マルグレート・ホーフハインツ=デーリング『ろばたち』1966年。
Margret Hofheinz-Döring, Eselchen. ©Wikimedia.
【65】 西側の「1968年」―― イタリアの「長期持続」
『イタリアは、〔…〕戦後ヨーロッパの政治思想』に『独自の地位を占めている。下から急進的な民衆運動がこれほど多く立ち上がってきた国は他にない。いずれも、頂点において絶え間なく続いた保守支配〔「キリスト教民主党」の万年与党政権――ギトン註〕に対抗するものである。しかし、イタリアの 68年はまた特別であった。社会的反乱が、イタリアほど多種多様に誘発されたところは他になかった〔…〕。「異議申し立て」は長引いて 1970年代の終りまで続き、きわめて豊富な〔…〕急進的政治思想を立ち上げさせた。〔…〕68年以後の反権威主義の政治言語が・階級闘争の古い語彙と持続的な形で結びついたのは、イタリアでだけだった〔…〕
イタリアでは、1970年代の異議申し立てのほうが 68年よりも広汎な大衆現象となった』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.121,125.
「イタリアの左派は、〔…〕[二重国家]と呼ばれるようになる危機と対峙していた。公的・合法的な政治制度と並んで、どんな手を使ってでも〔…〕イタリアを共産主義から守ろうと望むさまざまな秘密組織の闇の世界が存在していたのだ。極右政治組織の企」てる「黒いテロ」は「左右対立の両極化をさらに悪化させ」、極右の政治組織は、その状況を利用して「民主主義を守るためのクーデター」を起こそうと狙っていた。「民主主義を守る」とは、もちろん、「共産主義から守る」ということであり、西ドイツの「戦う民主主義」のイタリア版を打ち立てようと彼らはもくろんだ。そのためには、ドイツと違ってイタリアのように左翼諸派が強い状況では、ド・ゴールよりも徹底した「権威主義的=官僚制的大統領体制」を、クーデターによって樹立する必要がある、と彼らは考えた。それは、イタリアに限らず「戦後ヨーロッパの多くの右派思想家」の考えでもあった。
「イタリアの左派にとって、カール・シュミットの」反議会的な “雄叫 おたけ びの民主主義” の「思想が俄然重要になったのは、この文脈においてである。」グラムシの用語で言えば、戦後イタリアの「若いシュミット的マルクシストたちは」、ユーロ・コミュニズムに立つイタリア共産党トリアッティ党首の・いつ終わるとも知れぬ「陣地戦」ではなく、「機動戦」を望んだ。「彼らは、ドイツ人の場合よりも徹底的に、国家の完全破壊を要求した。そうして、アナーキスト的な全面反乱戦略に回帰した。」グラムシによれば、「機動戦」つまり「実際の政治闘争・が開始される前に」、「陣地戦」つまり「文化の征服」を・できる限り進めておくことが、勝利の条件であった。しかし、イタリアの 60-70年代の左翼の若者たちには、そんな忍耐は無かったのだ。
左翼の「全面反乱」に対して、イタリアの永久与党政権は、「徹底的に非自由主義的な〔…〕効率的なやり方で対応した。」1978年に首相が「赤い旅団」のテロで暗殺されると、「[自律]運動の理論家たちの大量逮捕と投獄」が続いた。アントニオ・ネグリは、「赤い旅団」の指導者だとの容疑、および「国家反逆罪」で起訴され、前者は濡れ衣だったので無罪になったが、「国家反逆罪」は有罪になった。
他方、「ユーロ・コミュニズム」の合法・議会主義戦略をとっていた「イタリア共産党」は、テロの嫌疑を受けることはなかったが、「民主的合法性の擁護者」「憲法の楯」となり、政府の味方をして「テロリスト」左翼と闘った。その結果、イタリアが戦間期の「赤いウィーン」の破滅の二の舞いを演じることは避けられたが、共産党が「腐敗した国家の楯となったツケ」は大きかった。1980年代になると、同党は急速な支持率低下に見舞われた。
「ユーロ・コミュニズム」は、ソ連社会主義への幻想が消えた時期に、それに代わって「ヨーロッパの左派の間に希望を生み出した」が、「この希望も」まもなく「空中に消える運命」だった。
イブラヒム・エル=サラヒ『子供時代の夢から蘇った響き・1』1961-65年。
Ibrahim El Salahi, Reborn Sounds of childhood Dreams. ©Ibrahim El Salahi.
