英国留学中の夏目漱石が、ドイツ留学中の友人に宛てた絵葉書。

©福井県立こども歴史文化館。

 

 

 

 

 

 

【18】 「帝国とネーション」――

「想像のトランスナショナル共同体」

 


『明治時代において、〔…〕こうしたナショナリズムとは逆の方向、つまり私の言う「想像のトランスナショナル共同体」への思考が同時にあった〔…〕それは夏目漱石岡倉天心といった人々に代表されます。彼らは、漢字・漢文学を価値とする世界に育ちました。〔…〕漱石は、理論家として西洋文学の「普遍性」を疑った人ですが、その場合、彼は』日本文学ではなく『東洋文学、あるいは漢文学を対置しました。〔…〕

 

 江戸時代までの日本は、中国の「帝国」の中にありました。漢字・漢文が、ちょうどヨーロッパにおけるラテン語のように存在し、また、仏教や儒教がキリスト教のように広がっていました。もし、ヨーロッパにおけるそれを普遍的(universal)と言うなら、この東アジアの帝国もまた、一つの universe としてあったと言わねばなりません。たぶん、漱石岡倉は、漢詩・漢文学を本当に味わえる最後の世代であった〔…〕彼らにとってそれを失うことは、たんに特殊な日本の同一性を失うことではなく、普遍性(宇宙)の喪失を意味したのです。彼らが、それぞれアジアの普遍性を何らかの形で証明しようとしたのは、そのためです。

 

 〔…〕岡倉『著書すべてを英語で書き、漱石『38歳にいたるまで小説を書かなかった〔…〕彼らが日本語で書かなかったのは、〔…〕ある意味で彼らは言文一致に反対していた』からな『のです。というのは、言文一致の本質は、漢字の廃棄にあるからです。〔…〕

 

 漱石岡倉も、自分の内面と言語が透明に繋がっているという事態――これが言文一致によってもたらされる――を拒絶していた〔…〕言語はあくまで彼らにとって「外部的」なものとしてありつづけたのです。漱石の『文学論』などの批評が、同時代のヨーロッパを含めても卓越しているのは、言語がたんなる媒体として透明化される近代文学のなかで、その外部性を強く意識していたからだ、と言うことができます。』

柄谷行人『戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.36-37.  

 


 つまり、日清戦争から日露戦争にかけて、島崎藤村ら自然主義文学者や、「国権」に転向した民権運動家らをふくむ日本のマジョリティが、日本独自のナショナリズムに狂奔していた時、夏目漱石岡倉天心は、彼らとは逆に、日本を超えるトランス・ナショナルな方向をめざしていたのです。漱石天心が依拠したトランス・ナショナリティの根拠は、漢字文化と漢文学という彼らが慣れ親しんだ古い伝統でしたが、それは日本の伝統というよりも、日本を越えたトランス・ナショナルな《帝国》の伝統でした。

 

 「言文一致」は、話し言葉と書き言葉の一致を要求するのみならず、それが確立されたあとは、書かれた文章と著者の内面とは一致しなければならないと考えられるようになりました。「言文」が一致しているのだから、著者の内面は、おのずとそのまま文章になって現れるはずだ。もしも、著述と内面が一致していないならば、その文章は “偽り” である。初期の近代作家――「自然主義」小説家等――は、そう考えました。そして、「私小説」が流行しました。

 

 これが非常に特殊な思い込みであることは、たとえば、科学者の文章態度と比べてみれば解る。自然科学者にとって、文章は実験器具と同様に、あくまでも人間の外部にあるツール(道具)です。観察された事実や考察の内容を的確に伝えることのみが求められます。哲学者,社会科学者にとっても同じで、書き下ろされた・ある理論は、あくまでも自己の外部にある「理論」であって、それ自体において優劣が評価される。研究者の内的な気持ちと一致しているかどうかを詮索しても、意味はありません。

 

 漱石天心は、このような「言文一致」の奇妙な思い込みに、疑義を抱いたのです。

 

