ヴラヂーミル・サフネンコ『聖母子』(1981年)。

Vladimir Sakhnenko, Madonna and Child, 

Мадонна с младенцем, Владимир Сахненко, 1981. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【79】 もうひとつの潮流 ――「並行国家」

 

 

 「誰もが反政治に賛同したわけではな」かった。「この反政治という概念は〔…〕人権とは違って〔…〕1980年代を通じて異議を呈されつづけた」。〔あまりにも哲学的・抽象的な言語で語られたためか?〕

 

 「制度構築の必要」をより強く感じる人びとからは、「並行国家 パラレル・ポリス〔「もう一つの国家」「並行構造」とも訳される〕と呼ばれる考え方が出てきた。国家と並行して・それに対抗しつつ補う政治組織、という意味合いだろうか。既成の統治機構と並行して、「具体的な目的をもった制度が作られ」た。「この国家は、まだ生まれたての市民社会の内部で作られることとな」った。「労働者を擁護する委員会〔…〕,地下労働組合,[飛ぶ大学],貧困層への支援団体〔それ自体が、「貧困は消滅した」と称する社会主義国家への挑戦状だった〕,そして対抗文化 カウンター・カルチャー の団体である。1980年代には、〔…〕環境問題に取り組む社会運動が加わった。」これらの組織は、「知識人と労働者の同盟への道を切り拓くうえで決定的役割をはたした。労働者は、知識人が自分たちの権利を守ってくれるのを見て、わだかまっていた知識人不信を解消した。」グラムシ〔⇒:(11)【33】ならば、「この知識人と労働者の同盟が最も大切なことであり、生まれつつあるヘゲモニーだと言っただろう。」

 

 こうして、「高度なヨーロッパ哲学の知的背景を有する」「反政治」の追求は、それと並行して「ますます増えつづける市民的結社」の「自覚的に抑制された・実際的な目標追求によって補完された。」「憲章77」の活動家ヴァーツラフ・ベンダは、「並行構造」戦略をこう要約する:「われわれは並行構造をゆっくりと、しかし確実に作り上げるために力を合わせている。この構造は、既存の構造〔社会主義国家機構〕では失われ」た「機能を、最低限だが補う能力をもっており」、もし体制が許すならば「この並行構造を使って現存の構造に人間性を与えることもできる。」

 

 中・東欧の「それぞれの国の政治文化」には「長く続いた分裂や亀裂」があり、それが反体制運動にも反映されるのは避けられなかった。しかし、ここでも知識人が有用な役割を発揮した。反体制知識人は、労働者と知識人との同盟を構築するだけでなく、「異なる集団を包みこむ思想をもった」普遍的な理想によって、運動の分断を乗り越えようと努めた。たとえばハンガリーでは、「民主主義的都市市民」と、農村の「ポピュリズム的民族主義者」という・伝統に基く対立があった。かつてイシュトヴァーン・ビボー〔⇒:(27)【54】は、「異なる地域の伝統」や「民族的な伝統を独自のものと認めたうえで」それらの伝統が「民族的であると同時に民主的でもあると解釈」した。70-80年代の反体制派はビボーの思想を継承して、伝統的な「民族主義と、自由主義の融合」を、ソ連への隷従から脱した「領土的独立」と・社会主義体制に抗する「人民主権」という具体的要求に転換させ、反体制運動をまとめ上げていった。(pp.206-208.)

 

 

ヴラヂーミル・サフネンコ『最後の晩餐』1982年。 Vladimir Sakhnenko,

  Lord's Supper, Владимир Сахненко, Тайная вечеря, 1982. ©Wikimedia.

 

 

 

【80】 「革命」はタヒんだ。そして「変化」が起きた。

 

 

ブレジネフ〔ソ連共産党書記長,在任:1964-1982――ギトン註〕とその後継者たちによる「発達した社会主義」が意味したのは、停滞、汚職、そしてますますひどくなる社会の封建化であった。なかでも急速に進行したのは、指導者たちの全面的な自信喪失だった。〔…〕このような状況において、反体制派は、法実証主義を武器として用いることで巨大な衝撃を生み出〔…〕したのだ。反体制派が示したのは、「国家社会主義」が統治者・被統治者双方の巨大なイカサマに依拠していることだった。』社会主義体制の『エリートたちは、〔…〕約束を実現しているように振舞』『それに対して〔…〕統治される者は、国家正統であるかのように振舞い〔…〕黙認しているのであった。』

 

 つまり、『この体制が端的に正統性を欠いているという事実を』反体制派は、法実証主義〔社会主義の法律的タテマエと、現実の統治とが、違うではないかという批判〕によって示したのだった。

 

『1980年代の初頭には、ブレジネフの理想である「幹部構造の安定」――フルシチョフの破壊的な「民主化」に対抗』して『――の結果、〔…〕幹部全員が老化してしまった〔…〕。とうの昔に共産党は、もはやカリスマ〔…〕ではなくなっていた。〔…〕人びとに献身の念を吹き込むことはなく、個人が私腹を肥やす手段としか見なされなかった〔…〕。したがって、共産党の権力は、非人格的〔ギトン註――官僚〕組織と同じくらい・人格的依存に基いていた。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.208-209.   

