オランダ東インド会社商船「アムステルダム号」。アムステルダム国立海洋博物館前
【1】 全1800ページの大著;「近代」の始まり
ウォーラーステイン『近代世界システム』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳは、翻訳本で合計1800ページの大著ですが、便利なことに、第Ⅰ~Ⅲ巻には、それぞれ内容の要約をふくむ「序」があり、第Ⅳ巻の「序」には、全巻各章の構成が述べられています。そこで、これらと第Ⅰ巻冒頭の「序章」・末尾の「理論的総括」を利用して、たいへんに大ざっぱなレヴューをしておきたいと思います。
ウォーラーステインによれば、「近代世界システム」、つまり資本主義の世界が始まったのは「長い 16世紀」のことでした。「長い 16世紀」とは、15世紀半ば頃から 17世紀半ば頃までを大ざっぱに指す言い方で、ブローデルが最初に使ったのを引き継いでいます。日本史で言えば、「応仁の乱」から戦国時代と江戸開府を経て「由井正雪の乱」まで。この期間に、地中海~ヨーロッパとカリブ海域,ブラジルは、ひとつの分業圏に統合され、西ヨーロッパを「中核」とし、東欧,新大陸を「周辺」とし、「周辺」から「中核」に剰余価値が吸い上げられてゆく垂直分業の体制が成立しました。この不均等化システムこそが、「資本主義」にほかなりません。
このころ、日本はじめ東アジア域にまで、ポルトガル人,イスパニア人,オランダ人が交易に訪れていました。しかし、アジア、つまり喜望峰の東側は、この段階ではまだ「周辺」でさえなく、「世界システム」の外部にありました。「外部」だという意味は、まだ「資本主義」による搾取は及んでいないということです。
じっさい、遠隔地交易を行なっていた両側――西ヨーロッパと東アジア――の交易条件は対等でした。主な交易品目――重量のわりに高く売れる《奢侈品》――は、供給地では安く手に入り、消費地ではべらぼうな高価で取引される物ばかりです。南蛮船の商人は、日本には鉄砲,火薬,皮革,ガラスなどを売り込み、銀,銅,刀剣,漆器などを買い付けていきました。どちらか一方の地域が一方的に剰余価値を獲得する、というものではなかったのです。大量に売りさばくことによって巨利をもたらす《日常必需品》――穀物,衣料などの “かさばる物”――を交易するには、当時の造船/航海技術のもとでは、ヨーロッパとアジアは遠すぎました。《日常必需品》の交易が中心を占めた時に、「外部」は、「世界システム」の内部である「周辺」に組み込まれます。
狩野内膳「南蛮人渡来図屏風」1588-1616、神戸市立博物館。©Wikimedia.
【2】 「世界システム」とは何か
『世界システムとは、一つの社会システムである。〔…〕固有の境界と組織構造と構成員、何らかの法体系、一体感などをもった社会システムである。このシステムの内部では、相矛盾する諸力が作用しあって、システム全体に活力を与えているのであり、緊張によって凝集性が保たれているあいだはよいが、各グループが自己の利益に沿ってこのシステムを変形しようと企てはじめると、システム全体の崩壊をみちびく。
つまり、このシステムには寿命があるのだ。〔…〕言い換えれば、それは一つの有機体なのである。〔…〕
社会システムが社会システムであるためには、その内部での生活がほとんど自給的で、その発展のダイナミクスが主として内発的なものであることが必要である。』「主として」内発的とは、仮に『何らかの理由でこのシステムがすべての外部の諸力から切り離されたとしても〔…〕このシステムは本質的にそれまでと同じように機能しつづけるだろうということである。〔…〕
このような基準を用いると、ふつう社会システムと呼ばれているもの――「部族」,共同体,国民国家など――が、どれもたいてい実際には、トータルなシステムではないことがわかる。〔…〕逆に、ほんとうに意味のある〔リアルな――著者註〕システムといえば、ひとつには、比較的小規模な・高度に自立的で自給的な経済――それも、恒常的に賃租を要求するシステムに属していないもの――〔「ミニシステム」――ギトン註〕であり、いま一つは世界システムだ、〔…〕世界システムは、広汎な分業体制を基礎として、経済的・物質的な自給が可能になっていること、またその内部に多数の文化を含んでいるという事実によって識別される。〔…〕
これまでのところ、世界システムといえるものには2種類しかなかった〔…〕ひとつは世界帝国である。世界帝国にあっては、いかに実効的支配と言うには程遠かろうと、〔…〕領域全体に〔…〕単一の政治システムが作用している。
これに対して、もう一つの世界システムでは、全空間〔…〕を覆う単一の政治システムが欠落している。〔…〕これを「世界経済」と呼ぶ。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.408-409. .
