オーギュスト・ロダンジャン・ド・フィエンヌ――

カレーの市民より」1886年。神戸市立美術館。©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 


【14】 方法の問題 ―― 各国発展論と「システム」論

 

 

 アメリカ合州国は、昨年までの民主党政権時代、「民主主義の価値」「自由の価値」といったお題目を盛んに振りかざしておりました。それが今や “張り子のトラ” のもとで、お世辞抜きに国益を追求する「強いアメリカ」だとか(嗤)。どちらも結局は同じことです。要は周辺から剰余価値を吸い上げたい、できるだけ他人に邪魔されずにそうしたい。そのために、口先の理屈で正当化するか、剥き出しの脅迫や暴力を用いるか、その違いにすぎません。

 

 しかし、私の関心は依然としてお題目「価値観」のほうにあります。アメリカは決してそれを放棄していないし、依然としてそれが “同盟国” にたいする暗黙の拘束になっているからです。思えば、お題目は第2次大戦後――合州国のヘゲモニー獲得期――の「開発援助」から始まっていました。アメリカはお題目を唱えながら、ヘゲモニー争奪の敵手であった日・独とともに自ら蹂躙した・ヨーロッパとアジアに、「開発」と「発展」の夢をばらまきました。アメリカでは豚の餌にする脱脂粉乳を、私たちは毎日飲まされ、飲み残すと廊下に立たされました。反抗児として封じ込められた中国大陸は、飢餓に呻吟しました。

 

 そのような「世界システム」の動向は、当時の社会科学に直接反映しました。「資本主義の精神」にかんするウェーバーのテーゼがもてはやされ、日本では、それとマルクス――正確に言えばスターリン――とを混合した「大塚史学」が、左から右まで、敬意をもって信奉されました。ウォーラーステインの叙述↓を見れば、これも決して日本独自の思索などではなく、アメリカの色濃い影響を受けた結果だったということがわかります。

 

 

ウェーバーのプロテスタントの倫理に関する書物は、〔…〕つぎのような意味に解釈されていた。すなわち、1945年以後に近代化とか、〔…〕開発などと呼ばれ〔…〕たものを達成する前提として、何か特定の価値観が〔ギトン註――その国,地域に〕実在していなければならない〔…〕、というものである。こうした価値観の実在ないし成立を、国別に検証してゆくのが、当時の一般的な学問的手続きであった。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.x. .

 


 そこで、極端に言えば、これから「開発」に向かおうとする諸国の人びとの心性を、「プロテスタント的倹約精神」の鋳型にむりやり嵌め込むことが行なわれました。「資本主義の精神」への近さをモノサシにして、この国は有望だ、この民族はその次だ、この連中は程遠い、といった品定めが行なわれた。江戸時代の儒学の流派やら「心学」やらが、日本人のいち早い近代化を可能にした資質として掘り起こされたりもしました。二宮金次郎の銅像が小学校の校庭の隅で忘れられていた時に、大学や財界人の教養塾では、「社畜」育成のための新たな金次郎が、造形されつつあったのです。

 

 このような動向に対してウォーラーステインが持ち出したのは、「システム分析」という新たな分析手法でした。個々の国や地域の動向は、緊密な「分業圏」としてつながっている「システム」全体の動きの一部として見たときに初めて正当に理解される。また、資本主義の「精神」は、それが実在するとしても、経済システムや政治的な働きかけの結果である、と。

 

 

『問題の価値観は、起こりつつある経済の変容の結果として生じたもので、それに先行したわけではない〔…〕


 生産性の向上や富の蓄積で、いくつかの国が〔ギトン註――資本主義発展の〕リーダーとなった理由を解明できるのは、さまざまな国の相互連関のなかにおいてのみである、』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.xi. .

