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広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像。7世紀。 京都・太秦の広隆寺に「弥勒半跏思惟像」

(木造)は2体あるが、こちらの像は、朝鮮半島からの渡来とする説が有力。

 

 

 

 

 

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【15】 中国仏教の拡散と習合 ――

新羅の「護国仏教」と習合仏教

 

 

 百済仏教は、中国・南朝に倣った貴族仏教であり、『涅槃経』の「仏性・如来蔵」思想を尊重し、周囲に忤 さから わないことを良しとする穏やかな〔悪く言えば現状追認で消極的な〕宗教性を特徴としていました。また、「天神降臨」の在来信仰と習合した「弥勒下生」信仰が見られました。このような百済仏教の特色は、飛鳥時代の倭国に伝わった「弥勒菩薩半跏思惟像」(広隆寺蔵)↑ によく表れています。

 

 これにたいして、新羅仏教の特色は「護国仏教」にあります。「弥勒」信仰も、新羅では、武人である「花郎 ファラン」の民間信仰と習合していました。

 

 「朝鮮半島の南東部に位置し、中国文化の導入が最も遅れていた新羅は、〔…〕高句麗の仏教が先ず民間に入っている。新羅」の王室が「仏教を正式に受容するのは」法興王〔514 - 540〕である。公式的導入の目的は〈王権の強化〉にあった。「聖骨 ソンゴル」「真骨 チンゴル」と呼ばれる有力貴族〔※〕間の「合議が伝統であった新羅において、法興王が仏教を導入して王権の強化をめざしたため、貴族たちが反発して騒動となった」こともあったようである。

 ※註「聖骨,真骨」: 「骨 コル」は、日本語の「郡 こほり」と同語源で、集落を意味する。つまり「聖骨,真骨」とは有力集落の支配者で、新羅は、各地域の支配者が集まった連合政権だったようだ。これに、下属官人の位階である「品」を加えて「骨品制」という。

 

 

 法興王を継いだ真興王〔540 - 576〕には「国民の出家と仏教信仰を許可する命令を出し」〔実質は、僧侶の国家管理と免税特権付与であろう〕、高句麗から来た僧恵亮を「初代の僧統に任命し、僧官制度が整えられた。」

 

 王は恵亮に、中国の擬経である「『仁王般若経』による百座法会を行なわせて護国を祈らせ、隣国との戦いで戦死した兵士たちのために 7日間、八関斎を催し」た。「八関斎」は、国家行事として高麗まで引き継がれていった。

 

 「山神に擁護されて隋に渡」ったとされる留学僧円光566 - 649〕は、「新羅に帰国後」2人の「花郎」の若者から戦陣での心得を問われた。仏教の教えは刹生を禁じるなど、厳しすぎてどうしたらよいか解らないというのだ。円光は、

 

 「親に仕えるにはによる。

  君に仕えるにはによる。

  友と交わるにはによる。

  戦いに臨んでは退かない。

  刹生は選んでする。」

 

 との「世俗の五戒」を与え、「[刹生は選んでする]とは、子をはらんでいる時期の動物・家畜・小動物の刹生や、数多くの刹生は避けることだと教えた」。「2人は、これに従って戦い、功績を立てたという。」

 

 最後の項以外は、仏教とは関係が無さそうですが、新羅の初期の仏教は、このように儒教や「花郎道」〔武人の倫理〕と習合したものだったことがわかります。

 

 のちのちに「韓国仏教の特色となる護国仏教山神の信仰、風水などの要素が〔…〕現れている。山神については、のちに虎が神とされて」寺院の「本堂の後ろには山神閣が建てられ」るようになり、現世利益信仰の中心となる。虎を山神とする信仰と仏教の習合は、高句麗の民間信仰にも見られた。4世紀末に中国北魏から高句麗に来て仏教を弘めた曇始について、〈[北魏廃仏]の際に虎のいる檻に入れられたが、虎をなつかせて皇帝を驚かせた〉との伝承が記録されている。(pp.126-129,68.)

 

 

檀君神話」は、高麗『三国遺事』に記された建国伝承。

天帝の子・桓雄は、神檀樹の下に降臨し、洞窟に住む

教化して、人化した熊女とのあいだに生まれた檀君王儉が平城

に古朝鮮王朝を開いたというもの。『古事記』の天孫降臨

神話に対応する。©facebook.com/MythicHeroesTW.

