ジョルジュ・ルオー『クリスチャンの夜想曲』1952年。 Georges Rouault,
Nocturne Chrétien. Centre Pompidou, Musée national d’art moderne, Paris.
©Fondation George Rouault.
【44】 「キリスト教民主主義」――
コミュニティと家族、利権と腐敗
戦後、『西ヨーロッパで新たに立ち上がったキリスト教民主主義政党にとって、マリタンの思想は重要な引照基準を提供した。〔…〕マリタンの哲学がとくに重要性を帯びたのは、イタリア憲法の起草に関わった〔…〕思想家グループにたいしてだった。その中心には〔…〕ジョルジオ・ラ・ピーラ〔のちのフィレンツェ市長――著者註〕と、ミラノ・カトリック大学のジュセッペ・ドセッティら〔…〕がいた。彼らは人格主義の著作をむさぼるように読み、個人主義を批判し、なかでも、人格は共同体と結びついているという点を推奨した。ラ・ピーラの言葉では、「人間人格は、継起する社会的共同体への有機的帰属を通じて開花する。人格は共同体のなかに含まれ、共同体を通じて着実に成長し、完成する」のである。
教会法の専門家だったドセッティは、レジスタンスで戦い、〔…〕1945年にキリスト教民主党の副委員長になると、党を人格主義,平和主義,さらには社会主義にも開かれたものにしようと努めた。〔…〕彼とその仲間は、〔…〕人格主義的で労働に基礎をおく「実質的民主主義」のイタリア版を望んだ。それは、国家と社会と経済を通じてキリスト教的連帯を実現するものであった。〔…〕
〔ギトン註――ラ・ピーラとドセッティが代表する〕キリスト教民主主義内の左寄りの構想は、市場選好の構想〔非社会主義的な自由経済志向――ギトン註〕のために脇に追いやられてしまった。それでも〔…〕象徴的勝利となったのは、イタリア憲法第3条に、完全に人格主義的な用語で「国民の自由と平等を物理的に制限し、かくして人間人格の十全な発展を妨げる経済的もしくは社会的障碍を除去することは共和国の義務である」と書き込まれたことだった。
キリスト教民主主義が戦後〔ギトン註――中・西ヨーロッパ〕の政党政治で成功したのは、〔…〕中間層と農民の特殊な選挙連合のおかげだった(それはヨーロッパ統合を支え、そこから利益を得た連合でもある)。さらに、この時期、ファシズムとともに伝統的右派が完全に信用失墜し〔…〕キリスト教民主主義が反共産主義政党の中核になっていたことが、おそらくいっそう重要だった〔…〕。人権がカトリックにとって魅力的に感じられた理由のひとつは、人格の権利を「神なきボリシェヴィズム」の恐怖に対抗させることができた点に求められるのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.25-27. .
↑後者の点で重要なのは、戦後における「キリスト教民主主義」の時間的変化です。大戦中の「レジスタンス」から終戦直後にかけての時点では、「キリスト教民主主義」は、部分的には、社会主義に近い政策理念をも掲げていました。また、社会主義的でなくとも、全般に道徳的理念が強く打ち出されていました。「たとえば、ドイツのキリスト教民主同盟(CDU)の最初の党綱領は、〔…〕大規模国有化、労使の共同決定などが含まれており、とくにカトリック労組や労働者司祭に訴えかけようとしていた。」
マクス・ベックマン『ワルキューレ』1948年。
Max Beckmann DIE_WALKÜRE. ©Wikimedia.