 


 ミハイル・ゴルバチョフの改革〔ソ連共産党書記長,在任:1985-1991。ペレストロイカ[建て直し]を唱え、計画経済の解体,個人営業と協同組合の公認,政治言論の自由化,グラスノスチ[情報公開],大粛清檥甡者の名誉回復などを進めた〕が失敗した理由も、そこから理解することができる。「ゴルバチョフは近代化を望んでいたが」、それは当然のことながら「より多くの自由を」もたらすことを「必然的に伴う」。しかし、「そのような自由〔…〕レーニンの国家のまさに根幹を掘り崩す」。「それゆえゴルバチョフは」、まさに改革者として極めて逆説的な矛盾の上に立たされていたし、彼自身まもなくそのことに気づいた。〔さまざまな市民的「自由」のなかで、著者ミュラーが最も注目しているのは政治的自由、すなわち参政権。参政権の実質化は、共産党支配体制の「根幹を掘り崩す」ということ――ギトン註〕

 

 

ドミトリィ・ストリージョフ『中央公園の情景』1982年。Дмитрий

 Стрижов, Картина Центральный Парк, 1982. ©Wikimedia.

 

 

 「ソ連の書記長」というゴルバチョフの地位は、これまでのソ連と共産党の統治の結果として「途方もない集中権力を蓄積して」いた。その権力もってすれば、たしかに、集権化とは逆の方向に急激な改革を進めることも可能ではあった。「脱中央集権化を強要することも」できたし、「市民がもっと政治参加する可能性を創り出すことも」できたし、じっさいにゴルバチョフはそれを進めた。「しかし、その過程」は、「ソ連の書記長」という地位が持つ権力を減刹してゆく過程でもあった。すなわち、「改革」の過程そのものが、「改革の完遂に必要な権力」を侵食する過程とならざるをえなかった。見せかけでない真の「改革」をめざそうとすればするほど、この矛盾、「改革」じたいを頓挫させることとなる矛盾を、避けることができなかったのだ。

 

 「当初ゴルバチョフは、フルシチョフの[民主化]レトリック」や、「プラハの春」のような、共産党体制内で過去に試みられた改革手段で乗り切れると考えていた。共産党の集権的支配を打倒するつもりはなく、集権的権力機構のままでやっていけると思っていた。ゴルバチョフは、共産党の機構を、「この保守主義の巨象」「薄汚れたみすぼらしい犬」などと呼びながら、自分ならそれを「何とか引っ張ってい」けると思っていた。当時、あるゴルバチョフの側近は、「ペレストロイカ」は「プラハの春」とどこが違うのかかと尋ねられたさいに、「19年だ」と答えている。19年前にソ連の指導者は「プラハの春」を潰したが、今は考えを変えて、自ら「プラハの春」を実施する。潰したのは間違えだったが、今は間違えを正しているのだから必ず成功する。それで十分だと彼らは思ったのだ。

 

 ところが、「その犬〔ゴルバチョフらが頂点に立った共産党機構〕〔ゴルバチョフらの〕手を噛みそうになった時〔クーデターが起きそうになった時。…やがて実際に起きたが〕ゴルバチョフは戦術を変えた。〔…〕自らの権力基盤をから国家に移そうと試みた」のである。その結果、たしかに彼は「」権力を掘り崩すことには成功した。が、「」権力に代わる「新しい国家」を・自らの権力基盤として樹立することには成功しなかった。

 

 「共産党から〔…〕切り離された国家というものを、」ゴルバチョフは「ほとんどゼロから作らねばならなかった」。「たとえば、共産党とは独立した・新しい最高会議が設立された。〔…〕1920年代」以来の「と国家の二重権力構造〔レーニンはこれを「柔軟な融合物」と呼んで称賛した〕」を最終的には解体した。その兆候は、国外からも見てとることができた。国際ニュースに載る「象徴的な意思表示」が、「本当の変化が起こりつつあることをはっきりと示し」ていた:「1987年にはスターリンの「モスクワ裁判」で粛清された〕ブハーリンが名誉回復され、その1年後には『収容所列島』」が発禁を解かれた。

 

 しかし、「あらゆるところで」ゴルバチョフら「改革派を苦しめていた国内的な矛盾〔…〕の最たるもの」は、「共産党の[指導的役割]と民主主義とを結びつけることの不可能性だった。」その結果として「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」は頓挫した。

 

 「は、権力基盤としては消滅した」が、それに代わる「新しい国家」は、ゴルバチョフら改革派が望むようなものにはならなかった。なぜなら、そのような・市民の政治参加と「自由」に支えられた「新しい国家」は、実際に実現してみると、それは決して、改革派が考えるような「[社会主義的市場経済]の枠組み」となりうるものではなかったのである。

 

 

ニコライ・ピメノフ『もや』1984年。

Николай Пименов, Туманы. 1984. ©Wikimedia.

