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ベルリン「三月革命」  1848年3月18-19日,当時の瓦版(Ereignisblatt)

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【42】 ドイツ近代史のなかの「農民戦争史」研究

 


『ドイツ農民戦争の本格的研究は、1848年の三月革命期にはじまる。自由と統一をスローガンとしたドイツ最初の自由主義的・民主主義的革命運動の高揚が、エックスレ,ツィンマーマン,エンゲルスという、それぞれ政治的立場を異にした極めてユニークな歴史家を輩出したのである。

前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,九州大学出版会, 1998,p.2. 

 


 立憲主義者エクスレは、広範な史料の発掘によって農民戦争研究の基礎を築いたと言えます。とりわけ『ハイルブロン改革綱領』の発見は、「農民戦争」を単なる破壊活動と見る 300年来の偏見をくつがえし、三月革命期の「自由主義者と同様に、建設的・創造的な民衆」の運動であったことを明らかにしました。

 

 フランクフルト国民議会の民主主義闘士ツィンマーマンにとっては、「農民戦争は何よりも抑圧に対する自由の闘争、闇に対する光の戦いであった。自由は戦いによって勝ち取られるものである。」『ハイルブロン綱領』は「自由人,平等人の帝国をめざすものであり、ミュンツァーはルターを超えた民衆の予言者で、民衆と時代に先行した。」

 

 社会主義者の武闘組織の一員として三月革命に参加したエンゲルスは、ドイツ農民戦争を「ヨーロッパにおけるブルジョワジーの封建制度に対する三大決戦〔ドイツ宗教改革,イギリス清教徒革命,フランス革命――ギトン註〕第1号の頂点を」なすものだと、唯物史観に基いて規定しました。いまだ封建制を打ち倒す力を持っていなかった草創期のドイツ・ブルジョワジーは、革命を完成させることなく封建諸侯・領主階級に屈服してしまったけれども、「ブルジョワジーの裏切りを乗り越えて前進する平民・農民の革命運動」が農民戦争となって現れたのであり、「それは農民・平民陣営を率いるミュンツァー党に代表される」としました。ミュンツァーが「革命党」の指導者として全「ドイツ農民戦争」を指導したというエンゲルスの史像が、史実よりも多分に彼自身が理想とする 19世紀ドイツ革命路線の空想的反映であったことは、繰り返し述べてきたとおりです。

 

 「三月革命」の挫折、その後のビスマルク・プロイセン⇒ドイツ帝国による「上からの統一」の完成とともに、ドイツ歴史学界では「三月革命」に対しても「農民戦争」に対しても否定的な見解が支配し、「農民戦争」を研究しようとする者は、周りじゅうの学者から袋叩きにされ抹殺される運命に陥りました。「ルターからビスマルクヘ」の国家主義的歴史観を絶対化した史家ランケは、農民戦争は、宗教改革の周縁で起きた「ドイツ国家最大の自然現象」にすぎず、人間の行動ですらないと言って唾棄しました。

 

 そのなかで、エクスレ、エンゲルスらの農民戦争史研究は、わずかにシュヴァーベン〔西南ドイツ〕 、スイス、ティロルの地方史家によって継承されたのです。彼らの手で、多くの地元の史料が発掘され、各地の農民勢の「箇条書」や「農民綱領」、当時の荘園経営にかかわる社会経済史料などが公刊され、今日の農民戦争史研究の隆盛をもたらす実証的土台となりました。

 

 ところで、こうした地方史料の発掘によって、エンゲルスらの古典学説がかかえる問題点の批判も、提起されてきました。エンゲルスらに共通する「農民戦争史」観は、ひとことで言えば「貧農蜂起説」です。封建領主、修道院、聖俗諸侯ら封建支配者の抑圧に対して、彼らのために貧窮化された農民たちが反抗したのが「農民戦争」である。

 

 これに対して、たとえばティロルの地方史家ヴォフナー,ナープホルツは、「農民の状態が劣悪な東部ではなく、なぜ西南ドイツに反乱が起こったのか」、と批判します。西南ドイツ,スイスでは、「中世末期の市場経済の発展のなかで、農民の経済状態は逆に向上して」いる。農民たちは「過度の経済的圧迫に反抗したのではない。むしろ、官僚機構の整備と租税徴収、共有地や村落自治の侵害を進める領邦君主権力との対決、いわば民衆の権利と国家の権利の対抗こそが農民戦争の原因であった」と。