同様に、フランスのキリスト教民主主義政党「[人民共和運動(MRP)]の創設者ジョルジュ・ピドーは、〔…〕[真ん中にいて統治し、左派の政策を右派の手段で追求する〔…〕]というスローガン」を掲げた。しかし、このスローガンは、「1950年代初頭までには、〔…〕40年代のような説得力を持たなくなった。」その後、「[人民共和運動]の利用できる政治空間」は、「ド・ゴール主義のせいで結局閉じられてしまった」。
ドイツでも、50年代初めの CDU は、「小営業,小農,そして家族の重要性を強調するようになっていた。」しかも、「家族」は、あまり細分化されない古風な大家族のつながりが理想的なのだった。「もっと言えば、〔…〕[左派の政策]を追求するよりも、経済的自由主義と〔…〕保守的なカトリックとの妥協を仲介するようになったのである。」
もともとカトリックの保守的な小営業者,小農民は、彼らを脅かす近代化と資本主義発展に対抗して、カトリックの道徳的価値を頼りにしたのですが、そこから、「ともすると社会主義的傾向を抱きかねない」懸念があったのです。それは、「反共産主義」にウェイトを置きたい勢力――終戦から遠ざかるほど増えていた――にとっては忌々 ゆゆ しいことでした。そこで、カトリック信徒のもつ「伝統的倫理」を強調し、彼らに「経済的自由主義」「市場の論理」を受け入れさせ、ソ連・東欧諸国の「共産主義」に対する人心の防波堤を築くことに、キリスト教民主主義の役割が期待されました。「この思想上の取引」――市場自由主義とカトリック思想――には、両者を同時に矛盾なく描くことのできる「越境者」による説得が必要でした。教皇庁の「1931年の回勅」の主要執筆者で、この回勅では「共産主義と市場自由主義とに反対し」ていたネル=ブロイニングは、いまやエアハルト経済大臣の顧問となって、保守的信徒に対して市場自由主義の受け入れを宣揚したのです。
「共産党との違いを強調するために、キリスト教民主主義政党の指導者たちは、民主主義はキリスト教の基礎の上でのみ安定できる」、キリスト教民主主義を棄てれば全体主義以外なくなる、と協調しました。
「時とともに CDU は〔…〕真の大衆政党へと変わり、〔…〕支持層を広げて」「包括 キャッチ・オール 政党」と言われるまでになった。のちにオーストリアのキリスト教民主主義者が真顔で宣明したように、彼らは「人道主義的人間観を抱く人すべて」に開かれているのであり、「無神論者も入党可能になった」。
イタリアでも、「[キリスト教民主党(DC)]は、戦後ヨーロッパで最も成功した組織政党となった。それは、共産党を排除しつつ常に政権の座に就いており、異なる派閥出身の決まった人物を入れ替わり種々の役職に就ける事実上の国家政党、あるいは国家〔…〕を植民地化した政党であった。そうして、〔…〕キリスト教民主党は堕落するだろうというドセッティの予言通り、一貫して縁故主義を用い、ときには腐敗した手段に頼った。DC の〔…〕[自由]とは、共産主義からの自由と、国家を掠奪する自由を意味するように思われた。〔…〕党はつねに郵政省・郵便局を握ろうと努めた。〔…〕恩恵庇護の機会と資源が最も多い分野だったのだ。」DC に見切りをつけたキリスト教民主主義者も多かった。ドセッティは、「修道会を設立し、司祭になっ」て退きこもった。
イタリアに限らないことですが、〔家族,近隣,町村といった既成の〕共同体と伝統的規律を重視するキリスト教政党――一般に宗教政党――は、縁故主義と腐敗、国家機構の利権化に陥りやすい素地があるのでしょう。現実の行動がどんなに腐敗しても、宗教的なタテマエは、あたかも汚 けが れがないかのように掲げていられる、という宗教特有の事情も大きいのだと思います。それは、日本の宗教政党とその母体教団にも、明確に見ることができます。
ジョルジュ・ルオー『われらのジャンヌ』1948-49年。
Georges Rouault, Notre Jeanne. ©Fondation George Rouault
「それでも、DC が決して」踏み込まなかったレッドラインがあったことは、「記憶にとどめてお」きたい。というのは、ローマ教皇庁は依然として民主主義政体には敵対的で、ポルトガル・サラザール政権のような「権威主義的なカトリック国家への道を開いておくようにという〔…〕圧力」をかけてきたからだ。この要求に対しては、DC「党は抵抗しつづけた。」DC の「戦後最初の〔…〕首相となったデ・ガスペリは」、「カトリックの社会教義の平等主義版の熱烈な支持者ではなかった」代わり、スペインのフランコのような独裁や非民主主義体制を容認しなかった。
