アメリカ「北西インディアン戦争」(1785-95年) Fallen Timbers の戦い(1794年)
アメリカ合州国は、インディアン諸族から、オハイオ州の大部分を奪い取った。R.
F. Zogbaum: "Charge of the Dragoons at Fallen Timbers" 1895. ©Wikimedia
【63】 「自由主義国家」の建設
『1830年ないし 32年までに、中道自由主義が支配する自由主義国家が、イギリス,フランス,ベルギーに構築された。当時もっとも工業化された3か国である。この3か国は全体として、近代世界システムの経済的・文化的中核を構成した。自由主義国家というモデルは、これら3か国の役に立つように創られ、相対的繁栄と安定を得ようとする他の諸国の模範となるものであった。〔…〕保守主義者と急進派とは、事実上、たんに中道自由主義の一変種に変身させられた。〔…〕
こうなると、自由主義国家の機構を〔ギトン註――さらに〕発展させる必要が生じた。〔…〕① 選挙法改正はスタートさせられ、〔…〕普通選挙制度に到達するまでに、ものの1世紀しか要しなかった。普通選挙制度は、市民権の全市民への拡大をともなった。つまり、臣民間の平等,住民間の平等が目標となる。
この時点ではなお、自由主義国家の第2の柱である ② 危険な階級の馴致――経済的・社会的な弱者の・国家による保護――の幕は切って落とされていなかった。この過程が始まるのは、次の時期〔…〕1830年から 1875年に至る自由主義国家の強化の時代のことである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.69-70. .
ここで、「自由主義国家」および「市民権」という・キーになる概念について検討しておくほうがよいでしょう。
前回以来、ウォーラーステインの言う「自由主義国家」の内容があいまいで困惑していたのですが、ここにきてようやく彼の意図する処が見えてきました。どうやらウォーラーステインは、「社会主義(ないし共産主義)国家」に対する「自由主義国家」という・20世紀の用語法を過去に及ぼして、「自由主義国家」というモデルの淵源をフランス革命時代に求めるべく、歴史過程の再構成を試みているのです。「自由主義国家」の内容が明確に定義されていないのは、そのせいだと思われます。
前回【60】で要約した叙述を見ると、「19世紀はじめに〔…〕イギリスとフランスが諸国に宣布した[自由主義国家]モデルとは、[個人の自由と自由な市場]を擁護し・資本主義世界経済の正当性を称揚する〔…〕ものにほかなりません。」
つまり、「個人の自由」すなわち人権〔言論の自由,信教の自由など〕と、「自由な市場」すなわち経済的自由とを擁護することに、その要点があります。自由主義者たちは、「国家」権力をつうじて初めて、それらを保証することができた。‥‥これが、当初の「自由主義国家」モデルであったわけです。
しかし、ここ(↑上の引用)で述べられているのは、その後・より発展した時期の「自由主義国家」モデルです。それは「2本の柱」で構成されていて、① 選挙権ないし市民権と、その全国民への拡大。② 国家による弱者保護、つまり社会保険,社会保障などの「社会政策」。
つまり、「自由主義国家」モデルは、国家による・自由権と経済的自由の保障から、参政権,および社会権の保障(民主的・福祉国家)へと進展した、ということになります。
「市民」の登場。ヘンドリック・アーフェルカンプ『町の前の氷上風景』1610年。 ©Wikimedia. 「市民」は、「資本主義的世界経済」の出現とともに登場した。
なぜ、① ② へ向かったのか? そのことも、↑上のⅣからの引用に書いてあります。理由は、「自由主義国家」とはモデルであり、諸国の模範となるべきものだからです。つねに進歩しつつある「自由主義国家」モデルは不動の存在ではありえません。静止した絵のようなものだったら、諸国がそこに追いつけば模範の意味を無くします。諸国の模範としてシステムの正当性を称揚しつづけるためには、「自由主義国家」は、いつも先へ先へと、無限に進歩し続けなければならないのです。
ありきたりな議論に見えるかもしれませんが、非マルクス主義的な理解に・底深い歴史的観点を導入しようとしている点は、大いに評価してよいと思います。