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

 

 

 ウォーラーステインは、1970年に40歳になるまで、植民地時代から現今にいたるアフリカをフィールドとして社会研究を行ない、アメリカ合州国のアフリカ研究をリードする地位に立っていました。その彼が、近世ヨーロッパに淵源する「世界システム」の分析という一見まったく別の分野に向かったのは、「開発主義」に疑問を呈する↑上記の思索のもとで、現在のアフリカを理解するためには、地域を組み込んできた「世界システム」を、その開始にさかのぼって全体的に解明する必要があると考えたからです。

 

 「植民地状況の一般的特質を見つけ出し、その[自然史]とでもいうべきものを叙述したい。私はそう思った。しかしそうなると、世界システムに属する〔…〕要因は不変と仮定してかからざるをえない」。そうやって、さまざまな地域ごとに、外からの要因は同じと仮定してもっぱら内部的な動向を分析の対象とし、反植民地運動の発展と植民地支配の崩壊を追跡してゆくことになります。独立までの過程は、そのやり方で、どうにか叙述することができました。

 

 ところが、独立後にかんしては、そうは行かなかったのです。「独立後の時期を扱った時は」、植民地支配機構の崩壊とは「逆の問題を俎上にのせた。すなわちそこでは、合法政府はどのようにして樹立されるか、市民のあいだにどのようにして統一国家の国民としての意識を広めうるか、という問題を扱ったのである。しかし、この〔…〕研究は難しい問題にぶつかった。」アジア・アフリカ諸国の現代政治史などというものは、「新聞の見出しを追いかけているのと変わりがない」歴史的深みのないものになりがちだった。そこで、研究の土台となる共通認識を求めて対象地域を広げていった。アフリカの新興独立国との関係で関心の対象になるのは、「形式的には独立したものの、国民的統合とでも呼ぶべき過程にはいまだに成功していない時期の諸国家」だった。

 

 ラテンアメリカに視野が及ぶと、「その文化は〔…〕ヨーロッパの伝統とはるかに密接な関係をもっていた。」しかも、「独立して」からすでに「150年が経過していた」。同様にして、東欧諸国も、また南北戦争までのアメリカ合州国にも、「国民的統合」の過程があった。こうして「私は、近代初頭のヨーロッパに目を向けざるをえなくなったのである。」

 

 しかし、そこで再び「発展段階論」の問題にぶつかることになります。何百年も前の西ヨーロッパと、現代のアジア・アフリカ諸国とを〈同じ段階〉と見なすことがはたして適切か、という問題です。「素人ならこんな発想にはついてゆけないだろう」。たとえば「17世紀のフランス」と「20世紀のインド〔…〕これほど異質な2つのものを比較しようという〔…〕着想は、拒否するほうが正しいとも思われた。」むしろ、「特定の時代の世界的関連」という土俵の上で、同時代的比較をしたほうがよいように思われた。

 

 こうして、「社会変動は、社会システムのなかでしか分析しえない、」そして、「唯一の社会システム世界システムだ、〔…〕と悟った」。(pp.4-6.)

 

 しかしながら、ここには大きな問題が2つ残されているように思われます。 ひとつは、「世界システム分析」では、「発展段階」という見方はまったく無効なのか? ということです。もしもそうだとすれば、資本主義成立期の西ヨーロッパにおける「国民的統合」過程の分析は、植民地から独立した現代アジア・アフリカ諸国の「国民的統合」の問題,合法的政府とそれを支える「国民」意識,それらの安定/不安定――といった問題には役立たないことになってしまう。もちろんそんなことはないはずです。

 

 「発展段階論」の弊害は、発展段階を唯一のモノサシとしたり、安易な異時比較によって一方的な結論を出そうとすることで生じます。が、同時代的システムにおける関連性を基本に据えつつ、さまざまな時代にさまざまな条件のもとで・「国民的統合」がどのように成立しうるか,安定しうるか、といったことを分析することは可能です。近世西ヨーロッパで遂行された過程が、それとは異なる条件のもとでは、どう遂行されるか、どんな困難に逢着するだろうか、といった考察は有益であるはずです。

 

 

Alfredo Roque Gameiro 『リスボンの征服』1917年。©Wikimedia.