第2次大戦後、キリスト教民主主義が勝利したのは、「汚いもの汚くないものさまざまな物質的理由」があったが、「思想上の理由も重要だった」。すなわち、「多元主義を真に受け入れ」、カトリックの「非信者にたいして文化闘争を再燃させるつもりのないことを保証」したことが「重要だった。人格主義のような哲学のもつ曖昧さこそが、広汎に受け入れられる理由」となった。それはまた、一面において自由主義、一面においては反自由主義だった。反自由主義の面が、「カトリックの人たちに」キリスト教民主主義の主張する「近代民主主義」を「後顧の憂いなく〔…〕受け入れさせたのだった。なかでも、マリタンの思想は、自由主義の政治を〔…〕受け入れる根拠を、カトリックの伝統の内部から提供し、さらに他方で」は、非カトリック信徒に向かって、カトリックが議会の多数派になっても「権威主義に戻ることはないことを保証した。それは巧みな哲学上のバランス取りであ」った。
「経済」にかんしては、ドイツの CDU(キリスト教民主同盟)もイタリアの DC も、「1940年代に予想されたよりもずっと」、その後は「市場親和的」になった。同時に、「近代化への信仰」と「技術的進歩」を広く受け入れた。その反面で、これらのキリスト教民主主義政党は、「道徳問題では一貫して保守的」論調を維持した。彼らの 1946年の言説では、「暖炉の周りに集ま」る「家族」こそが理想であり、「耳を弄する窓であるラジオの周りに集ま」るようになれば、家族の「砦」は破壊されてしまう〔イタリア DC の第1回党大会演説〕、というのだった。
とはいえ、まもなく彼らは、「こんにち、保守であることは技術的進歩の先頭に立つことだ」〔CDU の南ドイツの友党 CSU の指導者シュトラウス〕といったレトリックを主張するようになり、「道徳問題」の主張は弱められていかざるをえなかった。(pp.27-31,19,18.)
ヴィリー・レーツ『樫の老樹』1947年。Willy Reetz, Alte Eiche. ©Wikimedia.
【45】 「キリスト教民主主義」のもう一つの志向
――「ヨーロッパ統合」への道
キリスト教民主主義は、カトリック的「家族」理想につながる「道徳問題」にかんしては、「市場」「近代化」「技術進歩」との矛盾に悩むこととなったが、他方、「もっと長続きし、矛盾も生まなかったのは、国際問題への〔…〕姿勢」――ヨーロッパ統合への志向――だった。
もともとカトリック教会には、ヨーロッパ主権国家の境界を超えた普遍性を志向する伝統がありました。しかしそれ以上に、戦後のキリスト教民主主義者の重要人物には、各国家の辺境に生まれ・国民的〈均質化〉の波に抵抗した人びとがいました。ウィーンで学び、オーストリア議会で政治家の経歴を始め、戦後はイタリアで「キリスト教民主党(DC)」首相となったデ・ガスペリ;プロテスタントが優勢な北ドイツでは特異なカトリック都市「ケルンの市長だった」コンラート・アデナウアー;フランスからドイツ帝国に編入されたロレーヌを脱出しルクセンブルクに移住した一家に生まれたロベール・シューマン。彼らはキリスト教民主主義者であり、この3人が「ヨーロッパ共同体の創設者」となりました。マクス・ウェーバーにとって国家主権があらゆる政治的価値の前提であったのとは異なって、「国家の主権は彼らにとって、それ自体が価値でもないし、政治的意味を創造する前提でもなかった。むしろ逆に、恐れるべき何かであった。3人の指導者は、補完性と・[キリスト教人道主義]の遺産・のもとで一つになるヨーロッパを唱導した。」
しかし、「ヨーロッパ統合」の「理念」というようなものは、ソ連・中東欧の共産主義に対抗する「反共主義で」一致してい「るかぎり、いちいちの詳細まで議論する必要はなかった。」「反共」という一致点のもとに「統合の熱意をもった政治家と官僚たち」によって「超国家主義」が進められていくのを信頼していれば足りたのです。「それは、第1次世界大戦後にケインズ」,ウェーバーらがヴェルサイユに働きかけて果たせなかった自由主義的な構想〔⇒:(4)【10】〕「と同種のものであった」が、今度はウィルソン主義(民族自決)に敗北することはなく、着実に地歩を広げたのでした。それというのも、第1次大戦後に「民族自決」原理による小国分立の狩り場となった東欧は、いまやソ連赤軍に押さえられてしまっており、それに対抗するための “西側” の結束こそが求められたからなのでした。
ジョアン・ミロ『頭部』1954年。Joan Miró, Head, painted ceramic.