【64】 「市民権」――包摂と排除の原理
「市民権」概念は、「自由主義国家」モデルの “第2段階” の ① に関わるものです。それは、端的に言ってしまえば「選挙権」ですが、ここではもう少し掘り下げておきましょう。「市民権」ないし「公民権」civil rights とは、狭義には、ポリスの市民が「自由人」〔支配者身分〕として政治に参与する権利、つまり「参政権」のこと。広義には、それと人権(安全,財産,自由)を含みます。フランス革命時にシェイエースは、「市民の権利」つまり人権は国民全員に認められるが、狭義の市民権,つまり政治参与の権利は、制限された者にのみ認められるべきだと主張しています。20世紀アメリカの「公民権運動」で主張された黒人などマイノリティの「公民権」は、広義の意味でした。(『岩波哲学思想事典』「シエース」「自然権」)
ウォーラーステインのここでの用法は、狭義の意味つまり「参政権」に力点をおきながら、人権、さらにはより広く “国家の一員として遇され・差別されることのない社会的地位” のような情緒的な意味にまで及んでいます。この言葉の歴史的な淵源が、「ポリスの市民としての地位」という意味にあることを考えれば、彼の言う「市民権」のニュアンスは理解できると思います。
そのような意味での「市民権」が、「選挙権」の拡大によって、より多くの人を包摂するものになっていったことは、「自由主義国家」モデルの発展にほかなりません。が、この過程は同時に、「市民権」概念が排除の側面を強める過程でもありました。制限選挙制度の初期の段階では、労働者(資産の少ない者)が排除の対象であり、つぎには女性、また特定の人種,民族,エスニシティが排除の対象となりました。アメリカ合州国の先住民には、今でも事実上、選挙権が与えられていません。選挙権からの排除は、“市民と認められる資格” からの排除と蔑視を伴なっています。
『近代世界システムが他の史的システムと違うのは、平等が目標である〔…〕と宣言されてきたことである。市場での平等,法の前の平等,〔…〕個人の基本的な社会的平等など〔…〕である。近代社会で大きな政治〔…〕文化問題となったのは、理論的には平等を認めていながら、実生活では、機会〔の平等――ギトン註〕も、その結果としての充足〔度の平等――ギトン註〕も、あいかわらず両極分解している・というより格差が激しく拡大していく〔…〕現実と、どう整合するのか、ということであった。
ランカシャー州プレストン近郊の "Swainson Birley Cotton Mill" 綿紡績工場、
1834年。Thomas Allom筆 ©Illustrerad vetenskap 2011.
〔…〕16世紀から 18世紀に至る 3世紀間、〔…〕不平等は、神が定め給うたものとしてなお自然なことと見なされていたのである。しかし 18世紀の革命の高まりによって、平等の言語が文化的象徴となってしまい、至るところで権威への挑戦が行なわれるようになると、理論と現実のこの解離は、無視できなくなった。〔…〕いまや「危険な階級」となった連中を馴致することが、権力の座に就いた人びとの最優先課題となったのである。自由主義国家の建設は、この要求〔理論上の「平等」に現実を合わせようとする「危険な階級」の要求――ギトン註〕に限界を設けるための主要な枠組みを与えた。〔…〕
市民という概念は、国民を包摂するために作られた言葉である。〔…〕国王や貴族のような少数者ではなく、国内のすべての人びとが、政治の世界での集団的意志決定の過程に役割を果たす、それも平等に役割を果たす権利を有すると主張するために、この概念が作られた。〔…〕
しかし、〔…〕市民の概念のもう一つの顔は、排他性である。〔…〕
19世紀の歴史は、〔…〕特権と優位を享受した少数者が、つねに市民権を狭く解釈しようとし、他の人びとはより広い解釈〔…〕でこれに対抗してきた歴史である。〔…〕社会運動もまた、この争いをめぐって展開してきた。
市民権を、実際上は狭く定義しておきながら、〔…〕原理としての広義の市民権をも維持しようとした手法は、〔…〕2つのカテゴリの市民を生み出した。〔…〕この方向での努力〔…〕は、アベ・シェイエース以来で〔…〕あった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.176-177. .
