔ギトン注――新自由主義に対して〕対抗的なヴィジョンを提供できなかった。1989年の東欧革命について、ハバマス』と『フュレは、「大騒ぎして喧 やかま しいかぎりだったが、東欧から新しい理念は何ひとつ生まれなかった」と主張し』た。東欧の『反体制派が唱えていた具体的な制度的理想は、何ひとつ生き残らなかった〔…〕。とくに、自主管理という考え方が、そうであった〔完全に支持を失ってしまった――ギトン注〕。〔…〕1989年以降、自治行政が存在するところはほとんど無かった〔共産党政権時代以上に、集権化が進んだ――ギトン注〕。反政治の提唱者たちは、〔…〕彼らの理念を、体制転換後の凡庸で退屈な政治生活に適用するのは困難だということに気づいた。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.212-214.
オークショットは、ハイエクと並んで、サッチャー,レーガンの「新自由主義」政策に理念を提供した思想家とされます。政府による経済への計画的介入に反対する点は、ハイエクとオークショットに共通していますが、オークショットは、ハイエクとは異なって、合理的・理念的に「自由市場」を絶対化する考え方を採りませんでした。むしろ、政府の政策は、経験的な保守的「プロ」政治家の感覚によるべきだと主張したのです。そして、中央集権制を排しませんでした。
この点で、サッチャーらの「新自由主義」政策は、オークショットの構想に、より近いものでした。一面において限りなくアナーキーなハイエクとは異なって、現実の政治の場で推進された「新自由主義」は、政府の集権的権力を限りなく強くし、社会に対して「効率性」を求め、能動的主権者としての「市民」を、たんなる受動的な「消費者」に転換させるものでした。こうして民主主義は後退し、「より一層の官僚制が生み出される」こととなったのです。(p.195.)
つまり、「東欧革命」後に東欧諸国で生じた事態は、西欧の民主主義的諸制度の導入を理想としながら、じっさいにおいては「新自由主義」一辺倒の体制を導入することとなったと言えます。そして、共産主義政権を倒す過程で唱えられていた「反政治」、「自主管理」などの理念は、ことごとく色褪 あ せ、消えてしまったのです。
事実としては、これがすべてであって、「そんなはずは‥‥」などと疑う余地すらありません。しかし、いったいどうして、そういうことになったのか? 東欧反体制派の諸構想は、共産主義政権以上に現実性を欠いた絵空事だったのか? 著者の事実本位の語り口からは、そう受けとるほかないようにも思われてきます。
が、ここで私は、考え方の・ひとつのヒントを示したいと思います。北朝鮮の金正日 キム・ジョンイル 時代だったと思いますが、おおぜいの脱北者が日本にも流れてきました。同時に、中国の「延辺朝鮮族自治区」からも、ビザを取って日本に出稼ぎ〔いわゆる「不法就労」〕に来る人が多くいました。私は、仕事の関係で彼らと接触する機会が多かったのですが、あるとき、彼らとの間で通訳をしてくれているボランティアの女性が、私と2人だけで歩いている時に、ふだんとはガラッと態度を変えて、北朝鮮や延辺から来た人たちを口舌鋭く貶 けな し始めたのです。どうしても我慢できない心底からの怒りをぶつけている感じで、彼女の誹謗は止むことがありません。彼女の怒りを一言でいうと、「彼らは拝金主義で、カネがすべてだと思っている」ということでした。共産圏から来たのに、日本人よりはるかに資本主義に毒されている、という逆説が、彼女の怒りを倍加させているようでした。このような場面では、「差別はやめましょう」などというお行儀良いセリフはまったく無力です。
思うに、彼らが暮らしてきた・不合理な「共産主義」体制の下では、カネ以外には信じられるものは無い、ということが、数多くの経験を通じて骨の髄まで叩き込まれるのだと思います。そのような経験を積んだ、積まざるを得ない人びとが「人民」の大部分を占める社会では、理想的な《平等・民主》の社会構想に、いったい何の力があるでしょうか。「民主主義でメシが食えるか?」と言われるのがオチでしょう。「東欧革命」後の東欧諸国の社会も、北朝鮮や、中国の辺境と同様な状況にあったのではないでしょうか?
東欧諸国の事態は、政治社会思想そのものをいくら考究しても、「社会発展の法則」をいくらいじっても、決して解けるものではない。人間のいわば「根底的条件」から考えてみるほかはないのだ、というのが、この問題について私の達した結論なのです。
プーテルブロート『山々』1989年。
Puterbrot?, Mountains; Горы 1989. ©Wikimedia.
【82】 「ソ連邦」国家の解体;「自主管理」の運命。
『1991年までには、ソ連邦』が『種々の構成民族を収容できないこと、いわんや、「ソ連国民」』という『政治的な形が不可能』だという『ことは明らかになっていた。〔…〕「ペレストロイカ」によってすべては完全に分解してしまい、〔…〕元に戻すことは不可能だった。〔…〕ゴルバチョフが〔…〕大統領に就任した〔…〕時すでに、ソ連国家は、構成諸国家および諸国民に分裂していた。ソ連邦の消滅は、戦後の脱植民地化という〔…〕流血を伴うドラマにおいて、最後から2番目の大きな出来事であった〔「最後の」大きな出来事は、ユーゴスラヴィア紛争だという――ギトン注〕。さらに、20世紀のヨーロッパにおいて民主主義が現れるとすれば、〔…〕国民国家と』いう『政治的形式〔…〕で出現』する『ということ』、しかし、『国民国家は〔…〕民主主義になるとは限らないということも、ソ連の消滅によってわれわれは確認したのである。
〔…〕1世紀にわたる絶滅,追放,住民交換をめぐるヨーロッパのドラマ〔…〕の最後の出来事は、1990年代に起こったユーゴスラヴィアでの戦争だった。
〔…〕ユーゴスラヴィアの崩壊は、かつてきわめて高く称賛された・労働者による自主管理の経験に、決定的な終止符を打つものでもあった。とはいえ〔ギトン註――戦前のオーストリア,戦後のハンガリーなど他の諸国と同様に、ユーゴスラヴィアでも〕自主管理は、宣伝されたとおりに実際に機能したことは一度もなかったし、むしろ 1960年代以降は、ユーゴスラヴィアという国家に統合された複数の民族を「自治的に統治する」ための非民主主義的な形態に変質していた。〔…〕1989年以降、自主管理は理想として』も『事実上消滅してしまった』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.214-216.
