麦積山 第22窟 正壁 如来坐像。 北周。 甘粛省天水市麦積区(西安と
蘭州の中間)。 北周武帝の「廃仏」以後に成立した「北周様式」。
飾りけの少ない「武将的な簡素な造像」と端正な顔立ちを特徴と
する。 『天水麦積山』。©avantdoublier.blogspot.com.
【12】 「三階教」と「宗派」の発生
「近世以前の中国仏教は、繁栄と廃仏の繰り返しだった。」
たしかに、「北魏の廃仏」〔440 - ca.451〕は、当時の仏教界の堕落した状態が弾圧を誘ったとも言えます。その意味で、弾圧は仏教にたいする為政者の失望と敵視に基いていました。
が、北朝の「北周」王朝で起きた「廃仏」〔574 - ca.578〕は、仏教そのものを敵視したのではなく、国家財政を潤すことが目的だったと言われます。じっさい、僧侶は「北魏の廃仏」のように刹されたわけではなく、還俗 げんぞく を強制された。「仏像や経典は破壊され、〔…〕4万の寺が普通の家に改められ」た。つまり、僧の免税特権の剥奪と寺院財産の没収に目的があったと見られるのです。
それでも、仏教側は「廃仏」を反省の機会とし、新たな教義を展開する糸口としました。「北周の廃仏」に前後する時期に、「宗派と呼ぶべき集団が複数生まれた」。
中国仏教で「宗派」と呼ぶべきものが発生したのは、この時なのです。それまでの「地論派」「北道派」「南道派」などは、学派ないし流派であって、指導的な僧のあいだの意見の相違にすぎませんでした。それにたいして、「宗派」とは、一般の信者までを擁する組織的まとまりであり、多かれ少なかれ自派の絶対を主張して争い合う集団です。
「北周の廃仏」を前後して現れた「宗派」には、智顗〔ちぎ:538-598年〕の「天台宗」、「禅宗」、浄土教諸派、および信行〔しんぎょう:540-594年〕の「三階教 さんがいきょう」がある。諸宗派の開祖たちは、「漢訳経典だけに見られる〔インドのもとの経典には無い〕部分や擬経を重視して教理を築き上げている」。だから、「宗派の発生」とともに「中国独自の仏教が確立したと言ってよい。」
「宗派の発生」の背景には、「廃仏」をきっかけとする仏教界内部の自省と内部批判があり、とりわけ、煩瑣な経典解釈や教義の細部をめぐる争いに対する反省がある。逆説的に思われるかもしれないが、各「宗派」は、教義の細分化を克服すべく、それぞれ異なるやり方で包括的な立場を主張して、たがいに争い合ったのだ。
「禅宗は、仏と自分の同一性を強調する動向の一つ」である。禅宗は、「経典の細かい解釈を争う風潮」を否定し、「経典の言葉に惑わされずに真理に入る」ことを勧める。そして、「言葉によってあれこれ分別し」たり「仏を外に求める」妄想を排して、「まわりの事象に心を動かされ」ない境地を求め、「自分と仏は等一であることを会得し」ようとする。
浄土教にかんしては、「末世・末法の[濁世 じょくせ]」である当代にあっては「浄土門だけが実践可能な法門であ」るとし、「一生のあいだ悪業 あくごう を重ねた者でも、臨終時に阿弥陀仏を十念すれば西方浄土に往生できる」と説く点が、諸派に共通していました。しかも、ここで勧められた「念仏」とは、「従来のような・心の中で阿弥陀仏を」観取する「観想念仏」ではなく、「アミダブツ」の名や讃嘆の文句を唱える「口称念仏」であり、こうして易行 いぎょう〔⇔ 難行〕が広められたのです。
「6世紀後半からは、現世では観音菩薩、来世では阿弥陀仏に頼るという役割分担が進み始め」た。また、浄土教と道教の習合も進んだのです。
ここで、仏教の多くの本は、智顗の天台宗に大部分のページを割くのがふつうです。日本仏教に大きな影響を与えた宗派だからでしょう。が、本書では、中国の天台宗はかんたんな説明ですませ、ふつうは取り上げられない「三階教」に、かなりの説明を当てています。私も「三階教」には関心があるので、「三階教」を中心的に取り上げたいと思います。
「中国仏教史上最も特異な派であった三階教では、開祖の信行が菩薩と見なされ〔…〕、熱烈な宗教運動が展開された。」三階教は、「衆生を仏そのものと見なす」点は禅宗と共通しているが、禅宗のように「自己を見つめて仏を見いだす」方向ではなく、現実の世の人びとを仏と見なして崇拝する方向へ向かい、したがって、しばしば集団的な宗教的社会運動を巻き起こしたのです。
麦積山 第62窟 東壁 一仏二菩薩像。 北周。 『中国石窟 天水麦積山』。
武帝「廃仏」以前の作。西魏の「貴族的な雅びな造像様式を引き継い」でいる。
「この窟の如来や菩薩の顔は独特で、開鑿した家族あるいは一族の顔立ちや
喪に服する気持ちへの強い意向が感じられる」©avantdoublier.blogspot.com.
