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ティロル州議会・本会議場,インスブルック. © Tiroler Landtag/Berger.

1734年に新築されたバロック様式の議事堂は、いまも現役。

 

 

 


 

 


【50】 人びとは立ち上がって、

「封建制の危機」を解決しようとした。

――ペーター・ブリックレ

 

 

 ブリックレ以前(1960年代まで)の研究史を振り返ってみますと、

 

 まず、「農民戦争」の原因論・目的論については、マルクス主義系の研究者は、イデオロギーの次元(宗教)をふくむ「封建制・対・資本主義の対立」が「宗教改革と農民戦争・両者の原因」であるとする。したがって、「農民戦争の目的は、資本主義の発展を妨げるいっさいの」封建的「障害の克服に向けられており、」そこでは、封建制による「所有権の制限、資本蓄積の」阻害のほか、とりわけ宗教イデオロギーによる障害が問題になったとする。

 

 これに対して、非マルクス主義史家は、「農民戦争は経済的原因から開始されたのではなく、〔…〕領邦国家、領邦君主制によって誘発された」(フランツ)。領邦君主による「領邦国家体制の形成」が、領内の農民/市民の抗議を惹き起こしたのが、農民戦争の起きた原因である。領邦君主制・対・農民/市民の共同体的自治という敵対関係があった処に、「神の法」というイデオロギーが、共同体的自治の側に正当性の根拠を与えて促したので、蜂起となって爆発したのだ。したがって、農民戦争の目的は、「共同体的権利の擁護と強化をめざすものであ」る、とします。

 

 とは言っても、「共同体的権利」の実態・内容と対立の状況は、小さな地域ごと、地方ごとにばらばらです。農村と都市では異なりますし、村ごと、都市ごとに異なっている。ブリックレによれば、ヴュルテンベルクザルツブルクティロルのような大領邦と、群小領邦分裂地域とでは大きく状況が異なっていました。したがって、「共同体的権利の擁護」と一口に言っても、農民軍の要求はばらばらで不統一だったうえに、「共同体的権利」というものの性質上、復古的・防衛的・保守的に傾かざるをえなかった。そこに、農民側が敗北した原因もあった。従来の研究者は、そう考えていました。

 

 フランツは、「農民には、統一的な目的が無かった」とさえ言いきっています。もっとも、彼の別の発言と叙述から推すと、フランツは、「農村共同体と都市共同体を基盤にして――おそらくは領邦(?)国家を排除することによって――帝国を改造すること」が、農民戦争の目的だった。農民たちは、「帝国を〔領邦〕国家の側からではなく、農村共同体と市民共同体の側から構築し、組織する」ことをめざしていた。フランツの「農民戦争」観は、そのようなものだったと理解することができます。

 

 このように、「農民戦争」の原因論・目的論は、意見の食い違いがたいへん大きいのに対し、結果論については、従来の研究者の見解は、おどろくほど一致していました。「1525年の結果は、帝国と陪臣権力を犠牲にした領邦君主制の強化であり、農民の政治的権利の喪失である」(フランツ)。「フランツは、〔刹戮と処刑による〕人口の減少、賠償金による〔…〕経済的負担という短期的な結果のほかに、帝国、陪臣貴族、修道院を犠牲にした領邦君主制の勝利、領邦権力の強化を、〔…〕農民戦争の重大な結果と認めている。フランツは[農民がほとんど3世紀にわたって我が民族の〔政治〕生活から閉め出されたこと]を重大な損失と評価する。」(ペーター・ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,1988,刀水書房,pp.6,10-13.)そして、以上の諸点は、エンゲルス,ベンジング/ホイヤーらマルクス主義サイドの史家も、ほとんどそのまま認めていると言えます。

 

 ところで、ブリックレによれば、「最近の地域史研究は、領邦国家が中世盛期におけるその端緒から絶対主義時代に至るまで、連続して形成されてゆく過程を証明しており、1525年に決定的な区切りを見ていない。」つまり、領邦国家の形成は、「農民戦争」で飛躍的に進展してはいないし、ひとつの画期にさえなっていない、というのです。これは、「農民戦争」に関する従来の見解↑に、真っ向から反する事実です。

 

 もしも「領邦国家の形成」が妨げられたのだとすると、それと対抗する側にある「農民の政治的権利の喪失というテーゼ」にも疑義が示唆されることになります。「領邦国家の形成」が妨げられただけ、農民たちは、政治的権利を喪失していなかったかもしれない。それどころか、「農民戦争」で獲得しようと求めた「共同体的権利の擁護」「自治の拡充」を、いくぶんかは実現しているかもしれない。。。 このようなことが考えられてきます。ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,p.14.)