 柄谷氏は、まず岡倉天心について述べます。

 

 

『日清戦争が大きな転換点となりました。〔…〕そもそもの発端は、明治維新にあったと言ってもいい。たとえば、西南戦争でタヒんだ西郷隆盛にとって、明治維新は、中国および朝鮮の革命なしに存立しえないものでした。彼の文化的バックグラウンドは、漢字であり儒教(陽明学)です。彼は、いわばトロツキーゲバラのように、日本の革命を朝鮮や中国に輸出しようとしたわけです。彼の悲劇的なタヒは、一方で、彼をアジアの永久革命のシンボルたらしめると同時に、のちには、膨張主義のシンボルたらしめました。

 

 この両義性は、日清戦争にあり、さらに日露戦争にもまだありました。

 

 


西南戦争、田原坂の戦い。「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯・画、

明治10年3月。©Wikimedia. 左手、官軍の軍旗。

右手・奥で指揮する黒い軍服姿の西郷隆盛

 

 

 岡倉天心が “Asia is one” という・のちに有名になった書き出しで書いた『東洋の理想』は、日露戦争直前の 1902年、インドで書かれたものです。また、彼の英文の著書 4冊はすべて、この戦争の前後 3,4年の間に書かれたものです。彼は、タゴールをはじめとするベンガルの独立運動家たちとつきあい、彼らと相談しながら『東洋の覚醒』〔※〕のような檄文を書いたと、タゴール自身が回想しています。詩人タゴールの汎アジア主義は、明らかに岡倉の影響によるものです。』

柄谷行人『戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.38-39.  

 註※「東洋の覚醒」: The Awakening of Japan, 1904, NY & London(日本の目覚め)のことか?
 


 天心の本は、英語で書かれたせいで、日本ではほとんど読まれませんでした。ところが、1930年代になって俄かに注目され、日中戦争開始 2年後の 1939年に『東洋の理想』が日本語訳されると、日本帝国主義を支持する意味での「汎アジア主義のバイブル」として読まれるようになりました。「[アジアは一つ]という彼の言葉は、今も悪名高い」アジア侵略イデオロギーの象徴として知られています。たしかに、それは当時思想的にも、西田幾多郎らの「大東亜共栄圏」イデオロギーに繋がるものとして読まれたのです。しかし、それは彼の「汎アジア主義」の・主要ではない一側面にすぎない。(pp.43-44.)

 

 

 

【19】 「帝国とネーション」――

岡倉天心の「アジアは一つ」

 

 

岡倉が言う「アジアは一つ」という観念に対しては、それは現実に根ざしていないのではないか、〔…〕ヨーロッパのような歴史的背景をもっていないのではないかという疑問が投げかけられてきました。』たしかに岡倉の言うアジアの oneness は、「想像のトランス・ナショナル共同体」以外のものではありません。しかしそれは、ヨーロッパの oneness についても同じことなのです。こうした同一性は、いつも外部からの脅威によってもたらされるものです。

 

 〔…〕近年のヨーロッパ共同体も、まさに同じことです。ナショナリズムが過去の同一性を再構成するように、トランスナショナルな共同体も〔…〕過去の同一性を再構成するのであり、いずれも想像的なものです。しかし、まったくの虚構でもなく、それなりの実質的な過去にもとづいています。それなら、アジアにもそれがあったと言わねばならないでしょう。

 

 

アーネスト・フェノロサ(1853-1908)。モースの紹介で来日し、

東京大学で哲学・政治学・経済学を教えたが、日本美術に関心を持ち

助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を調査した。©Wikimedia.