三階教の背景にあるのは、『涅槃経』の「如来蔵」説と、「当時広まりはじめていた〔…〕末法思想」。
北朝では、遊牧民エフタルの襲来〔5世紀半ば〕から逃れてきたカシミール僧がもたらした『月蔵経』の「末法思想」が広がっていました。「正しい教えが行なわれる正法」、教えが形骸化する「像法」、「正しい教えが消滅する末法」の順に世界は凋落してゆくという仏教史観です。三階教はこれらを「第一階、第二階、第三階」と呼んで、現在を「第三階」とするところから「三階教」と呼ばれました。
「第三階」=末法時代「の人々は、能力が劣って」いるので「教えや仏の優劣などは判断でき」ない。「仏菩薩も凡夫も悪魔も区別できない。」だから「一切の教え、一切の仏、一切の人を区別せずに等しく敬うほかはない」。すなわち「[普敬 ふきょう]の実践に努めるよう説いた。」
つまり「三階教」は、当時の中国での「末法」思想の流行〔その元には、エフタル来襲によるインド文化の破壊という衝撃がある〕を背景とする点は浄土教と共通していますが、浄土教のように来世に向かうのではなく、現世での活動に向ったのです。これはたいへん中国的な現実志向です。とはいっても、他の多くの中国仏教宗派のように儒教的な「忠・孝」倫理へと向かうのではなく、むしろ自己の家族・父母・先祖を特別視することなくすべての人びとを無差別に敬う人間観・を根本におきました。こうした信仰の実践が、弱者救済の社会的平等主義に向かうのは自然なことでした。のみならず、無差別の姿勢は教義においても貫かれ、教祖シャカをも例外としない宗教的平等主義を主張したのです。
信行は、釈尊も前世においては「タヒ後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に落ちた」ことがあると述べる『最妙勝定経』を引用している。(pp.107-110,115,121-122.)
『三階教徒は、〔…〕『法華経』の常不軽菩薩に倣い、道行く人すべてを「如来蔵仏」として礼拝した。ただし、自分は如来蔵であると思い高ぶって他の人びとを軽んじることを防ぐために、自分だけは極悪の存在であるとみなし、ひたすら懺悔を行なっていた。
信行は、世俗の権力者たちが僧侶をこき使い、自分を礼拝させることを厳しく批判した。〔…〕三宝(仏・法・僧)に布施するよりも、〔…〕困窮している者や身寄りのない者などに布施するほうが功徳があると説』き、労働を禁止する『僧侶の戒律を捨て、』僧となる前の『修業中の段階である沙弥 しゃみ となり、人々のための労役に努めていた。』そういう『信行を尊崇して従う弟子たちが増えていった。』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.110. .
炳霊寺 第8窟 正壁 如来坐像。 隋。
甘粛省臨夏回族自治州永靖県(蘭州南東の黄河沿い)
『中国石窟芸術 炳霊寺』©avantdoublier.blogspot.com.
