フェレンツィ・カーロイ『水浴する少年たち』1902年。 Ferenczy Károly,

Bathing boys, Hungarian National Gallery, Budapest.  ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【53】 スターリン像の「剥離」

―― ティトーとミロヴァン・ジラス

 

 

 少し先へ飛ばします。すでに仄めかしていたように、つぎの大きな「やま」は、いわゆる「68年」です。1968年前後に世界を席巻したさまざまな異議申し立て〔方向もさまざま〕や “反乱” によって、戦後の「民主主義」体制は巨きな疑問符を突きつけられました。

 

 しかし、まずは「東側」世界の動きから見ていきます。

 

 東側では戦後、スターリン体制の上塗りの「剥離」が徐々に目についてきました。個人崇拝は「国家崇拝」に取って代わられ、「知的テロはますます間歇的になり」、人民は党にたいして「心からのイデオロギー的一体性を告白するよう要求されることはますます少なくなった。」党と人民のあいだで、「党の提供する物的財とひきかえに」人民は諦念と沈黙を提供する一種の「取引き」が成立していた。スターリンのもとでの「イデオロギー支配」――理念による理念の支配――は、やがて「手のこんだ退屈な正面飾り」にすぎないものとなった。なぜ「飾り」なのかといえば、もはや「誰もそれを信じておらず〔…〕、誰も信じていないことを皆が知っていた」からだった。そして今や国家の実体は、「権力のために〔…〕権力を集積する軍部と官僚による支配」となっていた。

 

 それが戦後の「人民民主主義」だった。「人民民主主義」という名の亜流スターリン体制は、ソ連では単に塗りが剥げただけでそのまま立っていた。が、「東側」の端では綻びがはじまっていた。


 「人民民主主義」のなかから、ソ連・コミンテルンによる「真理の独占」を覆す国が最初に現れたのは、ユーゴスラヴィアだった。

 

 ユーゴスラヴィアの指導者ティトー元帥は、「かつてナチに対して唯一完勝した」レジスタンスを率いたことで、コミンテルン指導部も一目置かざるをえない存在だった。ティトーは、もと「コミンテルンで訓練を受け、クレムリンに推されて」指導者となったが、ナチとの戦いに勝利を収めて権力を握ると、「ナショナリズムの名のもとにスターリンを拒絶」し「固有の社会主義を建設中だと主張し」、「ソ連とスターリン」及びその後継者による「真理の独占に〔…〕挑戦し〔…〕成功した。」

 

 ティトーユーゴスラヴィアは、「西側の人びとの希望の星」として世界中の注目を集めた。しかしながら、「希望」の多くは、のちには幻滅に変わった。たとえばユーゴスラヴィアは、「ロシア革命」当時にロシア,および中東欧各国の「評議会」(ソヴィエト,レーテ)がめざしていた「労働者自主管理」の理想を復活し、「その実践を誇った。」が、のちに広く知れ渡ったところでは、この「自主管理」は「上から押しつけられたものだった。」この国が独自路線を歩もうとして、スターリンとソ連の「兄弟国」によって「危機に晒された」時に、ティトーの政府は「自国人民の支持を調達すべく」、「工場自主管理」を上から組織したのだった。

 

 

ジョルジェ・アンドレイヴィチ・クン [1904-1964]『パンと平和と自由を』。

Đorđe Andrejevic' Kun, Bread, Peace and Freedom. ©Matt Broomfield.

 

 

 「独自路線の主たる考案者は、モンテネグロの山村出身者ミロヴァン・ジラスであった。〔…〕共産主義パルチザンとして戦い、1944年にモスクワでスターリンに会い〔…〕党員証番号4をもつ古参党員の彼は、〔…〕1950年代初め副大統領」だったが、「民主主義を深化させようと呼びかけたせいで〔…〕1954年に政府から追われ、すべての党職を失った。その後、『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューに応じた」ことから、国内の実情について「センセーショナルな暴露を行なった」として「裁判にかけられ、〔…〕収監」された。インタビュー記事で彼は、「ユーゴスラビアの状況は[全体主義]を特徴としており、国家は[非民主的強制力]や[反動的構成要素]によって支配されている」と述べていた。

 

 この時の判決(執行猶予)は 1年5か月だったが、ジラスはその後も 1956年に、ソ連軍のハンガリー介入を批判して「3年以上」の懲役刑を言い渡され服役した。その逮捕直前にニューヨークの出版社に送った『新しい階級――共産主義制度の分析』は、40以上の言語に翻訳され刊行された。そのためジラスは 57年に懲役7年を追加され、1961年に仮釈放されたが、翌年、『スターリンとの対話』を書いた廉で 5年の刑を追加されて刑務所に戻され、66年まで服役した。

 

 『新しい階級』のなかでジラスは、「ソ連や東欧の共産主義は平等主義ではなく、「特権的官僚層」が「地位を利用して物質的利益を享受している」と指摘した。共産主義者といえども「以前の支配階級と異なる行動はできない」のであり、彼らは「理想社会を建設していると信じながら、自分たちの」利益だけの「ために建設している」。彼がとりわけ指摘したのは、特権的官僚層という「新しい階級と生産手段との関係」である。すなわち、社会主義国家では、生産手段を事実上支配する官僚が「新たな政治統制権力を」握っており、彼らは「虚栄心と物的欲望を満たすために、たえず」権力「を増大させている。〔…〕共産主義革命は、階級の廃絶を掲げ」ながら、「新しい単一の階級の権威を完璧なもの」としただけだった。「それ以外はすべて、見せかけと幻想である。」(pp.63-66.)