 

ティロル州議会・本会議場

© Tiroler Landtag.

 


 以上は、この本の最初に置かれた問題提起の部分を、ざっとまとめてみたのですが、ここで一足飛びに最後に跳んで、著者の「総括」を、これまたざっと通覧しましょう。ブリックレは、この本の研究で、何を明らかにしたのか?
 

 

『「農民戦争」は、「福音」〔「神の法」!――ギトン註〕にもとづいて社会的、政治的現状を革命的に変革し、それによって封建制の危機を克服する試みである。』

 ペーター・ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,1988,刀水書房,p.263.

 

 

 「封建制の危機」論は、(13)【43】で説明しましたが、くりかえしますと、封建制社会の内部で生産・流通がさかんになり、それまでの自給型社会に商品経済が浸透していきますと、領主貴族階級は奢侈と遠征で出費がかさみ、上級領主への上納も増えて苦しくなります。他方で農民も商品経済と技術改良で力をつけてくるので、貢租の増額にはかんたんに応じなくなります。

 

 ここで、西南ドイツの場合には、個々の荘園領主は、個別では立ち行かなくなって没落し(封建制の危機)、それら所領を包括する「領邦」が、家産的/小国家的支配を強めて財政を確保し、中小領主貴族を廷臣として抱え込んで官僚化を進め、官僚機構による効果的な農民収奪の強化をはかる動きが活発になります。西南ドイツの諸「領邦」で、とくに盛行したのは、封建制の崩壊とともに形骸化しつつあった「農奴制」を再強化することでした。農奴の死亡は、領主にとって財産の損失を意味する。結婚や他領への移住も同じである。死亡によって損害を与えたのだから、その分を子孫が賠償しろ、ということで、極端に高額の「死亡税」を賦課する。結婚は領内だけ、移住は禁止、といった制限も設けます。

 

 つまり、「領邦」という・より大きなまとまりが、領主の機能を吸収して農民支配を強め、統治権力の機能や、官僚制による合理的実行力を備えた新しい領邦的「農奴制」を整備したのです。

 

 ところで、このような状況は、農民側から見ても「危機」です。農奴領主権が再強化されて復活し、土地緊縛が復活して結婚・移住が制限され、かつては〈コモン〉だった森林・牧地の入会権が制限され、租税負担が加重され、村落の自治権は奪われていきました。経済的な経営危機に加えて、「領邦」という新しい領主に、経済発展の成果を奪い取られて、農民は零落の危機に瀕することになります。

 

 もっとも、農民にとっての「封建制の危機」の内容は、ほかにもありました。なかでも重大なのは、人口増加と農民層分解による農村下層民の増大は、村落内部の貧富の格差と対立を激化させていました。その一方で、中世末期の村落自治団体・連合体の形成(中世都市のギルド自治組織形成と並行し、15世紀の先駆的農民蜂起で促進された)によって、農民が政治的発言権を拡張する要求・期待は大きくなっていました。期待と現状とのギャップは、農民の不満を増大させずにはおかなかったのです。(pp.112f,310.)

 

 この↑あとのほうの「危機」要因は、領邦・領主の「反動」政策によるものでは必ずしもありませんが、やはり封建制の機能不全と変形・商品経済の浸透によって起きてきた現象ですから、まさしく「封建制の危機」にほかならないのです。

 

 そこで、「封建制の危機」に対処するために、「領邦国家」の建設に対抗する農民・市民の側からも、動きが起きてきます。それはたんに、実情を陳べて不満を述べるにとどまらず、領邦・領主側の新しい措置を拒否したり、あるいは、自分たちの要求が容れられるまで、いっさいの貢租と徴税を拒否し賦役・徴発に応じない、というラディカルな形をとらざるをえません

 

 こうして、平民(農民・市民・鉱夫)側からも「封建制の危機」を克服する動きが生じた。それが「農民戦争」と呼ばれる事態にほかなりません。

 

 

アルブレヒト・デューラー「高利貸しと買占め屋」

Holzschnitt aus Sebastian Brant "Narrenschiff", 1494.