 

 

  もうひとつの問題は、「近代世界システム」に包摂される以前の「外部」を、どう見るか、ということです。ウォーラーステインによれば、「長い16世紀」に環大西洋の一部で成立した資本主義的「世界システム」は、その後数世紀かけて地球上に拡大しました。東アジアがそこに包摂されたのは、19世紀半ばないし後半のことです。それ以前においては、東アジア諸国は「近代世界システム」の「外部」にあったのです。

 

 たとえば、その時代の中国は、ウォーラーステインの言う意味では「資本主義」でないとしても、それに近い経済活動は、すでにありました。ウォーラーステイン自身、代(10-12世紀)の中国は「帝国」であるだけでなく、すでに「世界経済」だったと言っています。またたとえば、16世紀の東・南シナ海では、おもにスペインやオランダの船が仲介して国際貿易が行なわれていました。日本にもたらされた舶載品の多くは、アジアの産品でした。これは、「近代世界システム」内の「分業」ではなく、あくまでもその「外部」です。なぜなら、交易品目が《奢侈品》に限られていたからです。とすると、この国際貿易圏は何なのか? ……「近代世界システム」の一部でないとすると、中華世界帝国」に含まれるのか? それも考えにくいでしょう。‥‥

 

  については、このあと【16】節でも触れたうえ、次回に1回分を割 さ いて考えてみたいと思います。

 

 


【15】 方法の問題 ――「客観的」な歴史研究は可能か?

 

 

主観的なかかわりあいのない社会科学研究など、ありえない、というのが私の信念である。しかしだからといって、〔…〕客観的ではありえないというのではない。要するに、何よりもまず、いかにして用語の概念を明確にするかが問題なのだ。〔…〕

 

 過去について語るということは、それが実際に〔いま――訳者註〕いかにあるかを語ることであって、いかにあったかを語ることなど不可能である。なぜなら、過去を語るという行為は、現に生きている人間が行なう・現在の社会的行為であり、現にある社会システムに影響を与えるものだからである。

 

 われわれはすべて、自己の背後にあるもの,自分が受けた教育,自分のパーソナリティと社会的役割,活動の場となる社会の構造からくる圧力 などによって不可避的に規定されている。〔…〕ひとつの社会システムとそのシステムを構成するすべての制度――〔…〕国家もその一例である――は、広範な社会集団の活動〔と抗争――ギトン註〕の場である。〔…〕われわれはすべて、複数の集団に属しているのだから、どの集団への忠誠を優先すべきか、決断を迫られる〔…〕この決断を避けることはできない。〔…〕

 

 しかし、研究者は、特定の集団の弁護人になればよいというわけ〔…〕でもない。研究者や科学者〔…〕の役目は、〔…〕主観的な関心の範囲で、自分の研究対象の現実態を析出し、この分析から一般理論を引き出すことにある。究極的には、この一般理論を〔ギトン註――現在/将来の〕特定の事象に適用してみることも、彼の役目である。〔…〕

 

 現象の「現実態」と私が呼ぶのは、たとえば考古学者が〔…〕発掘した遺物』を、『政府の政治的主張を支持するために、あえてある社会集団のものだと〔…〕強弁する、といった〔…〕ことがらを指すのではない。私が言いたいのは、そもそも〔…〕この考古学者の営み全体――〔…〕考古学への社会的投資,研究の方向づけ,概念装置,結果のまとめ方とその流布のされ方など――が、いまの社会の諸関係に規定されているということである。客観性とは、こうした枠組みのなかでせいぜい正直であるということにほかならない。

 

 

出土した縄文中期土器。盛岡市遺跡の学び館。

 

 