こうして、1989年の「東欧革命」とその後の事態は、西ヨーロッパの歴史が生み出した不完全で毀誉褒貶の多い民主的政治機構を超える何物も生み出しませんでした。そればかりか、「連邦国家」「自主管理」という、なお実現の途上にあった政治制度構想をも、最終的に流産させてしまったのです。
レフ・アウクセンチエヴィチ・オウチンニコフ『アレクサンドル・
シェメノヴィチ・ヴェヂェルニコフの肖像』1990年。
Портрет Александра Семеновича Ведерникова, 1990г. Автор:
Лев Авксентьевич Овчинников (1926-2003). ©Wikimedia.
【83】 「1989年」という年 ―― 色あせる「新自由主義」
ここで、「西側」に眼を向けてみましょう。1980年代の西「ヨーロッパ、および西側世界全体」は、「新自由主義」の高揚のもと、「自信と楽観主義が復活した」かに見えました。1960年代に「西側」のどこでも破産宣告状を突き付けられていた「戦後民主主義」――又の名は中道自由主義――は、金箔がはげたままで「新自由主義」の幻想の後光を受けて輝きだしたのです。「アメリカ国務省職員」フランシス・フクヤマは、1989年に発表した『歴史の終わり』〔89年に論文「歴史の終わり?」として発表し、92年には、増補した単著『歴史の終わり』を出版した〕の中で、「絶対自由主義 リバタリアン 的」な「株式所有〔…〕投機師たちの社会の上にそびえる・オークショット的な強い国家の出現とともに」〈歴史は終わった〉、と宣言しました。「歴史の終わり」とは、〈イデオロギーの終焉〉であり、「自由民主主義に対抗できるような・人間集団の組織化〔…〕や生き方など〔共産主義だろうと何主義だろうと〕存在しない」ということでした。が、人びとはその宣言から、人類の歴史を支配してきた「あらゆる紛争や暴力〔階級闘争?〕の終わりを」信じこんで、幻想に酔ったのでした。
もちろん、そうした幻覚によって「戦後民主主義」体制が変化したとか、良くなったというわけでは決してなかったのです。「ひとたびサッチャリズム〔新自由主義〕のユートピア的エネルギーが消え去るや、人びとの目に映った」のは、あいも変わらぬ「戦後の憲政秩序の輪郭」だったのです。「社会における諸集団と国家との間の」利権分配をめぐる退屈な交渉が続き、「キリスト教民主主義」の政党が支配していようと、「社会民主主義」の党是が支配しようと、いずれの政府も多かれ少なかれ「福祉国家の枠組みをふく」み、市場の自由にたいしてそれなりの規制をかけていました。
第2次大戦後の「西ヨーロッパに安定した民主主義が出現したのは、歴史的に極めて特異な」条件のもとに置かれたためでした。当時、「各国は〔ギトン注――冷戦による〕国際的な制約を強く受けて」いました。他方、国内的には「民族的な多様性が少な」かったので、国民的な大衆政党による「持続的な政党システムに依拠することが可能だった」のです。この2つの条件は、1980年代以後のヨーロッパでは失われました。冷戦は終結し、大衆政党も議会も、「どの国でも弱体化し〔…〕影響力を弱めつつあ」ります。(pp.216-217,219.)
いまや、「1950年代と1960年代の本物の大衆民主主義」が「郷愁をもって」想起されるようになっています。しかし、その復古的感慨には、1968年の “騒乱” は「代表制の危機によって引き起こされたこと」、その後、女性,同性愛者,民族的マイノリティといった「新しいアイデンティティの訴え」がヨーロッパの民主主義を揺り動かしてきたことが、忘れられています。これらの問題は、「新自由主義」によっては何ら解決されていないのです。
が、「戦後民主主義」の・より根本的な危機は、「人間の」自由と「自律性に制約を加える〔…〕道徳的基盤が」いまや、戦後の 20年間のように確固としたものではなくなっている、ということにあります。戦後フランスのマリタンの「人格主義 ペルソナリスム」にしろ、ドイツ・イタリアの「キリスト教民主主義」にしろ、議論の余地のない道徳的原則・確信を背景に負っていました。人間の無制約の「実存的自由」を標榜した・あのサルトルでさえ、「実存主義はヒューマニズムである」と表明して怪しまなかったのです。
しかし、そのような安定した〈自明の〉道徳的基盤は失われました。失われていないとしても、たいへん不安定であやふやなものになってしまっているのです。
つまり、戦後のヨーロッパで「大衆民主主義」が花開いた時代に戻ることは、もはやできません。それというのも、「戦後民主主義」の安定を支えていた条件も基盤も、今は失われているからです。(pp.216-217.)
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