北周を倒して南北朝を統一した隋は、仏教を保護してその復興に努め、信行も 589年ころ重臣高熲に招かれて長安に入り、僧俗からなる集団を結成して活動した。これが三階教団に発展する。信行は 594年に亡くなり、遺言により遺骸は長安近郊終南山に運ばれて鳥獣虫に「血肉を供養」した。「信行を菩薩として崇めていた信者たちも」彼に倣って「タヒ後の捨身を行なうようになり」、教祖と信徒たちの骨を埋めた・この地は「三階教の聖地となった。」
終南山は、北周・武帝の「廃仏」以来、仏僧の隠棲の地となっていたが、隋・文帝の仏教復興により、多くの僧が長安に呼び戻された。「以後も終南山は、長安からほど近い山林修業の場として尊重され、諸派の僧侶が」ここを活動の本拠とした。「律宗」と「華厳宗」も、唐代に終南山で創始されている。
生前の信行は「乞食行」に励み、質素な修行生活を送っていたが、彼のタヒ後の三階教団は布施を奨励し、教団の中心寺院であった長安の化度寺には「膨大な布施が集まった」。教団は「これを[無尽蔵法]〔高利貸の一種か〕と称して運用し、寺院・仏像などの修理、貧民の救済、〔…〕信者仲間のための用立て」に用いた。この活動はきわめて熱烈に行なわれたので、「仏教界の反発を招」いた。
三階教が「主に活動したのは長安と洛陽であり、長安には多い時には 55」の三階教寺院があり、「高官にも信者が増えていった」。
仏教界の反発は隋・唐の宮廷を動かし、600年に最初の禁令が出され、695年には三階教の書物は「仏の意に反しているとして〔…〕没収」した。699年には「乞食・長齋・持戒・座禅以外の行が禁止され、」華厳宗の法蔵に命じて「無尽蔵」を監査している。「725年には、三階教の僧侶が独立して住むことを禁じ」、他宗の僧侶との同居を強制した。信行の教えを記した『三階仏法』など関係書籍の破棄も命じられた。
度重なる「禁圧によって三階教は下火になったが、信者の活動は」その後も続いた。
三階教の日本への影響ですが、『三階仏法』などの経典類が飛鳥寺(法興寺) に伝わったことが確認されています。信奉者や教団活動があったかどうかは明らかになっていませんが、行基傘下の「智識」集団の活動は、三階教経典の影響を受けたものだとする見解があります(⇒:聖武と行基集団(11))。(pp.119,141-143.)
【13】 唐代、「華厳宗」の成立
唐代には、「華厳宗」が終南山で創始されている。智顗が「天台」教学を確立したのは北周~隋代なので、もともと中国では「華厳宗」よりも「天台宗」のほうが先に成立している。しかし、「天台宗」は隋王室との関係が深かったために、唐代には冷遇された。そのため、日本の遣唐留学僧は「天台宗」を学ぶ機会がなく、「華厳」「法相(唯識)」などの教学が先に日本に伝わったものと思われます。
「華厳宗」は、27歳で『華厳経』の注釈書を著した智儼〔ちごん:602-668〕によって創始された。
北朝仏教以来、地論・南道派は、仏性を細かく分類し「如来蔵」と「煩悩」の関係を論ずる煩瑣な議論に深入りしていた。これに不満を覚えた智儼〔ちごん:602-668〕は、如来蔵思想の源泉である『華厳経』に立ち返り、同経「性起品」「の宗教性を取り戻そうとした。すなわち智儼は、一切衆生は過去世にすでに仏と成り終っていながら、無限に修業・成仏・涅槃をくりかえすのだと主張し、[同時]〔…〕を強調する独自の時間論を展開した。」
智儼に師事した・新羅からの留学僧義湘は「華厳一乗法界図」↓を著した。これは『華厳経』の[心、仏、及び衆生、是の三は無差別なり]の思想を詩としてまとめ」たもので、「出発点の衆生と帰着点である仏の同時性を示したものだ。」
たしかに、「衆生‥‥」から「‥‥仏」へ繋がっているが、詩句の最初は「法性‥‥」で、この前半部分(図の左半分)を一部訳してみると:
『法性円融無二相〔法性は円融であって一体であり〕
諸法不動本来寂〔万物は動かず本来的に静寂である〕
〔…〕
一微塵中含十方〔一つの微塵の中に十方世界を含み〕
一切塵中亦如是〔同様にして、すべての微塵が十方の全世界を含む〕
無量遠劫即一念〔数えきれないほどの時間もそのまま一瞬であり〕
一念即是無量劫〔一瞬はそのままで数えきれないほどの時間である〕
〔…〕
初発心時便正覚〔初めて悟ろうとする心を起こした時そのままが悟りであ り〕
生死涅槃常共和〔生死と涅槃とは常に一緒である〕
〔…〕』
佐藤厚『儀礼文献としての一乗法界図』(pdf). .
おなじく智儼に師事した・サマルカンド出身の3世である法蔵は、「仏性・如来蔵」が諸事象の根源であると主張する「地論学派」に対して、より無差別的な考え方を対置します。すなわち、「如来蔵」だけを特別視して唯一の根源とするのではなく、「それぞれの事象が他の一切の事象を含み、一切を含むそうした事象を、また他の事象が含」み、あらゆる事象のあいだで互いにすべてを含み合う、そうした「[重重無尽]のあり方を、華厳の世界として強調した。」
こうして 「華厳宗」は、従来の「仏性・如来蔵」思想を超えた・より包括的で極限的な世界観を呈示したのです。
日本でも、奈良時代には、東大寺に「『華厳経』の教主である毘盧遮那仏の巨大な金銅像が造られ」、「華厳宗」は、龍樹の『中論』等に依る「三論宗」、「唯識」思想を研究する「法相宗」などとともに、「南都六宗」と呼ばれました。ただ、日本の奈良時代の「‥宗」は、「宗派」つまり教団組織ではなく、学派ないし専門分野であり、いわば「南都〔平城京〕」の学僧たちの “仏教研究の各分科” を構成したのです。(pp.142-143,170-171.)