 

 

 

【54】 ドナウの悲劇 ――

イムレ・ナジ政権とルカーチ、ビボー

 

 

 1956年10-11月の「ハンガリー動乱」を「革命」〔社会主義ないし偽りの社会主義に対する〕と呼ぶ向きもありますが、ここでは価値評価を控えて、「動乱」という慣習的呼称を用いたいと思います。それは、ソ連の社会主義体制を擁護したいからではありません。起こった事態が、あまりにも意気消沈させるものだった――たんにソ連軍の鎮圧で壊滅したというだけでなく‥――からです。

 

 たしかに、労働者・民衆の蜂起は成功し、スターリンに忠実な抑圧的政権を崩壊させ、より穏健な「改革共産主義者イムレ・ナジ」を首相に就けることができました。ソ連軍が介入する以前のこの時点までは、「動乱」につきものの混乱や無秩序は全く無く、人びとは自分たちの要求を整然と貫徹したのです。「労働者階級が中心的役割を演じた最初の反社会主義反乱(〔…〕人によっては〔…〕反官僚主義革命とも〔…〕)だった」と言われるゆえんです。

 

 

ドナウ河に面して立つハンガリー国会議事堂。 ©Tstudio / Shutterstock.

 

 

 しかし、大衆の力で(気遅れしながら)政権に押し上げられた人びとは、「ソヴィエト・ブロック」から離れた独自の路線(社会主義であれ何であれ)を実行する計画(プログラム)を十分に持っていなかったし、改革を遂行する意志にも欠けていたと言わざるをえない(国際環境などの条件が欠けていた点は除外しても)。「動乱」鎮圧の結果逮捕され処刑された「悲劇の首相」には同情を禁じ得ないとしても、そう言わざるをえないのです。

 

 戦後のハンガリーでは、「スターリン体制は、ことのほか抑圧的であった。」当初のラーコシ政権を引き継いだイムレ・ナジ政権〔第1次〕は、「いくぶん穏健な路線」を試みたが「1953年に挫折し、ナジは首相解任のうえ党からも除名され」た。そのため「1956年には不満は党内にまで広がっ」た。ハンガリー共産党内に作られた「ペテーフィ・サークル」が、フルシチョフのスターリン批判演説に励まされて、「一種公認の党内野党の役割をはたした。メンバーは、ますます過激化する学生たちとともに、ポーランドの改革を支持し、〔…〕ナジの復権も要求した。」ペテーフィ・シャーンドルは、1848年「三月革命」のさいにハプスブルク帝国からの独立をめざして戦ったハンガリーの国民的詩人。

 

 「ペテーフィ・サークル」は当初、公認ないし黙認された党内グループだったが、「学生のデモが膨れ上がるなかで〔…〕10月23日」次の要求を出さざるをえなくなった。「中央委員会と政府は、工場に自治と労働者民主主義とを導入することで、社会主義的民主主義の発展に向けてあらゆる手段をとるべきである」。第1次大戦・直後の「評議会〔レーテ,ソヴィエト〕民主主義がよみがえったかのような・この宣言は、じっさいに学生たちと労働者の一部が抱いていた希望に近かったようだ。「狼狽した政府は」これを「反革命や疑似ファシスト的民族主義」だと「断定した」が、高揚した「労働者と学生のデモは」もはや「暴力的鎮圧以外の方法では統制不可能」であった。が、・政府は、ソ連軍が動くまでは鎮圧をためらっていた。

 

 23日、国会議事堂前に集まった大群衆は、急遽「再入党を認められたばかりのナジ」を押し出して演説をうながした。ナジは、「同志諸君!」という呼びかけで演説を始めたが、「おれたちは同志じゃない!」「われわれは同志なんかではない!」というヤジを浴びせられて黙ってしまった。ナジは、共産党の用語以外の言葉で語るすべを知らなかったのだ。窮まって、この党歴 30年のボリシェヴィキ――粛清されたブハーリンの盟友だった――は、ハンガリー国歌を歌い出した。それは熱烈な大合唱となった。

 

 翌日、ナジは首相〔第2次〕に任命された。彼は、まず一党独裁を変えるべく「複数政党制の方向へじりじりと進んだ。1946年以前」に「存在していた政党を、ファシスト諸党を除いてすべて合法化する準備を始めた。その間に、労働者は工場を占拠し、評議会を設置し〔…〕ゼネストに入った。ブダペストの一部では、民衆とソ連軍の戦闘が始まり、停戦と再燃を繰り返した。

 

 

第2次ナジ政権成立翌日のブダペスト。ソ連の支配に抗議するデモンスト

レーション。1956年10月25日、フェレンチェク広場付近。Demonstrators

 march in protest against the USSR's control of Hungary, 25 October 1956,

 Kossuth Lajos Street seen from Ferenciek Square. ©Wikimedia.