 

 さらに、エンゲルスは農民層中の階層分化を認めず、つねに一体のものとして把えているのに対し、ヴォフナーは、農民のなかにも、名望家層(完全農民)と貧農(小屋住み農,水呑み百姓)の対立があったことを指摘しています。

 

 

ドイツ革命(第1次大戦後) 共産主義者を処刑するドイツ共和国軍   

 

 

 これらの批判を踏まえて、第一次大戦・ドイツ帝国崩壊後に「農民戦争史」を集大成したのが、ギュンター・フランツです。フランツの「農民戦争史」観は、エンゲルスらの「貧農蜂起説」に対して、「富農蜂起説」と言うことができます。

 

 フランツはまず大枠において、「経済原因論」に傾くエンゲルスの経済階級史観に、「政治革命論」を対置します。農民戦争における農民集団の指導者は、その大部分が、「村長」,村の「参審員,4人衆」といった「村落名望家層」であり、彼らは他面から見ると「宿屋 Gasthaus の主人,水車小屋業者,鍛冶屋」等であった。地域統合的な大きな農民団には、ウェンデル・ヒプラーのような貴族や、ミュンツァー,プファイファーのような聖職者,市民の指導者もいたが、彼らは少数の例外的存在であった。

 

 たしかに、これまで見てきたエンゲルスの叙述にも、メッツラー、ロールバハ、フォイヤバッハーといったガストハウス(宿屋兼居酒屋)の主人の名が農民指導者として出ていました。フランツによれば、これら富農層の指導のもとで、領邦国家による集権化に対抗して村落自治の拡大をはかった「政治革命」が、「農民戦争」にほかならないのです。

 

 つまり、単に経済的に窮迫しただけでは民衆は反抗しない。どこまでも耐えるという選択肢もあるからだ。問題は、圧迫を耐えうると感じるか、耐えがたいと感じるかにある。富農層にとっては、経済的状態よりも心理的圧迫のほうが問題であった。フランツの「社会史」の方法は、このような民衆の心性の洞察に立脚しているのです。

 

 フランツが大著『ドイツ農民戦争』を上梓したのは、奇しくもナチス党が政権を掌握した 1933年でした。大多数の大衆の支持がファシズムの「国家社会主義革命」に収斂してゆく状況が、フランツの理論に影を落としていることは否定できません。

 

 フランツによれば、「集権化政策を進める領邦国家による村落自治の圧迫こそ、村落名望家層にとって耐えがたい圧力」であった。「領邦集権化への志向が最も早く」始まったのは西南ドイツだったが、この地域は同時に、村落共同体の自治が最も強力に展開されていた場所だったからだ。両者の衝突、村落共同体側からの抵抗は、まずは農民たちの「古き法のための戦い」として現れる。が、そこにとどまるものではなく、宗教改革の「神の法」思想〔聖書の「福音書」を平等社会の根拠として援用する〕に媒介されて、領邦の枠を越えた政治闘争へと発展する。彼らの政治的プログラムは、「ハイルブロン改革綱領」などとなって表明された。『まさに富農層は、彼らの経済状態にふさわしい・民族の政治生活上の地位を獲得しようとした。』『彼らは、〔…〕自らの運命を自らの手で決定し、農民の力で帝国を新しく構築しようとした。』『農民戦争は、ドイツ人の帝国 を求める闘争の一環である。』『それは真の革命であった』。彼らの「すべての政治構想は、19世紀的なデモクラシーの原理〔代議制民主主義――ギトン註〕に基くものではなく、共同体原理に基づく。」(前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,pp.2-5.)