 


 

【16】 中国仏教の拡散と習合

――「統一新羅」仏教のユニークさ

 

 

 「新羅は、仏教を振興したころから国力を増し」半島を統一する。儒教や土着信仰と習合した弥勒教である「花郎道」・によって武人を養成し、「護国仏教」によって王権の強化をはかった新羅は、の侵入を利用して百済,および倭国の派遣軍を撃滅し663年〕、676年には軍をも破って韓半島中・南部〔平壌以南〕を統一した。

 

 統一新羅668 - 900年〕仏教は、基本的に統一以前の新羅仏教の特色を引き継いでいるが、百済の領土を併合したので同地の民間仏教信仰も流れこんだようだ。たとえば〔百済由来の↑広隆寺・弥勒半跏思惟像のような〕「菩薩の半跏思惟像の作例が増え、とくに金銅像には深い精神性が見られる。」

 

 しかし、それ以上に重要な変化は、統一前後の新羅では、中国に留学し・中国でも新羅でも活躍する僧たちが輩出したことだ。元暁617 - 686年〕義湘625 - 702年〕などは、中国仏教史でも重要な役割をしている。中国仏教との関係は、一方通行ではなくなっている。


 元暁は、仏は「無諍 むじょう〔争わない〕であるとして、「経論に見えるさまざまな説は〔…〕矛盾せず会通 えつう しうる」と説き、その根拠として、「諸説を盛り込んで根元的な[一心]のうちに統合する『大乗起信論』」を、「大乗経典中の最上の論」であるとした。「会通」とは、「異説を、矛盾のないものとして説明すること」。『大乗起信論』の思想は、つねに揺れ動いて生々滅々する人間の心と、言葉を超えた不動の真理とが、根元的な「一心」のうちには含まれているとし、そのような「衆生心」〔人々の心〕こそが「大乗」の本質にほかならないと説く。「仏性・如来蔵」の思想を突き詰めたものと言えます。元暁は『大乗起信論』に基いて、「能力の低い者、さらには仏を疑う者ですら極楽往生が可能であると論じ」ています。阿弥陀仏の念仏行も、『大乗起信論』が勧める修業の一つです。

 

 義湘については、すでに中国「華厳宗」のところで取り上げましたが、修業の出発点である「衆生」と帰着点である「仏」の同時性・無差別性、修業→成仏→涅槃→修業→‥‥の無限循環を図示して、各事象が全事象を含みこむ『華厳経』の「重重無尽」の世界観を、眼に見える形で表現しました。新羅に帰国後は、「慶尚北道に浮石寺を開き、華厳宗を広め」ています。また、『華厳経問答』では、「自分が将来成る仏こそが、自分を修業させてくれる近しい仏だ」として、「わが身の内に法身〔潜在する真理〕として存在する」仏を礼拝すべきとする「自体仏」の思想を述べています。


 このように、新羅仏教は、学派の常道とは異なる見解であっても・臆せずに展開してゆくユニークな思想家たちを生み出したのです。

 

 

慶州・石窟庵、金銅阿閦(阿弥陀)如来座像。 統一新羅時代、774年。  ©klook.com.

 

 

 新羅仏教は、習合的な民間信仰色の強さ、詩歌・芸能との結びつき、「花郎道」「風水説」,シャーマニズムとの結びつきも大きな特色となっています。

 

 「新羅では、弥勒信仰とともに阿弥陀仏の西方浄土信仰がさかんだった。」僧侶らが「凡夫往生を重視した注釈を書いている」が、新羅の浄土信仰の特色が・より明らかなのは、新羅語による「情緒的な[郷歌 ヒャンガ]」による民間仏教だ。たとえば:

 

 

『西の方にいま月は向かわれますのか

 無量寿仏〔※〕にお伝えくださいませ

 唱えるは 願往生 願往生

 かく念仏する者を残して行っては

 四十八願〔★〕は叶いますまい』

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.165. .  