「市民権」について、いわば “二重の解釈” をとることで、国民全部を包摂するという理論上の要求と、できるだけ狭い範囲に限定して・残りの人びとを排除するという現実の必要とを両立させる妙案を発明したのが、「フランス革命」時の国民議会議員シェイエースです。彼は、「バスチーユ襲撃」の 6日後に「国民議会」の憲法委員会で行なった報告で、「受動的権利〔人権。自由と財産の保護〕と能動的権利〔参政権〕,受動的市民と能動的市民の区別」を主張しました:
『一国の住民はすべからく、国内では受動的市民としての諸権利を享受すべきである。誰しも、人身,財産,自由などを保護される権利を持つ。しかし、当局を形成するのに参画する資格は〔…〕全員が持つわけではない。〔…〕女性や子供,外国人,その他・公的体制の維持に寄与しない人びとが、公的な生活に積極的に影響を与えることは、認められるべきではない。〔Emmenuel-Joseph Siéyès, "Preliminaire de la Constitution, lu les 20 et 21 juillet 1789, au Comité de Constitution", 1789.〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,p.178. .
「第2次セミノール戦争」(1835-42)。マングローブ林に身を隠すセミノール
〔フロリダのインディアン〕と、追跡するアメリカ合州国海軍。National Archives
and Records Administration. ©Wikimedia. 合州国独立の前後から、アメ
リカ政府はインディアンの土地を大規模に奪取するとともに、先住民各部族を
局地に強制移住させた。抵抗するインディアンとの戦争は断続的に続いたが、
最後には武器も持たない人びとを犯罪者のように追撃,捕獲する形態となった。
【65】 「包摂」から「排除」へ ―― 労働者の場合
『自由主義国家、つまり西ヨーロッパ,北アメリカ,さらにのちには中央ヨーロッパにおいては、市民への包摂を最も強く要求したのは都市の労働者階級であった。〔…〕
労働者たちは、自分たちを労働者階級(working classes)として意識した。彼らより上流の階級は、彼らを危険な階級と見なす傾向があった。労働者サイドの戦術論争は、議論のほとんどが、どうすれば「危険な階級というレッテル」を払拭でき、市民としての評価を得られるか、という点をめぐって闘わされた。』
その結果、労働運動の指導者たちによって『広く用いられた・決定的に重要な手法が一つある。労働者を民族性 エスニシティ か国籍 ナショナリティ で区別する方法である。国内での人種主義と・対外的な帝国主義ないし植民地主義であり、これらが、「危険な階級」というレッテルを、労働者階級のサブ集団に貼り替える役割を果した。この主張が説得力をもった限りで、労働者階級の一部は「能動的市民」となることができたが、その一方で、受動的市民の〔…〕まま残された労働者もあれば、まったくの非市民とされる者も生じた。』一部の人びとの『包摂は、他の人びとの排除を伴なったのである。
〔…〕アメリカは、19世紀を通じてたえず移民の流入した地域であり、そうした移民は多くが都市に住んで〔…〕非熟練の労働者となる傾向が強かった。これに対して、〔ギトン註――労働者の〕大半を占めていたアメリカ生まれの職人たちは〔ギトン註――熟練工に〕上昇の機会を得て、彼らのあとを移民労働者とその2世たちが埋め〔…〕た。早くも 1850年代には、アメリカ生まれの熟練労働者と、移民〔…〕労働者との社会的格差は、政治的な意味合いをもちはじめた。すなわち、前者の利害を体した政党は、反移民・反カトリックの態度を示していたが、「自分たちはプロテスタントであるということと同じくらいに、熟練労働者であることを強調するようになった」のである。〔…〕1882年の・中国人排斥法を要求するキャンペインでは、労働者の諸組織が指導的な役割を果した。〔…〕
19世紀末のアメリカの労働者階級は、「おおかたが、外国人出身者・ないし外国人の両親から生まれた者」からなっていた〔…〕。使用者側は、この民族対立を利用し〔…〕、しばしば「黒人,東洋人,女」をスト破りに利用した。』労働者組織の民族的『階梯のトップには、英語を話す白人が立つことには、「アメリカ労働運動史の全時代を通じて、暗黙の了解があった」し、混乱があると、つねに責任は移民に押しつけられた。〔…〕アメリカの労働者階級のあいだで、民族・人種対立が主要な問題となり続けた』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.193,207-209. .