【66】 西側の「1968年」――
フェミニズム、そして忍耐。
「68年」を、マクス・ウェーバーの古い自由主義的観点から見直してみることも無意味ではない。じっさい、それは、「68年」を同時代の保守派や「反全体主義」自由主義派が見た観点でもあった。「学生たちは〔…〕議会主義を蔑視」していたが、それは 「1920年代の極左と極右」が追求した「破局への道」と異ならなかった。「68年」の「異議申し立て」者の「自発性と[直接経験]〔…〕重視は、ウェーバー的な責任倫理に真っ向から対立するように見えた。」それと同時に、「技術のような非人格的な力の支配は、」それに反発する「見かけ上の解毒剤として、高度の興奮させる主観的文化をつねに呼び起こす」というウェーバーの指摘の正しさも確証されたように見えた。
しかし、彼らもウェーバーもまったく予期していなかった長期的変化が、「68年」から、直接すぐに・ではなかったが惹き起こされた。たしかに、「社会的文化的変容」が徐々に表面化した。「とりわけ、[自己実現]という表現に見られる疑似絶対自由主義的 リバタリアン 言説」が登場した。「自己実現に対する主要な制約」と見なされるようになった「伝統的家族」が、「ヨーロッパのいたるところで〔…〕批判されるようになった。」
それと同時に、議会と政党にかんしても、議会外の諸運動体にかんしても、およそ「大衆的・集団的な政治行動」というものにたいする信頼が薄くなっていった。「社会は、〔…〕大衆的政治行動によって〔…〕集団として自己を変革する能力をもつ・という信念が、広汎に薄れていった。集団としてよりも、むしろ個人の変容こそが重要であった。」つまり「政治的なるもの・という伝統的な概念に疑問」が投げかけられ、「公的なものと私的なものの間」の「イデオロギー的バリケードは引き裂かれ」、個人の「日々の経験が〔…〕政治的なものとされるようになった。これはまさに[状況主義者]が望んでいたことである。」
こうして徐々に到来したのは、「通例の政治革命の類」などではなく、「価値と文化の革命」であった。「主要な政治制度」には変化が無かった。(pp.131-135.)
その点で、『最も重要な真の革命は、疑いなくフェミニズムであった。あるいは、初期の〔…〕選挙権闘争のフェミニズムとの対比で「第二波フェミニズム」と呼ばれるものである。合意の政治は父権的であり〔…〕家父長主義的であった。女性が選挙権を手に入れても、この事実を大きく変えるには至らなかった。〔…〕狭い意味での 68年』も同様だった。『「学生運動の指導者」は男の指定席であり、女性は彼らのためにお茶やコーヒーを淹れ、ビラのコピーを印刷する存在であった。彼らは〔…〕女性を〔…〕賑わい要員として欲しがったのであり、「社会主義的性交義務」〔…〕については言及にも価しない。たとえば、ヨハネス・アニョーリの妻〔…〕は、朝5時に起きて娘の面倒を見、それから理論家のために朝食を用意した。〔…〕
左派の女性たちが自分たち自身でことを行なう必要を悟った時、ついに解放が始まった。〔…〕フェミニストたちは、大きな社会主義運動の内部に「婦人問題」を含めることはもはやできないと確信した。社会主義運動のなかでは、〔…〕つねに男性の利益が優先され』たからである。〔日本でも、たとえば労組の連合体の大会に集まる活動家たちは、大会の議論よりも開催地の色街訪問が主な目当てだった――ギトン註〕『既成の理論は役に立たないどころか邪魔になる〔…〕。主眼は、女性の解放が、〔…〕階級分析の枠のなかで搾取と抑圧の既成の理論に基いて展開されるべきではない、という点にある。〔…〕
フランソワ・ガルニエ〔1914-1981〕『レスボス』。
François Garnier, Lesbos. ©Wikimedia.
新しいフェミニズムが、変革に向けて具体的で合法的な戦術に焦点を当てるようになった』時に、『運動はより直接的な成果を挙げるようになった。1970年代には離婚法の改正(あるいはイタリアのように〔…〕初の導入)が行なわれたし、〔…〕妊娠中絶禁止が緩和もしくは事実上廃止された〔…〕。このようにしてフェミニズムは、かつてオーストロ・マルクス主義におなじみだった予期的または予想的な政治活動の概念を再活性化した:〔…〕国家がまだ社会主義に至っていなくとも、家族や個人的なことでの社会的革新は、いま・ここで実現すべきだ、という考え方である。〔…〕
68年とその余波とともに、国家の権威〔…〕は厳しい批判に晒された。「自己満足した保守派と、くたびれた自由派と、幻滅した急進派」〔C・ライト・ミルズ〕に共有された「合意の政治」は、そのエリート主義的でトップダウンのやり方のせいで非難を浴びることになった。人びと ピープル は代表されるだけでなく参加することも望む、と 68年世代は主張した。〔…〕
国家と、さらには憲法さえもが、これらすべての危機を生き延びた。にもかかわらず、決定的に変ったもの〔…〕は風俗であった。ウンベルト・エーコ〔イタリアのベストセラー作家。『薔薇の名前』『フーコーの振り子』など――ギトン註〕が指摘しているように、「〔…〕ボスと労働者、学生と教師、さらには子供と両親の関係が開かれたものになった。それらは二度と同じものには戻らないだろう」。〔…〕68年は「文明の危機」(と同時に政治的代表の危機)〔…〕であ〔…〕った〔…〕。そしてその危機は、文明内部の変革によって〔ギトン註――国家政治体制を変えることなく〕解決されたのである。〔…〕
68年(とその余波)は、戦後の基本的な憲政秩序が、文化の自由化と両立できることを実地に示した〔…〕。制度的な政治変革など、それ以上の変革をめざす人びとに〔…〕は、〔…〕2つの徳が残され〔…〕た。すなわち、反語 アイロニー と忍耐とである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.135-137,139-141.