 

 

 この平民側からの動きは、「革命的変革」と言っているように、多かれ少なかれ暴力を伴なうしかたで噴出するほかありませんでした。平民が、平和裡に意見を表明できるような・民主主義的なしくみは無かったからです。それでも「革命」という形でおもてに現れることが可能になったのは、「宗教改革」に刺激された「神の法」というイデオロギーが、人びとを促したからです。

 

 農民軍団は、「神の法」に促されて、しばしば、現存の封建社会の身分制秩序を完全に覆してしまうようなラディカルな要求を掲げて闘争しました。それでも、「農民戦争」の原因・発端から結果と将来への影響までを全体として見れば、彼らの闘争〔「失敗」をも含む〕と、「領邦国家」側のリアクションの全体において社会的・政治的構造を変化させ、「封建制の危機」を克服し、封建社会を安定化させる方向に事態を動かしたと言えるのです。

 

 


【51】 革命は失敗したが、改革は成功した。

――ペーター・ブリックレ

 

 

『革命の社会的目的は、――否定的に表現すれば――身分制特有の権利・義務秩序の解体であり、――1525年のスローガンを用いて肯定的に表現すれば――「公益」と「キリスト教的兄弟愛」である。

 

 ここから、革命の政治的目的として、小国家の領域〔群小領邦分裂地域――ギトン註〕では、社団・同盟型国制をもつ国家〔小領邦――ギトン註〕が生じ、身分制国家の構造をもつ大国家〔大領邦――ギトン註〕の領域では、ラントシャフト型〔議会制型〕国制をもつ国家が生じる。この2つの国家形態では、いずれもその正当性はもっぱら福音と・共同体の選挙原理とにもとづいている。

 

 革命は軍事的に敗北したが、その結果は、1525年以前にあった社会的・政治的秩序が安定化したことである。


 この安定化は、一方で、農民の経済負担が、地域的に差はあれ、大幅に緩和されたこと、農民の権利保障が増大したこと、農民の政治的権利が強化され・制度化されたことによって、他方で、共同体的宗教改革運動が国家権力に抑圧された〔「革命神学」という平民の革命的爆発力が取り除かれた――ギトン註〕ことによって、実現した。』

ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,pp.263-264. 

 

 

 つまり、ブリックレの結論は、これまでの諸家が異口同音に是認していた「農民戦争」結果論を否定し、大枠において覆したと言えます。

 

 もちろん、平民(農民・市民)は「勝利した」――というのではありません。たしかに、彼らの「革命」は敗北した。「革命神学」の目標は不達成に終り、「革命神学」は平民の頭脳から除去された。しかし、地方ごとに、多かれ少なかれ「改革」は進展したし、その成果は一定程度残った。平民の負担は緩和され、権利保障は進展し、程度の差はあれラントシャフト(身分制議会/政府)への関与権が認められ、地方によっては選挙権が制度化された。こうして、あれこれの価値や希望を度外視して言えば、封建社会を揺さぶった「危機」は回避され、社会は「戦争」以前よりも安定化した、と言うのです。

 ※註「ラントシャフト Landschaft」: もともと、身分制・領邦議会へ代表(議員)を送る諸身分のことで、古いドイツ史学では、もっぱら貴族・都市貴族・聖職者、すなわち支配身分の領邦政治関与機構と考えられていた。ところが、ブリックレは、中世末~近世には多くの領邦で農民身分・市民身分が「ラントシャフト」に参加していることを実証し、しかも、自治的権限を持った基底の共同体(村落,都市教区)がたがいに連合して、領邦権力に対抗して権利主張する組織として「ラントシャフト」が形成されてくることを明らかにした。(『1525年の革命』,p.xiii.)

 

 

『㈠ 農民戦争の原因は、経済的⑴、社会的⑵、政治的⑶、宗教的・法的⑷次元をもつ。

 

  ⑴ 1525年に先立つ数十年間に、当時の農業経営は経済的にかなり悪化しており、このような悪化は、〔…〕つぎの諸要因によってひきおこされた。

 

  ――人口変動

  ――農奴領主権の復活

  ――共有地用益権の制限

  ――租税負担の増大

 

  これらの諸要因は全体として、農業経営単位当たり、明白な収入減少をひきおこした。〔…〕当然の帰結として、〔…〕

 

  ⑵ 家族および村落という社会単位が〔…〕危機の根源となる。

 

  ――貧富の対立が激化する(農村下層民の増大による)

  ――基本的な生活欲求を満たすことができなくなる(結婚の制限。〔…〕移動の自由の廃止)