【14】 中国仏教の拡散 ―― ベトナム、韓半島から倭国へ
南北朝から隋・唐にかけて、中国の諸王朝が周辺地域に勢力を広げていくと、仏教も周辺に伝わっています。
ベトナムでは、3世紀ごろに中部で「チャンパ(林邑)」が建国されますが、北部は中国の歴代王朝の支配下にあり、「交州」と呼ばれていました。
中国の南北朝時代には、ベトナム(交州)の僧侶は中国南部でも活動しており、逆に、中国僧が中国王朝の地方官に付いて交州に来たり、交州を経由してインドに渡ったりすることも多かった。
中部「チャンパ」はインド文化の影響が強く、インドから伝わった仏教が行なわれていたと思われます。漢字文化圏に属した交州でも、チャンパから伝えられた「インドや東南アジアの仏教と、中国南朝の仏教が、混じって」行なわれていた。このように、仏教の「伝播」というよりも、相互交流の状況であったと言えます。
唐代のベトナムには、「唐で流行していた諸系統の仏教が〔…〕導入された」と思われるが、とりわけ「禅宗がさかんになった。」が、「中国の禅宗が定着した後になっても、チャンパからの移住者などを通じてインド仏教の影響を受け続けており、密教と習合した禅宗の修行」がさかんだった。
高句麗には仏教は、「中国北地からやって来た漢人たちによって〔…〕広まっていったようだ。」南北朝時代の高句麗は、ベトナムと同様に、中国との仏教交流関係は相互的でした。高句麗僧義淵は北朝に、波若らは南朝に行って、中国僧に混じって活動しています。
南北朝以後、ベトナム,高句麗,ともに僧侶の仏教理解の水準は中国に比肩していましたが、中国とは異なる・それぞれの地域仏教の特色‥といったものは見えてきません。
弥勒寺・西塔(復元補修前) 百済、7世紀。全羅北道益山市。©hasegawadai.com
これにたいして、百済と新羅では、“伝来” 当初の時期から、それぞれの特色ある仏教を成立させています。在来の土着宗教との習合も、最初から目立って発生しています。しかし、伝播の方向について言うと、この2国――さらにはその先の倭国も――は、どちらかといえば一方通行で、中国から一方向的に仏教を受容したと言えます。
百済は、4世紀後半には仏教の伝来が確認できます。寺院の建立と百済僧の得度(受戒)が記録されています。しかし、寺院遺跡が確認できるのは 6世紀初め、中国・南朝で梁の武帝が仏教重視政策を進めたころからです。すなわち、「百済は江南の貴族仏教を取り入れていた」。「百済の仏教学の主流は、『成実論』〔諸経教理の解説書〕にもとづき『涅槃経』を尊重して大乗経典を研究する」南朝・梁の「系統だった。」そこでは、「周囲と衝突しない穏やかな[無忤 むご]〔忤 さから うこと無し〕」の態度が重んじられた。こうした百済仏教の〈穏やかな貴族仏教〉という特色は、後述するように、倭国・飛鳥時代の仏教にも影響している。〔厩戸皇子「十七条憲法」など〕
中国が唐王朝に替わると、百済王はさっそく朝貢する一方、王都近くに王興寺,南方の益山に弥勒寺を建立した。弥勒寺は広大な伽藍で、西・中央・東にそれぞれ塔・金堂・回廊があり、これは「将来、弥勒菩薩が兜率天から下生して3回説法するという『弥勒下生経』」の教説にしたがったもの。つまり、「ここが将来の弥勒下生の地となり仏教の中心となってほしいという願望」ないし「そうなるのだという自負に基いて」いる。百済ではまた、「弥勒菩薩像が多く造られている。史書の天神降臨の記述から見て、弥勒信仰はそうした在来信仰と習合していたと思われる。」(pp.122-126,68,158-159,161.)
以上のベトナム,高句麗,百済よりも遅れて、6世紀以後に仏教を受容したのが、新羅と倭国でした。次回は、そこから始めます。
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