 

 

 とはいえ、「改革〔ペレストロイカ〕」は、全東欧圏に広がった。それを「改革」と呼ぶ

のは言語矛盾であるように思われた。なぜならそれは、「改革」と呼ばれるような計画された変化でも、「革命」と呼ばれるような暴力的な変化でもなかったからだ。事態を自らの手に握ってコントロールできる者もいなければ、「煽動」する者さえいなかった。ただ単に、社会主義体制が完全にかつ一斉に崩壊した。それだけだったのだ。人びとはそれを、ただ「変化」と呼ぶほかはなかった。

 

 「変化がなぜ起きたのか、その正確な原因は、それぞれの国で異なっていた。」が、「すべてに共通する」特徴があった。「変化」は、「フランス革命やロシア革命」のような革命の「モデル」とはまったく異なっていた。何よりも、「暴力や煽動といった形態」を欠いていた。「体制側は、反体制派に新たな 1956年〔ハンガリー動乱〕の兆候を探そうとし」て失敗した。そのことが、反体制派の勝利をもたらした。体制側は、事態を収拾するすべを失ったのだ。じつのところ、「暴力は 1968年までに、西と東のどちらでも時代遅れになっていた。」

 

 「にもかかわらず、〔…〕変化はあっというまに起こり、国境を越えて国から国へと広がっていった。〔…〕人びとが権力を恐れることをやめるやいなや、〔…〕全体主義的な主権〔…〕はあっさりと崩壊した〔…〕。全体主義的で分割されない権力と見えていたものは、現実にはきわめて脆かったのだ。」

 

 その一方で、こうした体制の崩壊が、無秩序や治安の潰滅をもたらさなかったことにも注意が向けられなければならない。その秘密は、「並行国家 パラレル・ポリス〔⇒:【79】↑にあった。長期間にわたる反体制運動のなかで反体制派によって「注意深く作りあげられた もう一つの国家 パラレル・ポリス によって、国家権力の崩壊から政治的カオスが生じることは避けられたのである。」(pp.209-211.)

 

 

『1989年12月のチェコスロヴァキア大統領選挙での勝利を受け、〔ギトン註――反体制派からの初めての大統領となった〕ヴァーツラフ・ハヴェルは新年の演説で、〔…〕「人びとよ、諸君らの政府は戻ってきた」と述べ〔…〕さらに、チェコの国民的象徴』である『17世紀の哲学者・教育学者コメニウスを援用し』て演説を続けた。

 

『とはいえ、単一のものとして統一された・集合的かつ自己決定する主体としての「人民 ピープルは、1989年にはもはや『引き合いに出されることもなかった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.211-212. .  

 

 

 1989年の「変化」の過程では、たしかに、「多数の人々が寄り集まりデモをしたこと」が「決定的な役割を」した。が、より重要な役割をはたしたのは、市民を代表して「旧体制と交渉した[円卓会議]」や「市民ネットワーク,市民フォーラム」の存在であった。つまり、「そこで重要なのは、市民・民衆 ピープル であって、[人民 ザ・ピープル]ではなかった」のだ。

 

 

イリーナ・アジジャン『グルズフの赤い建物』1988年。Irina Azizyan,

 The red  house Gurzuf, Азизян. Красный дом. Гурзуф. ©Wikimedia.

 

 

 なるほど、1989年の「変化」を通じて、「人民主権」ないし「国民主権」が「実際に回復された」。しかし、1789年のように「国民 ネイション」建設のために「国民」という一体的なスローガンが叫ばれたわけではなく、1914年のように革命的国家建設のために「人民」に向けた扇動がなされたわけではもちろんなかった。「市民ネットワーク,市民フォーラム」の人びとは、「国民」の代表を自称することも、「人民」の前衛を自負することもなかった。「1989年の[革命]は自覚的に自制的であって、旧体制〔共産党体制〕への反対という一点で結びついた多元主義的なものであった。」それは、「大文字の革命に対抗する幾つもの小文字の革命であり、まさにウォルピンがかつて夢見た超 メタ 革命であった。人びとは、過去と現在の対比を黒と白だけで描くことを望まず、〔…〕共産主義体制の奉仕者たち」の多くにも、なお体制内に生き残って「面目を保つことを許した。」(p.212.)

 

 

 

 

 

 

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