【67】 ルーマンとハバマス
「『民主主義の危機』とは、1975年に出版され〔…〕た[民主主義の統治能力についての三極委員会の報告書]の標題である。」サミュエル・ハンチントンら保守的な社会科学者が中心となって執筆したその『報告書』は、「民主的統治の暗澹たる未来」の到来を憂えていた。それというのも、「あまりに多くの人びとが、あまりに多くのことがらを統治から得」ようと望むだけでなく「過剰なまでに統治に参加することを望」んでいるために、政府は「過重負担」によって機能不全に陥るというのである。
こうした懸念の背景には、① 1973年の石油ショックによる「奇跡の経済成長」時代の終焉と「スタグフレーション」時代の到来、② テロリズムの成功が、「暴力の独占」という近代国家の属性に向けた攻撃、およびテロリズムの鎮定後も打ち続く「直接的な政治参加」を求める反政府的な社会的動員に対する憂慮があった。「1970年代の半ば」には、「西側世界がきわめて厳しい危機に襲われているという意識は頂点に達していた。」ハンチントンらの『報告書』は、「ヨーロッパ諸国が[統治不能]になるかもしれない」と述べた。
マルグレート・ホーフハインツ=デーリング『待伏せする猫』1969年。
Margret Hofheinz-Döring, Katze auf der Lauer, Pastell. ©Wikimedia.
ところが、「1980年代後半」には、支配的論調はがらりと変わる。「フランシス・フクヤマ〔アメリカ合州国の政治学者。『歴史の終焉』で、自由民主主義国家と自由市場経済が人類進化の最終形態だと主張した〕が唱えた自由主義の勝利宣言、もしくはハイエクのような弁護人による資本主義のあからさまな擁護へ、あるいはレーニン主義的な政治モデルの信用の決定的な失墜へと〔…〕転じていった」。その間に、ソ連・社会主義圏の崩壊という政治的変化があったことは事実だが、思想界では何が変化したのか?
たしかに、「新自由主義〔…〕の主たる提唱者のハイエクとフリードマンら」は 70年代にはすでに「知的言説において支配的地位を獲得し」ていた。が、社会理論において、西側政府に都合の良い転換の立役者となったのは、西ドイツで 69年に開学した新設ビーレフェルト大学の教授に迎えられたニクラス・ルーマンであった。
「三極委員会」の上記『報告書』が、とりわけ警鐘を鳴らしたのは、政府に対して「深刻な異議申し立て」を行なう知識人たち、彼らの唱導に追随し「既存の制度の仮面を剝がして正統性を奪」おうとする「敵対的な文化」の抬頭に対してだった。そして、それら不都合な人びととは対照的に、「敵対文化 アドヴァーサリー・カルチャー」に組みすることのない「技術者支配的 テクノクラティック で政策志向的な知識人」の役割に、『報告書』は期待していた。ルーマンは、この期待を最も強力に支援する擁護者であった。彼は、「政策過程というもの」は「広汎な政治参加から遮断されるべきであり、もっぱら官僚に委ねられるべきだという点について、最も一貫し洗練された理論的正当化を提供したからである。」ルーマンが就職した「ビーレフェルト大学じたいが、60年代の技術者支配的な楽観主義を具現化した存在だった。」
ルーマンは、西ドイツ「ニーダーザクセン州の公務員」だったが、「奨学金を得てハーヴァード大学に留学し」、タルコット・パーソンズに師事した。「パーソンズはウェーバーをアメリカの学問世界に紹介した」社会学者であり「ウェーバーの多くの考えを定式化させ体系化させた」社会理論を公けにしていた。しかしルーマンは、この先達2人の「中核的な洞察のひとつ」を取り上げて、それを一面的に「極端に推し進めた」図式を自説とした。
ルーマンは、「近代社会」は、「社会自身の論理〔…〕に応じて稼働する[複数のシステム]〔たとえば、経済,芸術,政府〕に次々に分化していくことで、つねに進化しつづけるものであると論じた。」したがって、「あるシステムによる別のシステムへの干渉は、どんなものであれ」有害であり「直ちに逆効果を生み出す。」「政治が経済を支配しようと」した社会主義の失敗は、その顕著な例である。また、「政府が、国家行政システムの外部」の「価値」〔イデオロギー的,人道的,あるいは宗教的価値〕を実現できるなどと考えること自体がナンセンスである。