走る列車を追いかける人々。アメリカ映画『80日間世界一周』(1956年)。
【66】 「長い 19世紀」の回顧
『「産業革命」〔…〕の期間にイングランドで起こったことは、循環的な経済変動の一部であり、工業生産の機械化の上昇局面にあたったということ』にすぎない。『それは、これより前にも何度か経験があり・以後も何度かくりかえし起こるはずのことでしかなかった。それに、産業革命は、全体としての世界経済の変動の一過程であり、世界システムの新たなヘゲモニー国家の地位をめぐる抗争でフランスに勝利したため英国にあらゆる利益が集積されるようになっていった結果でもあった。〔…〕
フランス革命は、「資本主義」を定着させたブルジョワ革命だったとは考えられない〔…〕。フランスはこれよりはるか以前から、資本主義的世界経済の一部分をなしてきた〔…〕。フランス革命というのは、イギリスに対抗して世界システムのヘゲモニー国家になろうとする最後の試みであった〔…〕。近代世界システムの歴史から見れば、それは部分的には「反システム」的な、いいかえれば「反資本主義」的な運動であったのだが、本質的に失敗に終った試みでもあった。〔…〕
近代世界システムは、2つの大きな循環過程をもっていた。ひとつは、50-60年の波長を持つコンドラチェフ循環〔…〕である。〔…〕この循環は、全体としての世界経済の拡大と停滞のサイクルをなしていた。
第2の大きな循環過程は、もっとゆっくりとしたものであり、インターステイト・システムにおけるヘゲモニー国家の興亡にかかわるものである。〔…〕17世紀中頃にオランダがヘゲモニー国家の地位を得た〔…〕。1792年から 1815年にかけて、フランス革命・ナポレオン戦争という「世界戦争」でフランスに勝利したイギリスが〔…〕ヘゲモニー国家となりえた』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.334-335. .
↑「第2の循環過程」とは、ロジスティック波動のことを言っているのでしょうか。しかし・そうだとすると、ヘゲモニー国家の抬頭する時点とロジスティックの上昇/下降局面との関係が、よくわからなくなります。17世紀の少なくとも中頃までは、まえのロジスティックの下降局面であるはずです。オランダは、ロジスティックが下降から上昇に移る最低点でヘゲモニーの頂点を迎えるのでしょうか ?! 1750年頃から 1815年頃までの「産業革命」期は上昇局面のはずですが、イギリスは上昇の最高点でヘゲモニーを獲得しています。‥‥ともかく、「コンドラチェフ循環」だけでヘゲモニー交替まで説明しようとする柄谷氏(⇒:『憲法の無意識』(1)【2】図表「世界資本主義の諸段階」)とは、ウォーラーステインは考えが違うことがわかります。
英仏人が見た 19世紀の日本(横浜)。『80日間世界一周』(1956年)。
『近代世界システムの機能する範囲は大いに拡大していたが、19世紀末~20世紀初めには、第3の・最後の拡大が生じた。〔…〕
本書〔第Ⅳ巻――ギトン註〕では、「長い 19世紀」にはじめて出現する現象に集中することにした。この新しい現象には、「中道自由主義」という名前をつけた。〔…〕
「ジオカルチュア」とは、明示的にであれ潜在的にであれ世界システムの全域で広く共有される価値の意味である。「長い19世紀」までは、世界システムの政治経済と、それを叙述するレトリックとのあいだには、乖離があった。〔…〕近代世界システムの3つの主要なイデオロギー――保守主義,自由主義,急進主義――を発展させて・この乖離を克服すること・を至上命題たらしめたのが、フランス革命であった〔…〕。中道自由主義が、他の2つのイデオロギーを「飼い馴らし」、事実上、中道自由主義の化身に変えてしまう〔…〕。「長い19世紀」の終り〔第1次大戦――ギトン註〕までには、中道自由主義こそが近代世界システムのジオカルチュアの普遍的な教義となった〔…〕
中道自由主義は、いかにしてそのイデオロギーを、3つの重要な領域に押しつけることができたのか〔…〕。第1の領域は、〔…〕中核地域における自由主義国家の創設であり、イギリスとフランスがその最初の重要な先例となった。
第2の領域は、市民権の概念を、包摂のためのものから排除のためのものに切り替える試みであった。ここで排除の対象となった3つの集団――女性,労働者階級,および人種的・民族的「少数派」――を取り上げて、このことを説明した。
第3の領域は、自由主義のイデオロギーの反映としての・歴史的思考に基く社会科学と、支配者が被支配者を制御できるモード〔方法,方式。つまり、優生学,経済学,社会学,政治学――ギトン註〕の出現であった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.335-336. .
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!
Corrado Cagli, 1936 + Mirko