  ――村落自治の範囲が制限される。

 

  ⑶ 農民の政治的な期待範囲が拡大する。農民は』中・南ドイツ・アルザス・アルプスの『多くの領邦で、1525年に先立つ数十年の間に、領邦議会あるいはラントシャフトの構成員となることができたから、とくにそうである。

 

  全体として、次のような結果となる。

 

  経済状態のかなりの悪化、家族および村落〔…〕での緊張の増大、政治的期待の拡大――これら3つの要因は、〔…〕あらゆる反乱地域で、同じような結果を生み出した。領主・農民関係は極度に緊張し、封建制――〔…〕倫理的意味内容をすでに失って〔…〕著しく歪められた形で、存続していた――がおびやかされる。

 

 

ティロル州議会・本会議場. © Tiroler Landtag.

 

 

  ⑷ 封建制の〔…〕ひとつの強力な支柱は、正当』性による『義務づけである。したがって、農民が要求を提出するのは、〔…〕要求を法的に基礎づけることができる場合に限られる。古い慣習という法原理〔「古き法――ギトン註〕が規範として農民を拘束するかぎり、騒擾は必然的に〔…〕領邦内にとどまり、その目的も、領主側の「革新」の撤廃に限定される。

 

    古い慣習という原理が、神の法という宗教的・法的論拠に取り換えられると、解放的な、(部分的には)革命的な作用をおよぼす。神の法によって〔はじめて――ギトン註〕、農民の困窮は、倫理的に正当な要求として呈示することができるのである(12箇条)。

 

 ㈡ 神の法――したがって、神の法の具体化としての福音――を実現するという・農民に不可欠な目的が設定されると、社会的・政治的秩序の変革が原理的に可能となる。その結果、〔…〕抗議行動は、要求の段階から、力による要求の貫徹へと進められ、こうして力づくで生み出されたアナーキーにもとづいて、既成の秩序に取って替わる社会的・政治的秩序が構想される⑶。

 

  ⑴ 〔…〕市民と農民と鉱夫のあいだには、』農耕市民、兼農労働者として『同じような農業経済上の問題をかかえ、〔ギトン註――新規のの〕租税負担に苦しめられ、共同体自治(村落共同体,都市共同体,鉱山共同体)の分野が領邦君主の侵害を受ける、という点で、〔ネガティヴな形で〕利害の一致があったが、その一致には従来なお限界があった。

 

     ところが今や、より正しく、よりキリスト教的な世界を求める共通の切望によって、三者の利害の一致が強化された。〔…〕

 

  ⑶ 理論的にも現実的にも生じている政治的真空状態を乗り超えるために、抗議書を超えるプログラムが起草され、あるいは成文化されないで、実践に移される。既成の領邦国家の状態を前提とし、それぞれに応じて、取って替わるべき2つの対案が〔…〕起草される。

 

   ① 小国家〔小領邦分裂――ギトン註〕地域では、社団・同盟型国制が構想され〔ギトン註――実施に移され〕る。〔…〕基礎をなすのは自治的な村落共同体および都市共同体であり、これらの共同体は、〔ギトン註――小領邦の枠を越えて〕いくつかのいわゆる軍団 Haufen [農民勢](軍団は〔…〕いまや政治団体でもある)に統合される。〔…〕軍団は、〔…〕自発的に連合し、互いに同盟して、「キリスト教同盟」を構成する。

 

   ➁ ラントシャフト型国制は、身分制国家の国政構造をもつ大領邦において、農民,市民,鉱夫によって展開される。旧来の制度的枠組(裁判区,領邦議会,議会委員会,統治委員会,領邦君主等)を保持したままで、〔…〕自治的な村落・鉱山・市場町・都市各共同体が、選挙によって領邦議会の代表者〔議員――ギトン註〕を定め、領邦議会が〔…〕ラントシャフト統治委員会を定めて、ラントシャフト統治委員会が領邦君主とともに〔ギトン註――領邦〕政府を構成する。』

ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,pp.264-267. 