 

 

 ナジは非共産党員も閣僚に加え、ワルシャワ条約〔ソ連を盟主とする戦後東欧の軍事同盟〕」から脱退して「その外で、中立ハンガリーとして独自の社会主義建設に」進むことを表明した。「ワルシャワ条約機構」離脱について、政府内での投票が行われ、「ナジハンガリーの中立を宣言した。すると、労働者評議会は直ちに」ストライキをやめて「仕事に戻った。」

 

 この間、ソ連軍は、鎮圧とブダペスト撤退を繰り返していたが、11月3-10日には労働者評議会傘下の労働者・民衆との激しい衝突ののち「動乱」を鎮定した。

 

 ラーコシ政権によってモスクワから呼び戻され、ブダペスト大学にいたルカーチは、10月23日に至る事態を見て、「弱い専制ほど始末に困るものはない」と言い放っていた。ルカーチナジに乞われて教育芸術担当相として入閣したが、「ワルシャワ条約機構」離脱には反対票を投じ、「自分の省の建物に」足を踏み入れることもなかった。

 

 鎮圧後、「イムレ・ナジルカーチをふくむ指導者たちは飛行機でルーマニアに」送られ、裁判にかけられた。ナジは「58年6月に絞首刑を執行された。」ルカーチは「57年にハンガリーへの帰国を許された」が、今後は政治活動をしないという条件付きだった。

 

 「農民党出身の〔…〕政治理論家〔…〕イシュトヴァーン・ビボーは、〔…〕官僚と警察官からなり、それが勤労階級全体に対峙していた」と述べている。〔…〕彼は内務相に任命され、」ソ連軍が「国会議事堂を包囲した時、最後までそこに残った主要政治家であった。彼は、〔…〕11月4日の午後、〔…〕事務官と間違えられながら[ハンガリー〔…〕自由、正義、搾取廃止の諸原則のもとで自らを組織したいと考えている・自由な東欧諸国民の共同体のなかで生きてゆきたいと心の底から願っている]と宣言」し、逮捕された。(pp.67-70.)

 


ヤノーシュ・コルナイと若い経済学者たちがナジのために考えた計画は、「市場型社会主義」とともに「労働現場の民主主義」の要素も含むはずであった。コルナイたちはまた、国有化と福祉計画を後退させぬよう主張した。これはビボーの案とも『一致した。

 

 ビボーの案は、〔…〕ファシズムとスターリン主義双方の否定に基いており、充実した市民的自由民主主義を含むものであった。また、1940年代に〔ギトン註――ナチスによってだったが〕接収された農地と工場の返還という考えには反対だった。〔…〕工場における労働者自主管理と社会主義、農業における経済的自由主義、議会制民主主義、それとある種の「反帝国主義的ナショナリズム」、これらの独特な組み合わせが、潜在的には〔…〕生まれていた。

 

 しかし、事態の進展はあまりに急速で、実現可能な制度設計はなされなかったし、反スターリン主義以外の社会的合意をまとめることもできなかった。下からの純粋な民衆運動の願望が、トップの改革派共産党指導者の場当たり的な改革目標を追い越してしまったのである。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.70-71. .  

 

 

シニェイ・メルシェ・パール『冬』1901-05年。

Szinyei Merse Pál, Winter, Hungarian National Gallery. ©Wikimedia.

 

 

 「56年の圧殺」は、「今後も何も変わらないという意味ではなかった。」「56年」にハンガリーの政治家と労働者評議会が望んだのとは全く異なる変化だったが、「西欧における合意の政治の勝利」に照応するような変化が、東欧諸国で進行した。「56年以降のハンガリーの体制は、民衆による政治的黙認と引き換えに、〔…〕消費主義を民衆に提供した。それは、安定のためならいかなる代償も辞さない体制だった」。払った代償のなかで前衛党にとってとりわけ大きかったのは、人民にたいして熱烈な政治参加ではなく「イデオロギーへの無関心 アパシー」を強いたことだった。「動乱」を起こさせないためには、「正しい」イデオロギーを吹き込むよりも、頭脳を停止させるほうが容易だったからだ。モスクワに忠実なハンガリーの指導者たちは、「われわれに敵対しない者は、われわれの味方である」と宣言し、「政治を、民衆の生活からできるかぎり遠ざけた。」

 

 「けれども」このような「福祉共産主義は高く」ついた。「中・東欧諸国は」大衆消費の水準を維持するために「ますます西側からの借款に依存するようになった。」それというのも、諸国には「非効率な企業を罰する市場」というものが存在しないため、国営企業の生産は停滞し、「財政支出の歯止めが無い状態が続いた」からである。それが、最終的には「ワルシャワ条約」体制を内側から崩壊させることとなる。(pp.71-72.)

 


 

 

 

 

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