柄谷行人氏をレヴューしていた時〔⇒:『帝国の構造』(3) (8)〕からおなじみの「システム」分類ですが、ここでちょっと気になるのは、ここでのウォーラーステインの「世界=帝国」の定義だと、《帝国》は「周辺」を含んでいないことになります。たとえば、奈良朝の日本や新羅を除いた「唐」の領域だけが《帝国》であることになる。古代ギリシャや中世ヨーロッパは、オリエント《帝国》やローマ《帝国》の「周辺」ないし「亜周辺」――という柄谷氏の規定も成り立ちません。
初期のウォーラーステインは、そういう考え方だったのかもしれません。そのほうが、「分業の一体性」という「世界システム」の性格付けに合った・素直な見方にも思えます。わずかな《奢侈品》貿易だけで「中華」とつながった「周辺」部は、《帝国》システムの「外部」だと見たほうが、「近代世界システム」の場合と矛盾なく一貫します。
しかし他方で、「中華」の「周辺」にたいする政治的・文化的・技術的インパクトの大きさは、「周辺」をシステムの「外部」だとしたのでは把えきれないようにも思います。
このことは、ポルトガル/イスパニア人が仲介した 16世紀以降の東・南シナ海貿易――さらにメキシコ銀の交易――を、どう考えるか?‥という問題にも及ぶでしょう。
ピーテル・ブリューゲル(父)「ナポリ湾の海戦」1558-62。©Wikimedia.
『ひとつの「世界経済」が 500年も生きながらえながら、世界帝国に転化しなかったというのは、まさに近代世界システムの特性であった。〔…〕これこそ、資本主義という名の経済組織が有する政治面での特性にほかならない。「世界経済」がその内部に、単一のではなく多数の政治システムを含んでいたからこそ、資本主義は繁栄しえたのである。
〔…〕資本主義とは、経済的損失を政治体がたえず吸収しながら、経済的利得は「私人」に〔ギトン註――不均等に〕分配されるようなしくみを基礎としている。〔…〕経済的要因が、いかなる政治体にも完全には支配しきれないほど広い範囲にわたって作用している〔…〕こうなると資本家は、自由に術策をめぐらすことのできる構造的基礎を与えられるのである。こうして、〔…〕「世界経済」は、たえまなく発展することが可能になる〔…〕
これ〔「中核」と「周辺」に不均等に分配する資本主義システム――ギトン註〕とは違った分配制度をもつ世界システムがありうるとすれば、それは、いろいろなレヴェルで政治上の決定権と経済上のそれが統合されているような形態のもの〔…〕それは、第3の種類の〔ギトン註――《帝国》とも《世界経済》とも異なる・未知の〕世界システムということになる。〔…〕
〔ギトン註――時代ごとの〕「世界経済」の規模が、技術水準〔…〕とりわけ域内の交通・通信の水準に対応していることには注意しておく必要がある。この水準が絶え間なく〔ギトン註――進歩または退化いずれかに〕変動〔…〕するから、「世界経済」の境界は常に流動的であった〔拡張と収縮をくりかえした――ギトン註〕。〔…〕
世界システムは、広汎な分業をふくむシステム』であり、職種に基く分業のみならず、『地理的な分業をも含んでいる。』《帝国》では職種による分業が重要であったのに対し、資本主義的な世界=経済では、地理的分業がとりわけ重要である。『地理的偏差が生じる〔…〕大きな理由は、地域によってそれぞれに固有の社会的労働の組織が成立したことにある。つまり、システムの内部で特定の集団が他人の労働を搾取する〔…〕能力を強め、それを正当化するための組織が生まれるのだが、そうした組織にも地域差があり、その差が経済上の役割の地域差をもたらすのである。〔たとえば、近世東欧における「再版農奴制」(賦役労働の強化)――ギトン註〕〔…〕
「世界経済」の政治機構は、地理的な位置関係を基準にした文化をつくり上げる傾向がある。というのは、「世界経済」のなかでは、〔ギトン註――単一の中央権力が支配する《帝国》とは異なって、〕どの集団にとっても、まず掌握しうる政治権力』は『各国の国家機構〔…〕だったからである。〔ギトン註――各国内/地域内で〕文化の均質化が進むと、指導的な集団には有利だから、彼らは、文化的・国民的一体感を生み出すように圧力をかけるのである。
モンス・デジデリオ「ベルクロワの丘からのメスの眺め」17世紀。©Wikimedia.