 ※註「無量寿仏」: 阿弥陀仏に同じ。

 ※註「四十八願」: 阿弥陀仏が・仏となるための修業にあたって立てた 48項目の誓約。第18願に、念仏する者を一人残らず往生させること。

 

 

 と月に訴えかける「願往生歌」がある。新羅の仏教は、宮廷でも民間でも、芸能との結びつきが顕著で、「僧尼〔…〕居士 こじ の姿をした仏教系芸能者の活動」が目立つ。「日本の琵琶法師の源流となる琵琶居士 びわこじ」もいた。これは、中国・で「西域渡来の琵琶を弾いて『法華経』を誦」した「盲目の芸人」からの流れで、唐→新羅→日本と・題材を変えながら引き継がれた遍歴芸人の流れがあったと見ることができる。

 

 「戦死した兵士の慰霊のために新興王が始めた八関会 はっかんえ」は、統一新羅の宮廷でも盛んに催された。「八関会」は本来は歌舞禁止だが、新羅では「さまざまな音楽・芸能」を伴なった。

 

 「花郎」は、「青少年の学問と武芸の修養集団」で、しばしば「弥勒」の化身とされる少年の周りに集まった。彼らのなかから、新羅王朝を支える武人が育っていった。「花郎道」には、「儒教,仏教,道教」,新羅「固有の天の信仰などが習合していた。」8世紀のある伝説では、「太陽が2つ並ぶ異変が続いた際〔…〕異変を収めるために宮廷に召された」僧月明は、自分は「花郎」なので読経の代わりに「郷歌」を歌う、と言って即興の「兜率歌」〔弥勒菩薩が主宰する「兜率天」の歌〕を歌うと、異変は収まったという。


 代の中国で盛んになった禅宗も、統一時代の新羅に伝えられた。全羅南道・智異山の実相寺が、最初の本格的な禅寺として開かれた。しかし、「九山禅門」と称された禅宗全盛の時代を迎えるのは、つぎの高麗王朝のことである。(pp.157,162-168,95-96,142-143,105.)
 

 

 

【17】 中国仏教の拡散と習合 ――

飛鳥朝と「百済/蘇我氏」の刻印

 

 

 6世紀初めまでに朝鮮半島から倭国へ移住した人びとのなかに在家仏教信者や還俗僧がいたことは間違えない。しかし、仏教が公式に伝えられたのは6世紀半ばで、538年説〔上宮聖徳法王帝説・等〕と 552年説〔日本書紀〕がある。いずれも、百済聖王〔日本では「聖明王」〕が欽明天皇に伝えたとする。当時の半島は「高句麗・百済・新羅の三国が争う状況」で、百済は倭国朝廷に「軍事的支援を望」んで仏教を伝えたのだという。当時の東アジア周辺諸国では、仏教を伝えることは「文明」知識を伝えることであり、建築・冶金・農業などの技術を伝えることにほかならなかった。

 

 

海石榴市(つばいち)」の故地に立つ「仏教伝来之地」碑。奈良県桜井市金屋。

 

 

 仏教伝来の受け手となったのは大臣家の蘇我氏で、「百済と強い結びつきを持っていた。」仏教受け入れのために蘇我馬子は、渡来人のなかから還俗僧を探し出して指導者とし、同じく渡来人から募った3人の娘を尼とし、「弥勒像を祀らせている。〔…〕仏像を祀らせた主な理由は〔…〕天皇の延寿や治病のためだったろう。」

 

 百済から最初に伝わったのが弥勒信仰だったことは注目されてよい。最初の聖職者として選ばれたのが「3人の尼」であったことも、仏教を迎えたヤマト側の信仰基盤を示している。尼を、「神に仕える純潔な巫女 みこ のように見なしていた」のだ。それは、仏教受容の反対者が行なった行為から逆に推し測ることができる。物部守屋の一統は、蘇我邸から「3人の尼」を拉致し、人の集まる市場〔現・桜井市の「海石榴市」〕で裸にして辱めたという〔日本書紀〕

 

 蘇我の一族である推古天皇と厩戸皇太子の即位〔593年〕は、仏教受容の是非をめぐる「蘇我・物部内戦」の勝利の結果だった。翌年、推古は「興隆三宝の詔」を出し、群臣は「君親の恩」のため「競って仏舎を造」ったと『日本書紀』には書かれている。

 

 「詔」には、「君親の恩」に報いるために仏堂を建てよと書かれていたことになる。「[恩」とは[おかげ]の力を意味する。〔…〕造寺造仏の功徳によって」君主や親の権力を増大させ・自分がその「おかげ」を受けられるようにし、君主・親がタヒんだ後は「生前の恩義に感謝して追善に励む」。仏教信仰は、「君への義、親へのに努めていることを周囲に示す行為にほかならず、しかも強制的なものだった。」

 

