マルグレート・ホーフハインツ=デーリング『シグネ』1966年。

Margret Hofheinz-Döring, Sigune, Strukturmalerei, 1966. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【72】 ミシェル・フーコー ――「権力」は、

快楽と知と人間を形成する生産的ネットワークだ。

 

 

 フーコーは、権力を・上意下達 トップダウン の支配として認識すべきではない、という点に断固としてこだわった。そのような支配のイメージは王政時代」のもので、「近代の国家や社会の働きを把」えてはいない。「[思想や政治的分析において、われわれはいまだに王の首を刎ねそこなっている]とフーコーは主張した。なぜなら、[政治理論がいまだ主権を握る人物〔「国民」「君主」など――ギトン註〕に執着しているから]であり、〔…〕この執着によって権力の認識は、伝統的な[主権にかんする法・政治理論]に縛られ・歪められている」からである。近代知の伝統に縛られた思考は、「権力をもっぱら・法(と抑圧)という観点から認識する」。そのせいで、そこからどう分析しようとも、「国家に特権的地位を与えてしまう」。この伝統から「決別することが緊急の課題なのだ。」フーコーは、さらにこう説明する:

 

 

権力が及ぼす作用を抑圧として定義するとき、このような権力は、純粋に法的な概念として把えられているにすぎず、ノンと宣告する法と同一視されているのだ。〔…〕そのような権力観は、まったく消極的で視野の狭い〔…〕把え方にすぎない〔…〕。もし権力が、ただ抑圧するものでしかなくノンと宣告する以外何もしなかったのであれば、人びとは権力にいつまでも服従してきた〔…〕だろうか。権力は有効であり〔…〕受け入れられている。権力は』単に『ノンと宣告する力としてわれわれに圧しかかってくるのではな』く、『物事のなかに入りこみ、物事を作り出す。快楽を誘発し、知を形づくり、言説を産みだす。権力は、抑圧機能しかもたない消極的な力』ではなく、『社会全体に張り巡らされた生産的なネットワークとして考え』られ『る必要があるのだ。

 

 フーコーの考えは、奇妙なかたちでルーマンの考え〔⇒:(31)【67】――ギトン註〕と類似していた。どちらも、理論家や一般市民は時代遅れの政治用語』のせい『で国家の役割を過大視していると主張し、どちらも、権力は政治の公的な領域の「頂点」に位置しているわけではない、という考えを提示した〔…〕。2人の理論が〔…〕導き出す政治的な処方箋は真正面から衝突するほど異なっていたにもかかわらず、』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.175-176. 

 

 

 たしかに、ルーマンフーコーは、「権力」の実体を広い意味での「分業」(しかも、マルクス/エンゲルス〔ドイツ・イデオロギー〕な貴族/僧侶/奴隷の分業ではなく、ヘス的な・水平的ネットワークとしての諸部門の分業)に見る考え方だと言えます。

 

  しかし、両者の相違は、「ルーマンにとって理想の知識人が官僚への助言者だったのに対し、フーコーにとってそれは、囚人,精神病患者,同性愛者」など社会の隅で犠牲となっている人びとに取り組む・具体的問題の「専門家」であった点にあります。フーコーが、自らの仕事によって関わろうとするのは、彼ら当事者、および・そうした問題に関わろうとする市民たちだった。政府との関係で言えば、フーコーは政策体系を自らこしらえて政府に提供するのではなく、自分の専門的な分析を市民に提供し、彼らとともに政策を形成し実現をめざしてゆく、――それがフーコーのやり方でした。それは、“体制の追随者” であるルーマンとは逆方向を向いており、他方でサルトルとはほぼ同じ方向を向きながら、分析と行動の方法論は・「普遍的知識人」――「大きな物語」の知識人たち――とは大きく異なっていたのです。(pp.176f.)

 

 

1972年、ルノー工場の前で、毛沢東主義活動家ピエール・オヴェルネ刹害

事件に抗議するフーコー〔ハンドマイク〕とサルトル〔右下〕。

Michel Foucault and Jean Paul Sartre demonstrate in front of

 the Renault factories to protest against Pierre Overney's assassination.

