ウィリアム・モリス『世界の果ての泉』(1896年)挿絵:Edward Burne-Jones 作
「必然の友は、原始森で出会う」©Wikimedia. イギリスの社会主義者モリス
の空想小説。King Peter of Upmeads の最年少の王子ラルフは、世界の果てに
あるという泉を捜して旅する途上、同じ希望を抱くウルズラと遭遇する。
【60】 イデオロギー ――
「急進主義(社会主義)」の登場、「中道」への収斂
「保守主義」「中道主義」「急進主義」という3つのイデオロギーのうち、「急進主義(社会主義)」は、時間的に「最後に形成されたものである。」
「政治プログラムとして〔…〕したがってイデオロギーとして、社会主義が自由主義と違っていたのは、進歩を達成するには[大きな]支援の手が必要である」という確信を持っていた点である。これを、前節で自由主義者のモットーとして掲げられていた:「進歩は、人間の努力なしには達成されない」「自由は、与えられるものではなく、闘い取られるものである」という文句と比較してほしいと思います。
意外に思われるかもしれませんが、イデオロギーとしての「社会主義」は、その誕生の当初から、つねに〈誰か〉の援助を要求する考え方なのです。逆に言えば、民衆は「援助してやらねばならない」「指導してやらねばならない」という “暗黙の前提” が、つねにあります。
それというのも、「支援の手」がなければ、「進歩は〔…〕遅々としたものでしかないだろう、というのである。要するに、社会主義のプログラムの中心は、歴史の進歩を加速することにあった。彼らには、[改良]ではなく[革命]という言葉が、訴える力を持っていたのは〔…〕このためである。」
ここで、ウォーラーステインは、もっぱら変化の速度を問題にしているのですが、私はそれだけではないと思う。民衆は「指導されねばならない」という急進主義者の “暗黙の前提” は、大衆の不定形な力の “爆発” がもたらす混乱と不幸な結果、さらには、官僚国家への権力集中に収斂してしまうことへの危惧に基づくものでしょう。ところが、それを防ぐべく・大衆の受動性を前提してしまうこと自体が、かえって、官僚国家を必須の前提とする専制権力思考を招いてしまうのです。ここには、20世紀を通じて解かれることなく、現在においてもなお未解決な・大きな問題の根源がある、と言わなければなりません。
ところで、「保守主義」「中道自由主義」「急進主義(社会主義)」――この3つのイデオロギーのあいだの同盟関係を見ていくと、1848年を境として、その前後(つまり、19世紀前半と後半)で情勢が異なっていることがわかります。
大ざっぱに言えば、世紀前半では、中道自由主義者は急進主義と同盟し、保守主義に対抗して民主的改革を進めようとした。1848年の「世界革命」の結果として・ある程度の成果を得たあとの世紀後半では、むしろ保守主義と同盟して、急進主義(社会主義)を抑える側に回った、‥‥そう言うことができます。そして、こうした「中道自由主義」の変化を促した・もう一つの要因として、人道博愛主義〔サン=シモン主義〕からマルクス主義への「社会主義」運動の変貌があります。
パリ「二月革命」。Henri Félix Emmanuel Philippoteaux『1848年2月25日、
パリ市庁舎の前で、赤旗を拒絶するラマルティーヌ』1848年頃。Musée des
Beaux-Arts de la ville de Paris. ©Wikimedia. 臨時政府の実質的指導者
(外相)ラマルティーヌは、「私はタヒに至るまで、この血の旗を拒む」
と演説して赤旗の掲揚を拒絶、 自由主義の精神を擁護して喝采を浴びた。