 

 

 岡倉天心はたんに外部的な、あるいは消極的なアジアの oneness には、満足しませんでした。それを、アジアの内部に原理的に求めようとしたのです。その場合、彼が活用したのが、西洋のヘーゲルの歴史哲学あるいは美学であった〔…〕彼はフェノロサからヘーゲル美学を学んだ〔…〕『東洋の理想』という本』『「理想」は、〔…〕ヘーゲルの言う理念 Idee として理解すべきです。ヘーゲルによれば、歴史とは理念が自己実現する舞台です。〔…〕芸術は、この理念が直接的に具現される形態です。この意味で、岡倉はアジアの歴史を、理念の自己実現〔…〕の過程として把えます。』

 

 とは言っても岡倉が依拠しているのは、ヘーゲルの弁証法論理ではありません。彼はむしろ弁証法を否定しています。ヘーゲルにおいては矛盾が重要です。〔…〕闘争を生み歴史を発展させるものだからです。しかし、岡倉はそこに、インド哲学の advatism〔不二元論〕 〔※〕を持ちこみます。それは言い換えれば、相違し多様なるものの oneness を意味します。かくして、“Asia is one” という言葉が出てくるわけです。

 

 ヘーゲルの『歴史哲学』においては、インドは、精神が抽象的な同一性にこだわり、そこからいかなる発展も生じないような段階として把えられています。発展は、矛盾,対立,闘争によって生じる。ヘーゲルは、いわゆるアジア的停滞を彼なり〔…〕説明している〔…〕とも言えます。しかし、岡倉は、この考えそのものを否定する〔…〕〔岡倉天心――ギトン註〕が提示しているのは、あらゆる多様性を許すような同一性であり、彼の言葉で言えば「愛」なのです。

 

 しかし、これは必ずしも東洋的なものではなく、いわばライプニッツ的な論理です。彼〔岡倉天心――ギトン註〕の認識は、のちに西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」と言ったものに近いと思われます。西田は、この論理で、アジアの統合〔「八紘為宇」「大東亜共栄圏」における――ギトン註〕を根拠づけようとしたのです。』

柄谷行人『戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.39-41.  

 註※「不二元論/advatism」: 「不二一元論/advaita」のことか? 「不二一元論」は、古代インド・ウパニッシャド哲学の「梵我一如」の発展で、ヒンドゥー教・ヴェーダーンタ学派の根本教義。大乗仏教の「唯識」「阿頼耶識」思想に似ている。宇宙には唯一の「ブラフマン」のみが実在し、すべての物質と現象世界は虚妄であり、幻影にすぎない。個人のアートマンはブラフマンと同一であると説く。

 

 

 岡倉天心の説く「一つのアジア」という「トランスナショナリティ」の思想は、「歴史を否定し、多様なるものの同一性を主張」するものであり、また、その本来の趣旨においては「[闘争]を否定するもの」です。

 

 にもかかわらず、①彼は「それを[西洋]に対立するものとして語っていること」、また、②インドの独立運動家との討論に基く『日本の目覚め』では「[剣によって戦うこと]を呼びかけていることに、注意すべきです。それ①②は、アジアの oneness が、たんに原理的なものではなく、〔…〕歴史によって、〔…〕西洋という外部によって・強いられたものであることを意味するのです。それは、西洋による植民地化・という共通の条件がもたらす同一性であり、岡倉は、審美主義的に見えるこの本において、まさにアジアへの参加の決断を倫理的に表明しているのです。」

 

 

『茶の本』、1919年エディンバラ版。©UC.Berkeley. 

 

 

 日露戦争後に書いた『茶の本』では、日本の戦勝を背景に、岡倉の「それまでの切迫感は消え」、余裕をもって「東洋の優位」を語るものになっています。(p.41.)
 