 ここには、日本での仏教信仰の重要な特性が現れています。仏教信仰は、「」という儒教道徳の外面的表現として追求されたのであり、それは周囲の社会から強制される義務なのです。そのような仏教の強制力・強迫力は、推古厩戸,馬子ら蘇我氏が反仏派を刹戮して樹立した強大なクーデター権力〔親仏派内の不服分子である崇峻天皇も暗殺された〕によって、ヤマトの人々の心に深く刻まれ、やがて全倭国人の心性に刻印されたのです。

 

 造寺については、この初期において伽藍を造営できる技術と労働力を持っていたのは、天皇,皇族,蘇我氏に限られていました。蘇我馬子が建立した法興寺豊浦寺厩戸皇子の法隆寺が主なものでした。これら「初期の寺は、交通の要所に建てられて、高い塀」をめぐらし、「有力な豪族たちを威圧すると同時に、城砦の役割も果たしていた。」

 

 つぎに 604年、厩戸皇子は「十七条憲法」を発布して、群臣に服従倫理を浸透させた。その第1条に「和を以て貴しと為し、忤 さから ふこと無きを宗 むね と為せ」とある「無忤」は、「6世紀の百済の仏教学の主流」が重んじた徳目で、「周囲と衝突しない穏やかな〔…〕ふるまい」を意味する。その元をたどると、『成実論』に基く・中国南朝梁・陳の大乗経典研究派に行き着く。厩戸の著作『三経義疏』〔『法華経』『維摩経』『勝鬘経』のコメンタール〕「まさにそのの三大法師の注釈〔…〕を種本とし」、それらからの抄録に厩戸の考えを変格漢文で付け加えたものにほかならない。(pp.129-131,126.)

 

 

法興寺(飛鳥寺)」、596年創建、奈良県明日香村。蘇我馬子の発願で建立され、創建

時には3つの金堂が塔を囲み講堂と回廊を具える大伽藍だった。645年「乙巳の変

(大化改新)」では、中大兄皇子は法興寺に兵を集めて蘇我館襲撃の戦備を固めてい

る。飛鳥・白鳳時代の寺院は要塞を兼ねていた。現本堂は1826年再建。

 

 

 

【18】 白鳳朝 ―― 仏教の「天皇主導」と

国家的「神祇信仰」の成立

 

 

蘇我氏に擁立されて即位した舒明天皇は、斑鳩に近い地に、百済川を挟んで向かい合う形で百済大宮と百済大寺〔のち移転して「大官大寺」となる――ギトン註〕を建立した。百済大寺は、天皇が建てた最初の官寺だ。

 

 〔…〕645年、中大兄皇子は〔…〕大臣の蘇我入鹿を宮中で暗殺すると、ただちに蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を占領して『城塞とし』戦闘を準備した。結果的に蘇我本宗家を滅亡させた。即位した孝徳天皇は、蘇我氏が主導してきた仏教を、今後は天皇が主導することを宣言した。

 

 天皇による仏教主導をさらに進めたのは〔…〕天武天皇だ。天武天皇は仏教統制を強めると同時に諸国に〔…〕僧侶を派遣して護国経典である『金光明経』と『仁王般若経』を講読させ』、仏教の地方への普及をはかっている。


 天武天皇は、薬師寺を建立したことが示すように『薬師経』を尊重していた。これは、国家的な神祇信仰の確立とも関係している。天武天皇は、神々の宮を諸国に建設させ、天下の罪を祓い清める「大解除 おおはらえ」の儀礼を行なわせて』いる。『大解除は、中国の民間信仰の要素を含む〔…〕日本の「祓 はら え」に、罪障の抜除を説く『薬師経』の内容を重ねて創り上げた儀礼だ。天武天皇は、寺域を清浄に保つよう命じており、日本仏教がけがれを嫌うようになる一因を作った。』

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.168-169. .  

 

 

 こうして、中国で・度重なる「廃仏」を招いた仏教界の反省から生まれた懺悔――悔過 けか――と滅罪の行 ぎょう は、日本に伝わると、「けがれを祓い清める」という呪術的儀礼に変質し、しかもそれは、「護国」「国家の安泰」のための儀式,および僧侶・信徒の心得として、仏教界の内部からではなく、上から命じられて実行されるようになるのです。


 そして、日本の寺院仏教の・こうした特質が形成されたのは、国家的神祇信仰の成立と同時であったことにも、注意する必要があります。

 

 

 

 

 

 

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