そして、前後を貫いて「長い 19世紀」〔1914年まで〕全体にわたる傾向として、「保守主義」「社会主義」ともに、内実は「中道自由主義」に接近していき、最終的には、自由主義の “亜流” のようなものになってしまった。ここには、個々の運動や党派の意向を超えて、「資本主義」の経済とシステムの「ジオカルチュア」がもたらす・長期的な巨大な作用を見ないわけにいかないのです。
『フランス革命から 1848年の諸革命に至る時期には、〔…〕進歩を必然的で望ましい〔…〕と見なし〔…〕アメリカ革命に「全面的に好意を寄せる」人びと〔自由主義者と急進主義者――ギトン註〕と、このような・価値観の崩壊に抗する反革命を良しとし〔…〕フランス革命は根本的に間違いであったと考える人びと〔保守主義者――ギトン註〕との間にこそ、唯一の明確な「分れ目」があった。こうして、〔…〕急進派,ないしジャコバン,共和派,社会主義者などと自称した人びとは、たんに自由主義者の戦闘的分派と見なされた。〔…〕
この自由主義者と社会主義者の同盟は、18世紀の絶対王政に対抗する手段としての・自由と平等の思想にそのルーツをもっていた。しかも 19世紀に入ると、この2つのイデオロギーは、ともに生産性への関心を強めていくことで、同盟関係を強化していった。両者はそれぞれに、近代国家では社会政策を実行していくためには生産性の向上こそが基本的な要件だという認識をもっていたからである。「サン=シモン派〔社会主義者――ギトン註〕も、自由主義の経済学者たちも、〔…〕経済的合理主義の方向に向かっていた」〔…〕
しかし〔…〕1830年以降、自由主義者と社会主義者のあいだには明確な一線も引かれはじめ、1848年以後は深い溝ができていた。
同時に、1848年は自由主義者と保守主義者の和解の起点ともなった。〔…〕1848年以後〔…〕社会主義運動は、マルクスの考えを中心に組織されるようになっていき、批判の対象はもはや単なる貧困ではなくなった。そんなものは改良によっても改善される可能性があったからである。〔…〕
まさにこの時点で、保守主義者は、改良主義が保守的な諸目的の達成のために有効であることに気づき始めた。〔…〕保守主義者たちは、財産の保護〔…〕にもとづいて、自由主義者との提携を考えるようになった。もっとも、保守主義者たちが関心をもっていたのは、第一義的には・それが〔ギトン註――社会的・精神的な〕連続性の基礎となり、その結果・家族生活や教会やその他の社会的連帯の維持に役立つと考えたからであったのだが。〔…〕
このような実際的な提携とは別に、革命が起こるかもしれないという現実的な脅威もあった。この恐怖感』から、『「穏健な改革をするということが、ジャコバン主義に対する有効な抵抗」』であると考えられたのだ。
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.23-25. .
ロンドン万国博覧会(1851年)の「クリスタル・パレス(水晶宮)」
William Simpson (lithographer), Ackermann & Co. (publisher),
1851, V&A. ©Wikimedia.
「1789年以後は、歴史的重要性のある〔…〕唯一の真のイデオロギー」は、自由主義であったと言ってもよい。「自由主義が、世界システム上の文化ヘゲモニーを確立し、ジオカルチュアの核心となったのは、1848年以後のことであった。」
その後 20世紀においても、ニューディール式福祉国家,ファシズム国家,社会主義国家,いずれも「生産性の向上を通じた進歩を信じていて、それぞれの核心要求としていた」。それは「もともとは自由主義者の」主張であったのだが。(p.26.)