「世界経済」の先進地帯――本書では「中核諸国」〔…〕――では強力な国家機構がつくられ、同時に国民文化が形成されてくる。それは〔ギトン註――各国内を均質化するだけでなく〕また世界システム内に生じる格差を温存し、〔…〕格差を〔…〕覆い隠し、正当化するイデオロギー装置としても機能するのである。〔…〕
「世界経済」』においては、『より高度な技術とより大きな資本を要する職種は、高位に位置づけられた地域〔「中核」地域――ギトン註〕が占めるのである。資本主義的「世界経済」は基本的に、「生 なま の」労働力よりは、蓄積された資本〔機械設備,先端技術,投資された株式,借入金――ギトン註〕――資本としての人間〔高等教育を受けた労働者など――ギトン註〕を含めて――に、より多くの報酬を与えるものだから、職種の地理的分布の不均等性は、いつまでも温存されることになる。市場の諸力も、この傾向を〔…〕強化する方向に作用する。「世界経済」には中央の政治機構がないので、報酬の不均等な配分を是正することは至難である。
したがって「世界経済」は、まさにその発展過程で、地域間の経済的・社会的格差を拡大する傾向がある。ただしこの事実を覆い隠す要素として、「世界経済」の発展過程が技術進歩を生みだし、その結果「世界経済」の境界が拡がってゆくという可能性がある。この場合には、〔…〕全体としての「世界経済」内の報酬の地域間格差がどんどん拡大し』つつ、『個々の地域は〔…〕自己の構造的な役割をより有利なものに変えてゆく〔「周辺」から「半周辺」へ、さらに「中核」へと――ギトン註〕ことができる。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.409-412. .
「近代の[世界経済]は、資本主義的[世界経済]であったし、そうでしかありえなかった」。「近代世界システム」の中には「発達した強制労働にもとづく雑多な形態の〔…〕農業」があった。そこには、賃労働よりも多くの奴隷制農場,農奴制賦役労働,地主小作制,作付け品目と買い上げ価格を統制された自作小農民などがあった。しかし、著者は、それらに「半封建的」という語を冠せることは避けた。それらはみな、資本主義的「世界=経済」に包摂され、それによって形態を固定された労働組織だったからだ。それらは「半封建的農業」ではなく「資本主義農業」だったのだ。
同様にして、著者は、20世紀には「[世界経済]の枠内に複数の社会主義的国民経済が存在」したという考え方を採らない。20世紀の「社会主義国」とは、資本主義的「[世界=経済]のなかにあるいくつかの国家機構を社会主義運動が握っている」ということにすぎない。そこにおいても、他のどこにおいても、資本主義的「世界システム」のなかで機能している経済も政治も文化も、「階級や身分集団」のような社会的存在も、すべてが資本主義的「世界システム」の要素として資本主義的に機能している。(p.412.)
モンス・デジデリオ(フランソワ・ノメ)「冥界の風景」1622年。©Wikimedia.