したがって、「ルーマン理論の結論は、政府の仕事」は国民でも君主でもなく専門的な「政治家に、究極的には官僚機構に委ねるべきだ」ということになる。逆に、「もし政府が、自らの良心のみに従う社会運動活動家〔…〕の誤った要求や、彼らの」大衆的「政治参加への幻想に応じてしま」うならば、「近代社会に多大なダメージを与えることになる」。
「信条倫理に関するウェーバーの批判から着想を得たルーマンのこのような」主張には、しかし、ウェーバーには無かった・社会運動家へのカテゴリックな侮蔑〔※〕が付加されている。
註※「ウェーバーと社会運動家」: ウェーバーは例えば、ミュンヘンのレーテ(労農評議会)活動家として逮捕されたタラーのために、証人として出廷し弁護した。ルカーチら多くの左翼知識人をサロンに迎えて議論したこともよく知られている。
エーミル・F・カステン『対話Ⅱ、スケートをする氷の悪魔と』1968年。
Emil F. Karsten, Dialog II mit Schlittschuhlaufendem Eisteufel. ©Wikimedia.
「ルーマンの理論には、さらに〔…〕不穏な教訓が含まれていた。それは、政治(および国家=統治機構)には〔…〕重要性は無い、というものだった。政府は、社会全体の[舵を取る]ことなどできない」。なぜなら、国家あるいは「政治」とは、「専門化された自足的な〔…〕[システム]」にすぎないからだ。たとえば、国家が「経済システムを改革するなどということは不可能」である、と。つまり、ウェーバーとは違って、「ルーマンの理論では」、「政治」には「意味を生み出す役割は〔…〕与えられておらず、公共空間が、[崇高な諸価値]の発祥地となるチャンスは無かった。それどころか、[いくつもの社会を統合する]市民的宗教やイデオロギーといった包括的な信条体系は」不要であり、むしろ有害なのであった。
ルーマンの理論は、「経済と政治への期待が先細りした時代」、「社会計画の理想」が信用されなくなり・それに代わって「社会進化の理論」が需要されるようになった時代に、――「なすべきことは何か」ではなく、「そうでしかありえない姿」で「物事はあるのだ」との諦念を説教するメッセージなのであった。
ルーマンの最大の論敵は、「フランクフルト学派の」批判理論の「傑出した継承者であるユルゲン・ハバマス」だった。「ハバマスは、68年の学生反乱とは距離を置い」たが、「国家行政や経済を民主化することにたいして、望みを抱きつづけ」た。彼は、「啓蒙主義」的な「進歩の思想」を支持しつづけたと言える。「ハバマスは、〔…〕1970年代に誕生した環境保護やフェミニズムの社会運動にとって、最も重要な哲学者となった。」(pp.145-152.)
『ハバマスは、彼が「生活世界」と呼んだ、家族や他者と人格的につながる親密圏、および市民社会を、経済や公行政の特徴である手段・目的論理――もしくは冷徹な戦略的思考――から守らなければならないことを強調した。ハバマス』によれば、『市場と国家は、「生活世界」をつねに「植民地化」する傾向にある。公共空間のなかで、社会運動と、とりわけ知識人は、このような植民地化に対抗できる存在であり、そうすることで・おそらく漸進的な脱植民地化〔…〕が達成できる。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.151. .
ルーマンとの論争のなかで、ハバマスは「ルーマンの理論の多くをやがては自らの思索のなかに組みこんでいった」。ところが、それによってハバマスは「経済と国家行政のさらなる民主化という野望を〔…〕諦めてしまった」ように見える。それに代わって、いまやハバマスにとって「望みうる最良のもの」は、「国家という城塞の周りを恒常的な包囲網」として「取り囲む活発な公共圏,油断のない報道,そしてそこから生じる精力的な公論、といったものであ」る。「この構図は、国家に対抗する活動家や社会運動家に正統性を付与する一方、国家という要塞そのものは攻略できないし、すべきでもない、という別の合意」が、「ひょっとするとより明白に」そこには窺えたのである。(p.152.)
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