【61】 イデオロギー ―― 自由主義国家と選挙権
ここで、ウォーラーステインは「自由主義国家」を中心とする 19世紀の政治史を論じながら、かんじんの「自由主義国家」の内容(定義,それはどんなものか)について明確な説明をしていないので、読者としては、たいへんに困ります。
そこで、彼の論述から拾ってまとめてみると、まず、「自由主義国家」と名指されているのは、イギリスとフランスが 1815年から 1875年までの期間に、「中核地域の諸国のために」見習うべき「政治モデル」として掲げた国家像です。この「政治モデル」を掲げることによって、ナポレオン戦争終結後のイギリスとフランスは「きわめて深い同盟関係に入った。」1751年以来の・資本主義的世界経済のヘゲモニーをめぐる英仏の戦いがイギリスの勝利に帰したこの時から、両国は、「世界システム」全体の支配構造を固めるべく、他の「代替モデル〔オーストリアの「帝国」モデルなど〕を〔…〕一掃し、自分たちのモデルに衆目を集めるために、共通の基準を創って」宣布する必要があったのです。
「自由主義国家というモデル〔…〕は、人民主権〔「主権在民」のジオカルチュア〕の時代に資本主義的世界経済を正統化する〔…〕最も重要な」要素であった。「個人の自由と自由な市場の擁護者であった自由主義者たち」は、「国家に対する個人の権利の擁護者として普通選挙の方向に流れていたが、」それには限界があった。彼らは、より下層の民衆と労働者の力を恐れてもいたからだ。そもそも、伝統と因習に制約された社会において、「個人の解放」のための改革は、国家こそがその「担い手」でありえた。しかも、18世紀末~19世紀初めの動乱の結果として、自由主義者たちは、「国家」を通じて改革を実現しうる地位に達していた。「自由主義者たちは、功利主義の諸目的を達するために、実定法の制定に頼る」方向をとることとなった。
つまり、19世紀はじめに世界経済の「中核」を固めたイギリスとフランスが諸国に宣布した「自由主義国家」モデルとは、「個人の自由と自由な市場」を擁護し・資本主義世界経済の正当性を称揚する――権威主義的「帝国」などの他のモデルの不当性を決定的にする――ものにほかなりません。〔このことは、現在のアメリカの国際政治…とくに米民主党の…から類推すると、わかりやすい。〕
1832年パリ「6月暴動」。『レ・ミゼラブル』2012年 より。©Wikimedia.
しかし、そうだからといって、このことは、イギリスとフランスが「モデル」そのままの「自由主義国家」であったことを意味しないばかりか、それを目指したことさえ意味するものではありません。ナポレオン帝政と王政復古のフランスではもちろん、イギリスでも、19世紀前半まで、国王が大臣を任免し・行政をコントロールする権限が残っていました。
そもそも 16世紀以来、「近代国家の〔…〕支配者たちの関心は、2つの方法で国家を強化することにあった。」ひとつは、「国内で実効ある決定を下す能力」の強化。もうひとつは、国外で、「他国に自己の意志を押しつける能力を高め」逆に他国から意志を押しつけられる可能性を極小化することです。このことは、19世紀の「自由主義国家」においても、なんら異なるものではない。
ところが、19世紀に入ると、「自由主義国家」内で最も問題化したのは、「国内で実効ある決定を下す」権限を、どう配分するか、とりわけ「人民」各層のあいだでの配分であったのです。つまり、「主権在民」のジオカルチュア〔要はタテマエ!〕が定着するなかで、「選挙権」の問題が、主要な政治的争点の一つに浮上しました。(pp.32-33,21-22,35.)
『19世紀の用語法では、民主主義とは、人民主権の概念をまじめに受け取る〔「人民」全員が選挙権をもつ――ギトン註〕という意味であった。しかし、名望家たちは、それをする用意はなかった〔…〕
主権在民というスローガンをまじめに受け取れば、〔…〕政治力をもつあらゆる人びとにとって一種の脅威となり、粗野で教養のない気まぐれな大衆に従属するという・はなはだ楽しからざる見通しを抱かせられることを意味した。したがって、名望家たちにとっては、いかにも民主的に見えて・実際にはそうではない機構を、どのようにして作り上げるかが問題であった。しかもその機構は、民衆のかなりの部分の支持を取り付けるのでなければならなかった〔…〕。したがって、自由主義国家こそが、歴史的な解決策となるはずであった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,pp.33-34. .
こうして、当初は内容のあいまいな「モデル」として提示された「自由主義国家」は、しだいに、英仏各国内における政治上の係争とその決着を通じて、実質的内容を盛り込まれていったのです。具体的にはそれは、いずれかの程度における「制限選挙制」でした。
『1815年以降、フランス革命・ナポレオン時代の政治的遺産が2つ存在した。ひとつは、「恐怖政治」の記憶で、〔…〕「恐怖政治」の記憶こそが、多くの名望家たちが選挙権の拡大に反対する主な論拠』だった。
1814-15年「ウィーン会議」。オランダの風俗画。1815 作者不明。
Rijksmuseum. ©Wikimedia.