Museum moderner kunst (Mumok), Wien, Austria. ©Wikimedia.
「このように、ヨーロッパ共同体の創設者たちは、彼らの計画の正統性を」直接的に人びとに宣明して支持を集めるという方法ではなく、まず各国のエリートと官僚の支持を得て徐々に計画を実施し、その成果によって大衆を納得させるという「間接的な方法で確保する道を選んだ。」〔※〕つまり、各国の国民投票によって一挙に「超国家的協定」を結ぶ、というよな正攻法をとっていたなら挫折していたかもしれない「ヨーロッパ統合」を、「結果」の説得力によって「それは良いものだ」と「ヨーロッパ諸国民に〔…〕実感させる」やり方で成功したのです。
註※「間接的方法によるヨーロッパ統合」: 1951年の「パリ条約」で成立した「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」、1957年「ローマ条約」による「ヨーロッパ原子力共同体」「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」、1967年「ブリュッセル条約」によるこれら3つの「共同体」の合併→「ヨーロッパ共同体(EC)」の成立、1993年「マーストリヒト条約」による「ヨーロッパ連合(EU)」への改組という道筋をたどり、ゆるやかな経済統合から、通貨統合、政治統合へと進んできた。
この「エリート間合意という技術的官僚的行政手段」に依拠した「ヨーロッパ統合」は、「後から振りかえって〔…〕しばしば[人目を盗んだ ステルスの ヨーロッパ統合]と揶揄され」もした。しかし、統合が進められた当時における各国の「国民政党の指導者もふくめ、キリスト教民主主義の指導者たちは、人民主権の抱える危険性に神経を尖らせていたので、この」“先に実施・あとで大衆の承認” という「アプローチは、信頼できる対応法と思われたのである。」「ヨーロッパ統合は、〔…〕小規模に映る経済的,行政的段階をとって進められる政治目的」として追求され、結果的に成功を収めたのでした。
「キリスト教民主主義」によって主導された・こうした「ヨーロッパ統合」を中心とする戦後政治の変化は「きわめて重要なものだった。とくに国家主権の価値を切り下げたことと、階級・宗派間の(相対的な)社会平和を創り上げたことは重要だった。
とはいえ、その “成功” が日増しに前面に立ち現れるにつれ、批判と失望の声が高まってくることも避けられなかった。大戦中の「レジスタンス期の多くの政治思想家の希望に比べれば」、キリスト教民主主義の「国民政党」が体現する「戦後の風景は、ひどく意気消沈させるものであった。資本主義は過剰で、民主主義における直接参加は過小だった。若い世代は、そのことをいっそう激しく感じた。」
たとえば、もとヒトラー・ユーゲントで、戦後、ラジオの「ニュルンベルク裁判」報道によって、「集団的に実行された非人道的行為」の存在を初めて知って衝撃を受けたユルゲン・ハバーマスは、「われわれには精神的・道徳的再生が不可欠,不可避だと信じた」――つまり、ドイツ人は生まれ変わらなければならない、生まれ変わるほかはないと決意した――と回顧しています。が、「こうした徹底した再生の試みの失敗が明らかになると、戦後の政体に対する深い不信の念が生まれた。」ハバーマスは、「すべてを一掃する〔…〕何らかの爆発的な行為」が行なわれることを求めていた。それさえあれば、「政治的権威の形成」が開始されると信じていたし、少なくとも、「爆発」の前に戻れないことは明らかになっていたはずだ、と述べている。ところが、そのような「爆発」は起きなかった。そのことが、 “アウシュヴィッツ以後” の世代を、根底から深く失望させたのです。(pp.31-34.)
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