 

 「農民戦争」の過程で、反乱地域、つまり中・南ドイツの大部分の地域では、従来からあった・封建制下の身分的共和制機構の中身を改め、そこに平民(農民,市民,鉱夫)が参加する民主化改革が進展しました。農民側によって構想されただけでなく、処により程度の違いはあれ、実施に移されたのです。そして、

 

 こうした「改革」成果は、これまた地域による濃淡はあれ、農民戦争「敗北」後も、多かれ少なかれ存続した――処によってはその後も進展を続けた――、と言うのです。

 


『㈢ 農民戦争の結果は、〔…〕

 

  ⑴ 軍事的敗北のために、革命的変革は不可能となったが、改革の道が閉ざされたわけではない。反乱地域の一部(上部ドイツ〔南ドイツ――ギトン註〕)では、統治権力が動揺〔…〕し、かつ農民が頑強に抵抗したために、ラントシャフト制度の枠内での〔領主と農民の〕協調が長期にわたって実現することになり、旧体制の全面的な復古は行なわれなかった。

 

    既成の体制は、農民の政治参加が強化されることによって安定化し、〔ギトン註――農民戦争後も〕旧来の特権グループの排他的な支配権を削減しつづけ』て「領邦国家」の強化をはかったので、この体制じたいが、封建的秩序を解体する方向に変化してゆくこととなった。

ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,p.267. 

 


 つまり、「農民戦争」以前に起きていた・既成の体制のいちじるしい動揺をおさえ、体制を安定化させる意味では、「農民戦争」の改革成果をある程度維持することは、諸侯・領主側にとっても望ましいことだったのです。それは、場合によっては、特権身分(貴族,聖職者)を解体するという「領邦国家」強化の方向とも一致していました。

 

 

『 ⑵ 改革とともに、体制安定化の対をなす政策は、革命的諸要因の力をそぐことである。〔…〕宗教改革から、その社会的・政治的爆発力が取り除かれなければならなかった。これは、共同体から宗教改革の権利を奪い、宗教改革を国営とすることによって、実現された。』

a.a.O.   

 

 

上シュヴァーベン・ヴァイセナウ修道院. © Wikimedia.

 

 


【52】 議会があれば選挙で、無ければ裁判と調停で

――ペーター・ブリックレ

 


 ブリックレ『によれば、農民戦争は、ランデスヘル〔領邦君主――ギトン註〕〔…〕集権化政策に対抗して、ラントシャフトを基盤に組織された農民(市民)の抵抗運動であり、「平民の革命」であった。〔…〕

 

 ラントシャフトは、農民戦争の敗北によって消滅したのではない。〔…〕近世全般を通して、集権化を求める領邦国家に対抗して、大きな政治機能を果たしていく。農民戦争は革命には失敗したがラントシャフトの形成・継承を通じて一定の改良的成果をかちとったともいえるのである。』

前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,九州大学出版会, 1998,pp.93-94. 

 


 農民戦争1年後の 1526年7月、南ドイツ・ボーデン湖北岸近くのヴァイセナウ修道院長は、領民の強訴を受け容れて、契約文書を交わして協定を結んでいます。協定が「契約の形で文書化されると」、領民は裁判の手段で領主を相手取って契約の順守を訴え出ることができるようになります。つまり、協定内容は制度化されて、領主といえども守らなければならない拘束力を受けるのです。

 

 さらに重要な点は、領主とこの契約を結んでいる相手方が、村落ではなく「全臣民団、すなわちラントシャフト」となっていることです。「ラントシャフト」という「領邦規模での領民の自治的な結合〔…〕を制度として永続化」させることとなるのです。領民全体が、自治的な「社団」として成立することになります。

 

 同様のことは、西南ドイツの多くの領邦で見られます。

 

 たとえば、すぐ近隣のケンプテン修道院領では、1526年に修道院長と臣民(ラントシャフト)のあいだで「メンミンゲン協定」を締結していますが、この協定文書は、「17-18世紀の無数の訴訟において、」農民戦争で農民たちが獲得した「権利を守りぬくのに役立ったのである。」この協定を援用して、臣民の「ラントシャフト」は「租税算定や租税徴収」に関与したばかりでなく、その権限は、「立法、国家財政や統治制度にまでも及んでいた」。「上シュヴァーベンの数多くの所領で、ケンプテン型の特色をもつラントシャフトが自らの権利を主張することができた。」

 

 「マルク・グレフラー・ラント〔現ドイツ・最南西角――ギトン註〕は、ラントシャフト的国制を保持し、いな、17世紀の間にさらに決定的にそれを強めた。ここでは、ラントシャフトの同意なしにはいかなる租税も徴収されず、その協力なしにはいかなる領邦条令も発布されなかったのである。」

 

 「ティロルの農民は、領邦議会および議会委員会にずっと出席しつづけ、租税の同意・管理権をもち、領邦条令を作成し、防衛条例を可決した。」ティロルの議会は、貴族・聖職者・市民・農民の各代表からなっていた。(『1525年の革命』,pp.253-254.)