もうひとつは、労働組合などの結社の禁止だった。『フランス革命・ナポレオン戦争時代は、イギリスでは労働者階級への抑圧が強まった時代であった。1799年から 1800年にかけて一連の結社禁止法が制定された〔※〕。〔…〕
名望家たちをとくに動揺させたのは、〔ギトン註――下層からの〕抗議運動の性格が変わってきた〔…〕事実であった。18世紀末まではなお、地域的な食糧暴動が中心であったが、しだいに〔…〕主流ではなくなっていった。民衆運動は、むしろ「全国規模になって、組織化もされるようになった。〔…〕〔訳者註――1800年以後は〕新興工業地帯と結びつくようにもなった」〔…〕〔ギトン註――産業革命の機械化に反対する職人たちの〕ラダイト運動は、名望家たちを震撼させた。というのは、彼らが、〔…〕「一般の労働者を組織する際立った能力を」示したからである。〔…〕
人民主権が確認され、ナショナリズム〔国民主義――訳者註〕が広がったこの時代が、〔…〕労働者を参政権から排除することを正当化する試みに直接つながっていったのも〔…〕偶然ではない。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.34-36. .
註※「結社の禁止」: フランス革命では、「結社の禁止」は、立憲王政派からジャコバン派までが一致して断行した政策だった。というのは、アンシャン・レジーム下では、同業組合(ギルド)のような「結社」が自由参入市場の形成を阻害していたうえ、徴税請負人組合のように、絶対王政の手足として権力を振るう「結社」もあったからだ。「結社」禁止の延長上で、1791年6月「国民議会」は「ル・シャプリエ法」(労働者および職人の集合に関するデクレ)を制定し、労働者のあらゆる組合・互助団体を禁止した。禁止対象はその後、農業労働者,家事使用人に拡大され、ジャコバン政権もこれを維持し、フランスでは労働者団結の禁止は 1864年まで続いた。
制限選挙を正当化するために、「上流階級は、自らの快楽主義をさえ捨てる気になった。〔…〕名望家たちは、自らの行動様式を変えはじめた。」いわゆる「ヴィクトリアニズム」すなわち、ヴィクトリア朝時代〔1837-1901〕を中心とする 19世紀の禁欲道徳〔勤勉,禁欲,節制,貞淑の自己規律〕は、まさにそうした潜在的意図に基づくものと言えます。中流・上流の人びとは、18世紀の奔放で浪費的な貴族文化をきっぱりと捨て去り、今や禁欲居士よろしく下層に向かってお説教し、おまえらが自己規律と一貫性を持つようになるまで選挙権はお預けだ、と言い切ったのです。
19世紀前半に、英国がヨーロッパ各国に強要する形で進展した「奴隷制度と奴隷貿易の廃止」も、同じ文脈で理解することができます。それは、それまで・生きた人間とは認められなかった人々を「人間界」に受け入れることを意味しましたが、同時に、「人間界」の内部に “差別の障壁” を設けることを意味しました。「1780年から 1810年までの間に、アジア人,ユーラシア人,アフリカ人」ばかりか「非イギリス系・非プロテスタント系のヨーロッパ人さえも」植民地やアメリカ諸国の「政府の中枢から排除されるようになった。」「アジア人,アフリカ人,」中核地域以外のヨーロッパ人に対する「侮蔑がどんどん強化され」た。正統であるべき「政治権力の源泉が、現地人の腐敗に汚染され」てはならない、というのだった。
当然のことながら、同じ “差別と偏見” は、本国国内の労働者にも向けられます。なぜなら、社会と人の心に “差別の障壁” が築かれたことが決定的なのであって、それが誰に向けられるかは、その時々の都合しだいだからです。(pp.36-37.)