 

『西洋人は、日本が平和な文芸に耽っていた間は、〔ギトン註――日本を〕野蛮国と考えていたものである。ところが、日本が満州の戦場に大虐殺を行ないはじめて〔日露戦争のこと――ギトン註〕からは、文明国と呼んでいる。最近武士道――わが兵士に喜んで身を捨てさせる武士の術――については、さかんに論評されてきたが〔※〕、茶道〔いわば、日本人の「生の術」――岡倉註〕については〔…〕ほとんど関心がもたれていない。もし文明〔…〕が、血なまぐさい戦争に依存せねばならぬというならば、我々はあくまでも野蛮人〔ギトン註――と見なされること〕に甘んじよう。我々は、母国の理想と芸術に対して当然の尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待つとしよう。

 

 〔…〕東洋問題を軽蔑して顧みないならば、如何に悲惨な結果が人類に及ぶことであろう。〔…〕

 

 東西両大陸が〔…〕相互利益によって、よし賢明にはならずとも、もっと真剣になろうではないか。お互い相異なった方向にしたがって発展してきたのではあるが、互いに長短相補ってしかるべきではないか。皆さんの膨張発展は、心の安定を犠牲にしたものである。我々は侵略に対しては、か弱い一種の調和を創造した。皆さん、信ずることができますか――東洋はある点では西洋に優っているということを。

櫻庭信之・訳『茶の本』, zitiert in:柄谷行人『戦前〉の思考』,pp.42-43.  

 註※「論評されてきた」: 以下すべて、日露戦争直後の欧米での日本評、日本観について述べていることに留意されたい。この本は、英語で西洋人の読者に向かって書いている。

 


 岡倉天心が↑これを書いたのは、1906年のことです。当時、日本はまだ、西洋列強の「膨張」の下で、「か弱い一種の調和」を保とうとしていた。しかし、この本が日本語訳され、日本で「アジア主義のバイブル」として読まれるようになった昭和初年には、むしろ日本自身が「心の安定を犠牲にし」て「膨張発展」していたのです。

 

 岡倉が諸著を公にした日露戦争当時、日本人はみな「国権伸長」と「脱亜」に邁進しており、岡倉の著書には眼を向けなかっただけでなく、そもそも「そんなことには何の関心も持っていなかった」。トランスナショナルな「アジア」に、「想像」の上でも参加しようなどと考える者は居なかった。ところが、その日本人たちは、1930-40年代、「西洋」列強と肩を並べて‥、いや、帝国主義的膨張を反省し始めた「西洋」列強に逆らってでも膨張を遂げようとの野望を抱いた時に初めて、その正当化の理屈として、岡倉の「アジア主義」を掘り起こしてきたのです。

 

 それは単に、「想像上」の共同体であるというだけでなく、「想像」の本来の根拠を裏切る虚構の上に築かれた・幻覚の共同体となったのです。

 

 晩年の岡倉は、日本にはもはや希望を持たず、「ボストン美術館、つまりアメリカのために働きました。」(p.43.)

 

 

東京美術学校、本館入口(1915年)。東京芸大・美術学部の前身。

フェノロサと岡倉天心の尽力により、1887年設立された。©Wikimedia.

 

 

 夏目漱石の場合は、どうだったでしょうか?

 


漱石は、西洋の普遍性を認めなかったが、東洋の普遍性も認めなかった。彼は、それらを超えた普遍性を求めようとしました。それゆえに彼は、岡倉のように「詩的」ではなく「科学的」だったのです。それは、何も積極的なものを提示していません。しかし私は、いずれの極にも逃げることなく、いわば東洋と西洋の「間」において、その不安定な場所において思考しようとした漱石のほうに敬意を払いたいのです。

 

 それは今日の問題でもあります。われわれは、「想像の共同体」としてのナショナリズムを否定すれば、他の選択肢として「想像のトランスナショナル共同体」〔たとえば、日米韓台,「インド・太平洋」,「アジア版NATO」など――ギトン註〕に行き着くほかないのでしょうか。いわゆるインターナショナリズムが崩壊した現在、われわれは、〔…〕はじめてインターナショナリズムの可能性を問う地点に立っているのではないでしょうか。

柄谷行人『戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.44-45.  


 

 「トランスナショナルな共同体」をも超える「インターナショナル」ないし「トランスナショナリティ」――それは、柄谷氏自身の中においてもいまだ未解決の課題であることを、私たちはすでに『力と交換様式』の末尾で見てきたと思います。
 

 

 

 

 

 

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