 

 バーゼルでも4身分制の議会が存続し、バーデンでは、市民・農民2身分の議会が存続した。(p.338.)

 

 16世紀から 18世紀までつづく「ラントシャフト的国制」の領邦国家は、「農民戦争」での農民たちのひとつの要求を、穏和な形で実現したと言えます。それは、「ラントシャフト」すなわち国政に参与する臣民団は、「貴族・聖職者・都市に限定されず、平民」をも含まねばならないという要求です。(pp.254-255.)

 


『ラントシャフト的国制の国家、すくなくとも旧帝国南部・16世紀のそれでは、〔…〕領邦君主はなお、国家統治にさいし、平民の主体的な同意権に拘束されていたのである。

 

 絶対主義国家への入口に至って、〔…〕領邦国家が完成の域に達すると、こちらでは 17世紀に、あちらでは 18世紀に、〔…〕平民が国家の政治から駆逐される道が進められた。

 

 絶対主義国家の構造を 1525年と因果的に結びつけようとする試みエンゲルス以来の通説的見解――ギトン註〕は、上部ドイツについては実証的結果からして無理であり、』蜂起のあった他の地域についても、『少なくとも疑問に付される

ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,p.267. 

 

 

ケンプテン。「三十年戦争」前のケンプテンの模型。帝国直属都市ケンプテン

の市門の前に、修道院所属のマリア大聖堂がある. © Wikimedia.

 

 

 たとえば、中部ドイツでは、「ラントシャフト」のような制度的民主化は行なわれなかったけれども、「農民戦争」後 1526年に開かれた「シュパイアー帝国議会」は、『12箇条』などの平民からの抗議・要求を、「大委員会」を設けて検討し、その意見書『臣民に対する権利濫用と臣民の苦情に関する勧告』に基いて、帝国議会は勧告決議を行なった。これは、諸侯・領主、とりわけ聖職領主の権利濫用が、「反乱その他不服従の原因となっている」との認識があったからです。

 

 「大委員会」の「意見書」のうち、帝国議会決議に採用されたものはごくわずかであり、「帝国議会決議は、公権力に和解的な態度を勧告する」程度のものにとどまりました(pp.232f, 235.)。しかしそれでも、……

 

 

『帝国議会委員会の意見、帝国議会の勧告が、農民・領主間の相対立利害の調整にとって、規範的な枠組を示していることは見逃しえないことである。とくに、裁判による調停で紛争を回避すべしという明確な要請は、効力を持った。

ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,p.236. 

 


 以上のようなペーター・ブリックレの見解と、広範な実証成果による裏付けは、その後の「ドイツ農民戦争」史研究を大きく塗り替えたといってよいでしょう。


『ブリックレが主張した農民戦争結果論、「革命の失敗、改革の成功」、「農民の政治的権利喪失論の否定」は、次第に定着していると言ってよかろう。

前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,九州大学出版会, 1998,p.20. 



 たとえばシュルツェ〔「『近代初期の農民反乱と封建支配』1980.未邦訳〕は、「農民戦争」を境として、農民たちの運動は、反乱蜂起から、合法的な訴訟闘争(領邦君主,隣接領邦君主,帝国宮廷裁判所等への出訴)を基調とする近世の農民運動へと収斂されていったと述べています。

 

 かつてエンゲルスは、フランス大革命,イギリス清教徒革命と並ぶ「ヨーロッパにおけるブルジョワジーの封建制度に対する三大決戦」の「第1号」として「ドイツ農民戦争」を顕揚しました。このエンゲルスの言は、ブリックレの理論的照明と実証によって初めて、説得力ある内実を獲得したといえます。ただし、「ドイツ農民戦争」は、ブルジョワ革命でも、初期市民革命でも、ドイツ民族の共同体革命でもなかった。いや、「戦争」でさえなかった。

 

 ブリックレのいう「1525年平民革命」の目標と遺産を、私たちは、どう言い表したらよいのでしょうか? 現代政治で馴染みのある言葉から、近いものを選ぶとすれば、「議会制民主主義」「地方自治」「経済的公正」といったことになるでしょうか。


 以上で、エンゲルス『ドイツ農民戦争』のレヴューを終ります。ご高読ありがとうございました。
 

 

 

 

 

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