 

 

 

【73】 フーコーとサルトル,ハバマス 

 


 権力が、もし一方的に上から下へただ抑圧するのでなく、往復的また水平的に「[循環]したり拡散したりするのであれば、その移動経路に焦点を当てる権力の[ミクロ物理学]的研究〔権力のミクロ分析〕が必要となる」。「フーコーが知識人の仕事をしっかりと据えたのも」《ミクロ・レベル》にたいしてだった。フーコーは、サルトル型の「普遍的で一般的な知識人から、[特殊専門の知識人]への移行」が進行していることを「つきとめ〔…〕それを擁護したのである。〔…〕知的エリートは、高みから普遍的なものを代表するのではなく、特定の他者のために、」かつもっぱら間接的に他者のために「働くべきなのだ。」(pp.176-177.)

 


『知識人の仕事は、他者の政治的意思を形づくることにあるのではない。そうではなく、〔…〕自らの専門領域で行なう分析を通じて、自明視されている思い込みや物事を再び問題とし、慣習を揺さぶり〔…〕規則と制度の実態を見極め、そしてこの再問題化(このプロセスでは、知識人として固有の役割を発揮する)から出発して、政治的意志の形成(このプロセスでは、市民としての役割を発揮する)に参加すること、それが知識人の仕事である。〔Michel Foucault, »Die Sorge um die Wahrheit«, in Dits et Ecrits, Bd4: 1980-88.〕

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.177. .


 

 つまりフーコーの考えでは、知識人とは、大衆や、あるいは政党や政府の政治エリートたちのために、完備した大がかりな「政治的意志」のセットをこしらえて提供する役目の人ではない。高度の資本主義産業社会――そこでは、すべての生産物は商品化され交換価値で測られる――で・そんな役目を果たそうとすれば、市場競争者として〔悪くすれば「御用商人」として〕行動するほかはないだろう。そうではなく、専門的分析によって人びとの思い込みを覆し、その問題提起を携えて、市民とともに・自らも一市民として「政治的意志の形成」に加わることが、知識人の仕事なのだと。

 

 つまり、フーコーの「仕事」と政治参画の前提には、普通選挙,言論の自由などの「民主主義」制度体制があったのです。

 

 自らの役割に関するフーコーの考えは、旧世代のサルトルらとは大きく異なっていたが、「フーコーは、サルトルに劣らず地球を股にかけて政治参画を続けた。〔…〕本人がそう認めるかはともかく、フーコーサルトル同様、人権尊重という実際的な目標をめざす道徳的な論点に焦点を当てるようになった。」グリュックスマンらの仕事を称賛し、自らも 1980年代初頭には、ポーランドの自主管理労組「連帯」の支援を推進した。が、「フーコーは、自信に満ちた普遍主義的な道徳言語をもはや話さなかった。」彼が行なったのは「(明らかに慎重な)特定の道徳的態度決定への呼びかけ」であり、それは「彼の新しい権力理解と〔…〕けっして矛盾しなかった。」フーコーサルトルも「既存の権力装置を転覆させること」が必要だと主張し、それを「提案しているが、暴動への呼びかけ、いわんやカリスマ的な前衛政党の指導には反対している。」

 

 

集会で発言するフーコー。1978年1月29日、ベルリン。Michel Foucault

 en una conferencia en Berlín el 29 de enero de 1978.  ©clarin.com

 

 

 「とはいえ、権力論と道徳的行為の呼びかけ」にもかかわらず、フーコーの「未来像は〔…〕不完全」なままだった。「大きな物語」でなくとも、小さな破壊と転覆にも、それが成功したのちには「射程の長い積極的な方向性」があるはずだが、それは描かれなかった。ようやく 1980年代半ばにフーコーは、「反規律的であると同時に主権原則から解放され」た「新しい権利を模索すべきだ」と主張した。が、その矢先エイズ禍で倒れ生涯を閉じてしまった。

 

 「フーコーは、自らの書籍が地雷〔…〕のように破壊力をもつ〔…〕ことを望んだ。〔…〕[知の体系の歴史]を探究することは、転覆をめざす戦いの一種であり、社会的・政治的世界にかんする共通の思い込みを〔…〕掘り崩す試み」だった。GIP による監獄の実態分析と世論喚起の「明白な成果を受けて大規模な刑務所改革が実施され」、それは、たしかに改良的成果だった。「しかし、フーコーを読んだ者は、たとえ〔…〕福祉国家志向の[品位ある国家]」像を「支持しつづけたとしても、もはや国家を」以前と「同じ眼で見ることはできないであろう。」