 客観性は、いわば全体としての社会システムの函数である。システムが偏向していて、特定のタイプの研究活動を特定の集団に独占させるようだと、〔…〕「偏向」をもった〔ギトン註――研究〕結果が出て来よう。つまり、客観性とは、このような活動への社会的投資配分のヴェクトル〔※〕になっている。

 

 世界システムを構成する主要な集団すべてからバランスよく人を出して投資配分を決めることが保証されれば、客観性も十分保証される。しかし、客観性とはそういうものだとすると、『今日までのところ、客観的な社会科学はひとつも成立していないことになる。近い将来に〔…〕成立する〔…〕とも思われない。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,pp.9-10. .

 註※「ヴェクトル」: 複数の要素からなり、各要素の大きさによって・空間内で指向する向きが決まる「向きを持った量」のこと。たとえば、軍からの投資量(a),産業界からの投資量(b),学界固有の投資量(c)からなる空間を考えると、ある専門科学の《客観性》A(a,b,c)は、軍・産・学の投資量のバランスによって一定の利害を志向するものであって、社会的利害から自由な純粋「客観性」などというものはありえない。

 


 およそ、この社会に生きる人間の誰ひとりとして、完璧に「客観的」であることなどできない。社会システムのなかで生まれ育ち,教育を受け、意識される/されないさまざまな圧力を受けて生きているというだけで、人はあまりにも多くの制約と規定を受け,方向づけられているからです。しかしそれでもなお、人は「客観的」であろうと努めることはできるし、そうすべきだ――というのが、ウォーラーステインの基本的な考え方です。


 この点は、ぜひ誤解しないでいただきたいと思います。ウォーラーステインは、客観性を軽視したり、真理の存在を否定するような無責任主義ではないのです。彼は↑上の引用でも、「客観的であり得ないというのではない。」「研究者は、特定の集団の弁護人になればよいというものではない。」と述べています。彼の態度は、「客観性」と公正を装いながら、特定の党派の代理人をひたすら勤めようとする(日本にはとても多い)無責任知識人の・対極にあるものです。

 

 たしかに、彼の歴史観は、大ざっぱに言えば、〈真実の過去を確証することは不可能であり、歴史とは、過去ではなく現在の探究である〉とする・いわゆる相対主義です。が、この点で著名なE・H・カーのそれとは、若干ニュアンスが異なることを理解していただきたいのです。

 

 重要な点は、ウォーラーステインが、歴史研究において・あるべき「客観性」というものを、想定していることです。つまり、真理も客観も、多数決によって決めることはできない。多数決では決まらないし、それに到達できるかどうかは、個人的努力ではなく、社会システムによって決定されてしまっている。にもかかわらず、あるべき・真の「客観性」それじたいは、まちがえなく存在する。残念ながら、「世界システム」の現状のはたらきは、客観的」な社会科学の存在を可能にするようなものからは、遠く隔たっているのだけれども。

 

 とはいえ、可能な限り客観的」であるために、私たちは、どうすればよいのか? どうすることができるのか? ウォーラーステインによれば、それは、自分の持つ偏 かたよ り・被規定性にたいして、「せいぜい正直になることだ」というのです。自分の決断する方向:つまり、どんな世界を望み、どんな社会集団を擁護しようとするのか、ということを、可能な限り明らかにしたうえで;「客観的」であろうとして得た結論を主張すること。

 

 つまり、客観的であることが絶望的なまでに困難な状況において、実践的に最も「客観的」な態度は、自分は公平だ、偏っていない、‥などと見せかけることではない。そうではなくて、自分がどのように「主観的」であるのかを、読者に解るように明瞭に示すことなのです。



『ひとが自分の所属しているシステムの発展過程に、理知をはたらかせて自ら参与しうるか否かは、彼が全体のシステムを十分に認識しうるかどうかにかかっている。〔…〕より平等な、より自由な世界を望む者は、そのような状況を現出できるような諸条件が何であるかを知らなければならない。そのためには、近代世界システムの基本性格と・今日に至るまでのその発展過程とを明らかにしなければならないだろう。〔…〕将来どうなってゆく可能性があるかをも、解明しなければなるまい。このような知識が得られれば、それはひとつの力となりえよう。〔…〕世界の人口のなかで多数を占めながら被抑圧状態におかれている人びとの諸集団にとってこそ、それは有益たりえよう。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,pp.10-11. .