【3】 「近代世界システム」の時期区分
『近代世界システム』4巻の対象年代と副題は、つぎのようになっています:
第Ⅰ巻 〔1000年頃~1640年頃〕
農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立
第Ⅱ巻 1600年~1750年
重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集
第Ⅲ巻 1730年代~1840年代
「資本主義的世界経済」の再拡大
第Ⅳ巻 1789年~1914年 中道自由主義の勝利
第Ⅰ巻はタイトルに年代の記載がありませんが、内容を見ると〔 〕のようになります。第Ⅴ巻以降についても、ウォーラーステインは生前に執筆計画を公表していました。それによると(Ⅳ,p.8):
第Ⅴ巻 1873年~1968年ないし1989年 列強によるアフリカ分割と民族解放運動の勃興、アメリカ合州国とドイツによる経済的・政治的ヘゲモニー争い、アメリカのヘゲモニー確立、「資本主義的世界経済」への東アジアの組み込みとその周辺化
第Ⅵ巻 1945年ないし1968年~2050年頃 20世紀末以降の東アジアの再興、「資本主義的世界経済」の構造的危機
2050年といえば、ウォーラーステインは、生きていれば120歳ですから、長生きして書き続けるつもりだったのですね。最終の第Ⅵ巻は、「カオス」の収束を見定めて書くつもりだったのでしょう。そこにおいて、「東アジア」が重要な役割を演ずると見ていたようです。ウォーラーステインは、「日・中・韓」を一つの塊として見ていました。
眼につくのは、各巻それぞれ、隣りの巻とのあいだで年代がかぶっていることです。時期区分というのは、ある年に突然に時代が転換するというものではなく、一定幅の年代のうちにグラデーションを描いて次の時代へ移っていくものだ。ある時期の開始について述べようとすれば、前の時期の終わり頃に起きたことがらにも言及しなければならなくなる、というウォーラーステインの考えによるのでしょう。
ということは、それと同時に、時期区分は単に便宜的に区切ったものではなくて、ある時期には、その時期にだけ通用する固有のテーマがある。あるいは、その時期固有の歴史的趨勢ないし運動法則がある。ウォーラーステインは、そういうパースペクティヴをもっていることが分かります。
そこで、第Ⅰ,Ⅱ巻について、より内容に即した時期区分を見ると、つぎのようになります:(Ⅱ,pp.ix-xix):
〔1〕 1000年ないし 1100年~1450年。
この時期は、ふつう「中世末」と言われる時代です。資本主義「世界システム」すなわち資本主義的「世界=経済」がまだ成立していない時代です。この時期のヨーロッパは、ウォーラーステインによれば、「政治的中心のない世界=帝国」というべき状態でした。
この時期と次の時期の年代を決めているのは「ロジスティック波動」です。「ロジスティック波動」は、「コンドラチェフ循環」よりもさらに長い最長期の経済波動で、250~450年を1周期とします。〔1〕はその1周期で、「1000ないし1100年~1250ないし1300年」が上昇・インフレ傾向の「A局面」、「1250ないし1300年~1450年」が下降・デフレ傾向の「B局面」です。
モンス・デジデリオ(フランソワ・ノメ)「聖人の殉教」17世紀前半。©Wikimedia.
〔2〕 1450年~1750年。
この時期区分も、「ロジスティック波動」の1周期に該当します。「1450年~1600ないし1650年」が上昇・インフレ傾向の「A局面」、「1600ないし1650年~1700ないし1750年」が下降・デフレ傾向の「B局面」です。
〔2〕前半の「A局面」が、資本主義「世界システム」の成立した「長い16世紀」です。ウォーラーステイン以前には「プレ産業革命」などと言われた、ヨーロッパの経済発展の時代です。日本では、「地理上の発見時代」という呼び方のほうがなじみがあるでしょう。新大陸から大量の金銀が奪われてヨーロッパにもたらされ、「価格革命」といわれる急激な物価騰貴を惹き起します。このインフレが、資本主義「世界システム」を勃興させる大きな動因となりました。「コンドラチェフ循環」は、このころから現れるようになりました。
〔2〕の「B局面」つまり「17世紀」は、「価格革命」で急激に進み過ぎた経済が行き詰まり、デフレに反転した時代。古くから「17世紀危機」などと呼ばれ、社会の進歩が止まった・あるいは逆戻りした “暗い時代” として回顧されました。有名なモンス・デジデリオの絵画が、この時代の暗いふんいきを今に伝えています。
「B局面」のおもな事件を拾ってみると、イギリスでは「清教徒革命」〔1642-49〕,「名誉革命」〔1688-89〕,英蘭戦争〔1652-74〕,ドイツでは「三十年戦争」〔1618-48〕、フランスはルイ14世の対外戦争(フランドル,オランダ侵略,ファルツ継承,スペイン継承)〔1667-1713〕と、まさに戦争と内乱で明け暮れた時代でした。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!