 

 他方、ハバマスや「大陸ヨーロッパにおける彼の数多くの追随者」にたいしては、フーコーおよびポスト構造主義者は、「埋めがたい」見解の相違を抱えていた。それは一言でいえば、「モダニストもしくは啓蒙の擁護者」であるハバマスらと、「ポストモダニストもしくは啓蒙の批判者」であるフーコーらとの相違だった。

 

 「ハバマス側には、啓蒙〔…〕の用語法を維持していく意志があった。啓蒙の価値は、社会的ないし政治的な改善を行なうための最善の路を、いまだに約束するものであるからだ。」これに対して「フーコー側には、普遍主義や」平等化などの「左派的な用語法への猜疑があ」った。それらは「つねに差異や個別化を消滅させようとするものだからだ。」

 

 「しかし、最終的にはハバマス」は「フランスの理論家たち」と「多くのことを共有するようになった。ハバマスフーコーも、自律・自治 オートノミー という理想に固執したからである。ただし、自治に対する」最大の「脅威は何か」について、なお両者の隔たりは大きかった。「ハバマスは、政治的な非合理主義の復活を警戒していた。」フランスの「ポスト・モダン」の言説は、見ようによっては「政治的非合理主義」に該当するかもしれなかった。これに対してフーコーは、「啓蒙」はもちろん「構造主義」まで含めた「過剰な合理主義に危惧を抱いていた。」しかし、この対立は、ドイツ語とフランス語の「理性」という語が持つニュアンスの相違にもとづく感じ方のズレが影響しているのかもしれなかった。また、そう考えることで、和解のチャンスが見出された:

 

 フーコーは、あるドイツ人のインタヴュアーに「理性と拷問は同義である」と述べた時、「常軌を逸している」と論難するインタヴュアーにたいしてフーコーは、フランス語の「理性 レゾン」は、ドイツ語の「理性 フェアヌンフト」と異なって「倫理的な側面をもたない〔…〕道具的で技術的な次元に位置する」と説明した。そして、「われわれフランスにおいては、拷問とはまさに理性なのである。しかし、ドイツでは拷問が理性たりえないことは、私も十分に理解している」と。(pp.177-180.)

 

 

『重要なのは、彼らの政治に対する道徳的論点の表現のしかたが根本的に異なっていたにもかかわらず、また、戦後の憲政秩序への彼らの評価が基本的に合致しなかった民主主義の現状での到達地点を、ハバマスフーコーよりもずっと肯定的に評価している。――著者註〕にもかかわらず、ハバマスフーコー実践上の結論がしばしば類似したことである。

 

 それ以外の点でも、モダニストとポストモダニストは〔…〕新自由主義 ネオリベラリスムという『共通の敵に対して、徐々に手を組むようになっていった。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.181. .  

 

 

ミシェル・フーコー、1984年5月。同年6月25日エイズで死亡する直前。

©BANCILHON/AFP/Le Monde. フーコーはエイズの存在を否定

していた:「きみたちアメリカ人は、いつも病気を発明するね。

今度は同性愛者しかかからない病気だなんて。たまげた話だ!」

 

 

 

【74】 新自由主義の抬頭、ソ連社会主義圏の崩壊 

 

 

 さて、長かった本書も残すところ 40ページあまりとなりました。このあとの大きな塊りは2つ:❶ 新自由主義 と ❷ 東欧社会主義圏崩壊期の反体制思想 ですが、❶は飛ばします。「新自由主義 ネオ・リベラリズム」は、1980年代の米国レーガン政権・英国サッチャー政権で採用されて抬頭しましたが、その源泉は、 ハイエク,フリードマンらの反ケインズ経済学、 オークショットの反合理主義・反福祉国家思想で、本書では  に重点を置いています。しかし、オークショットの政治思想は、これまでに見てきた「ポスト・モダン」の反合理主義やハイエクの福祉国家批判の組合せと言ってよいもので新鮮味がありません。なので飛ばします。


 そこで次回は、本書さいごのピークである社会主義圏崩壊期の反体制思想にアプローチします。
 

 

 

 

 

 

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