 

 

オランダ領・ジャワ島強制栽培制度。コーヒーの摘み取り。©dok-istimewa.

 

 


【16】 方法の問題 ――「世界システム」の「外部」

 

 

 すでに(1) の冒頭で、日本 16世紀「南蛮貿易」の例を出して述べておいたことですが、「近代世界システム」外部の交易圏について、ウォーラーステインの理論的説明を見ておきたいと思います。

 

 

資本主義的「世界経済」には、内と外を分かつリアルな境界がある、』アジアは、『その外側にある・いわゆる外延部である。『そこで、世界経済周辺地域と外延部とではどう違うのかを、具体的に述べよう〔…〕

 

 基本的な論点は、〔…〕「かさばる商品」の交易(bulky trade)穀物木材のような、価格に比して・かさばったり、重かったりする商品。近世のヨーロッパで最も目立ったのは、バルト海域と北欧からの輸入品であった。――訳者註〕と、貴重(奢侈)品香料――訳者註〕のそれとを区別できるということであり、〔…〕前者は不等価交換に基いているということである。〔…〕

 

 この区分を利用して、私としては、〔ギトン註――近代世界システムの〕境界線を設定することができた。16世紀、ポーランドハンガリーは、近代世界システムの内部にあったが、ロシアオスマン帝国は、その外にあった、〔…〕ブラジルは内部であったが、インド亜大陸は、なお〔…〕外部にあった。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.xvii. .

 

 

 つまり、「資本主義世界経済」(近代世界システム)の内部と・その外部との交易は、《奢侈品》の交易であるのに対し、内部の地域どうしの交易は、「かさばる商品」すなわち《生活必需品》の大量貿易が主要なものだ、ということです。もしも、ある地域が、近代世界システムの内部と、《生活必需品》の貿易を行なうようになると、それはその地域が、「資本主義世界経済」の分業体制に組み込まれたことを意味します。つまり、その時から、その地域は、「近代世界システム」の一部となるのです。

 

 ここで注意する必要があるのは、「かさばる商品」と《奢侈品》の区別は、伝統的な経済史学で言う「局地的市場」と「遠隔地交易」の区別とは異なる、ということです。「バルト海沿岸」「北欧」と西ヨーロッパの交易は、距離的に遠いですから「遠隔地交易」ですが、主要交易品は「穀物」「木材」などの「かさばる商品」であり、これらの地域はみな、すでに 16世紀から「近代世界システム」の内部なのです。

 

 その後、ウォーラーステインが提唱した・「かさばる商品」と《奢侈品》の区別に対してはさまざまな批判があり、ウォーラーステイン自身・2011年現在では、「資本主義世界経済への[組み込み]の過程については、もっと複雑なことを考える必要がある」と述べています。とはいえ、「世界システム」の外側にありながら・世界システム」と「ある種の交易関係を持っている地域・が存在する」という考え方は、「重要な考え方として、いまも生きている。」(pp.xvii-xviii.)


 そこで、すでに述べたように、残された重要な問題としては、18世紀以前のロシアや中国は、「近代世界システム」の外側で、それぞれ独自の「世界経済」を構成してはいなかっただろうか? 中国などの《帝国》と、その周辺諸国との交易関係については、理論的にどう考えたらよいか? 16世紀に西洋人(南蛮船)が仲介した東・南シナ海の交易や、メキシコ⇔東アジア間の交易は、どう考えたらよいのか? ‥‥こうした諸問題があります。

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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