【62】 19世紀前半の西洋音楽
ヨーロッパの音楽は、古典主義からロマン主義へグラデーションを描いて移行してゆく時期ですが、じっさいに、この荒っぽいスケッチで取り上げるに価する名曲を時系列に並べてみると、ベートーヴェンという巨星が、その存命中は “名曲” を独占してしまっていることに驚きます。むろん、同時代にハヤった古典主義の音楽家は、他にも多数いるのですが、とても、巨星と肩を並べるような作品は見当たりません。
そういうわけで、まずは 19世紀の幕開けにふさわしい一曲↓。ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 “春”」1800-01年作曲 から第1楽章。
ベートーヴェンといえば、あの時代がかった壮大な交響楽を誰しも思い浮かべるのですが、本人が最も好んだのは、↑こうしたロマンチックで軽快な音楽ではなかったかと思うのです。それでも、注意深く聴いていただければ、はしばしに、有名な交響曲の細部にも通ずる数々の機微を発見することと思います。
ベートーヴェンを有名にした重厚壮大な交響曲や激情的なピアノ曲は、本人の音楽というよりは、本人の感性や志向と、彼を取り巻く社会〔「時代」というべきか〕との鬩ぎ合いから生まれたものだと、私は理解しています。ベートーヴェンほど “政治的な” 作曲家はいないのです。しかも、彼の信条は「中道自由主義」で一貫していたと言えます〔曲目を挙げて証明するのはかんたんですが、読者それぞれにお任せしましょう〕。時代のど真ん中を貫いていた。ところが、彼が活動したウィーンでは、宮廷も貴族も街の庶民も、自由主義ではなく保守主義、いやもっと後ろを向いた「帝国再興」を願っていたのです。ベートーヴェンの一貫性は、ほんとうに驚くべきことです。(「ブレない」自民党が笑える)
交響曲第5番 1808年 から第4楽章 アレグロ。
さて、交響曲,ピアノ曲といった分野では、ベートーヴェンと肩を並べる作品はなかなか見いだせないこの時期ですが、オペラや歌曲となると別です。まずは、ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』(1816年初演) から、フィガロのアリア「私は町の何でも屋」:
歌曲と言えばシューベルトですが、彼のドイツ・リートは、歌詞の意味が解らずに聴いても、半分耳に入っていないのと同じなのです。舞台の動きを見ていればどうにか分かるオペラとは、大きく違います。そこで、字幕付きの動画を探してみたのですが、いいものがない。ようやく見つけたのが、これ↓。歌手もフィッシャー=ディースカウ〔声量が衰える前の!〕で問題なし。『美しき水車小屋の娘』1823年 から「好きな色」:
↑歌詞の意味を追いながら聴いていると、悲しいメロディーと・恋に浮かれた陽気な歌詞との齟齬に気づかないでしょうか? 近代人特有の「心性の分裂」が、はっきりと現れています。この歌集の最後には、「水車小屋の娘」は狩人と婚約してしまい、彼女に思いを寄せていた1人称の青年は、河の流れに身を横たえて自タヒする結末なのです。
ロシア軍のワルシャワ攻撃(1831年)。Georg Benedikt Wunder:
"The assault of Warsaw on 7th September 1831", 1831-46.
National Library of Poland. ©Wikimedia.
1830年のパリ「七月革命」は東ヨーロッパにも波及し、ポーランド=リトワニアでは、ロシア帝国の支配に抗する「11月蜂起」が起きました。蜂起は、翌年9月には鎮圧されてしまうのですが、この間、パリに亡命していたショパンは、身体が虚弱で祖国の抵抗に参加できないのが悔しい、と友人たちに漏らしつつ、多数の情熱的なピアノ曲を書きあげています。
エチュード第12番 ハ短調「革命」1831年↓
ロマン主義の極致というべきこの曲↓も、この際聴いておくべきでしょう。太陽が雲の間をめぐるような・とりとめのない「感情の交代」は、この曲からも聞き取れます。メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調」1844年 から第1楽章。
1848年のパリ「二月革命」はヨーロッパじゅうに波及しました。音楽の都ウィーンも例外ではありませんでした。その際、あの「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世〔1825-1899〕が、父ヨハン1世〔ワルツの父〕とともに革命に参加していたことは、音楽ファンにも知られていないでしょう。くわしくはこちらで。
ここでは、青年時代の「ワルツ王」が革命群衆のために作曲した「革命行進曲」(1848年作曲)を聴いておきましょう:
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!