 

 ただし、フランツが述べている:「19世紀的なデモクラシーの原理」とは異なる民主主義――の内容には問題があります。フランツは、『小さなゲノッセンシャフト的〔“仲間” 的、直接民主制的――ギトン註〕な諸団体を土台として構築される』国家だと述べています。が、これは、考えようによっては、レーニンの「労農ソヴィエト」や中国・北朝鮮・日本共産党の「民主集中制」、あるいは、カール・シュミットの「喝采民主主義」となってしまい、民主主義の名における全体主義独裁を現出する恐れが大きいからです。

 

 

ヒトラー(左)とナチス式敬礼

 



【43】 ドイツ現代史と「農民戦争史」研究

 

 

 第2次大戦後、東欧圏では、ソ連のスミーリンによる「初期市民革命説」が一世を風靡します。宗教改革と農民戦争を一体のものとしてとらえ、早期に試みられて挫折した市民革命であり、「ヨーロッパ最初のブルジョワ革命」だったとするスミーリンの議論は、エンゲルスのテーゼを踏襲するものです。

 

 その一方でスミーリンは、ミュンツァーら急進派の運動を、「平和協定を否定して武闘路線を追求し」たとして賞賛し、地域性と、市民・農民の身分的制約を越えた「統一戦線」を志向するものだとしています。

 

 このような唯物史観図式に則った綺麗すぎる、あるいは教条的に過ぎる理論に対しては、ソ連と東ドイツでも批判が相次ぎ、スミーリンの「ブルジョワジー」「ブルジョワ革命」概念のあいまいさ、封建制の枠内での改革志向を安易に「革命」と決めつける誤り、などについて論争がつづきました。1975年頃以降は、西ドイツからも理論面、実証面での厳しい批判が起き、社会主義体制崩壊とともに論争自体が停止しています。

 

 しかし、この「初期市民革命」という公認枠組みのもとでも、ベンジングら東独の研究者による意欲的な実証研究が生み出されており、注目されます。(前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,pp.6-9.)

 

 他方、戦後の西ドイツで大きな影響力をもったのは、ペーター・ブリックレの「平民の革命」説でした。「1970年代以降の諸研究は、賛否両論ともどもブリックレ説をめぐって展開してきた」。

 

 ブリックレの言う「平民 gemeiner Mann」とは、「公権力 Obrigkeit〔おかみ〕」の対概念としての「臣民 Untertan〔しもじも〕」であり、「具体的には、参事会資格のない帝国都市市民、領邦都市の全市民、農民、鉱山労働者」です。つまり、公 おおやけ に関わる資格(参政権,位階等)をもたない「ただの人」ということだと思います。

 

 そして、「市民、農民等の共和制的政権構想を指して、彼は革命と呼ぶ。」つまり、「平民の革命」とは、「民主政」を求める運動、ないし「民主化運動」と言ってよいものです。エンゲルスやマルクス主義史家の言う「ブルジョワ革命」とは、モデルとなる概念が大きく異なっていることがわかります。

 

 しかし、いま一つ重要な点は、どんな地域を主要な対象として見ているかです。

 

 エンゲルスや、彼を継承した東欧・東ドイツの研究者が、ミュンツァーとその活動地域であるテューリンゲン,ザクセンを中心として見るのに対し、ブリックレは、西南ドイツ,スイス,アルプスを中心に「農民戦争」を見ているのです。ここには、戦後ドイツの東西分裂が落とした影を見ることができるでしょう。

 これら西~南の地域では、フランツも指摘していたように、中世末の市場経済発展の結果、コミューナリズム〔都市,村落の共同体的自治――ギトン註〕が広汎に展開しています。これに基いてブリックレは、「コミューン自治」論を「平民の革命」の背景として描出します。

 

 しかし、ブリックレ説の最も斬新なカナメの部分は、いわゆる「封建反動〔ブリックレ自身は「封建反動」という用語を使わないが〕を、「農民戦争」の主要な契機として指摘したことにあります。(pp.9-10.)

 

 

ウェルナー・テュプケ『農民戦争パノラマ画』部分。

 

 

 当時、西南ドイツ(フランケン、シュヴァルツヴァルト、上シュヴァーベン)の群小領邦では、土地・裁判領主制・農奴領主制(人身支配)をテコとする家産制的・封建支配の強化がめざされていたが、ティロルやヴュルテンベルク等の大領邦では、官僚制と国家的税制を基盤に領邦国家への集権化が進められていた。これらは……

 


『いずれも 14-15世紀以来の封建制の危機を克服するための新しい支配機構であった。

 

 とくに彼〔ブリックレ――ギトン註〕は、農民の最大の抗議対象である農奴領主制に注目する。〔…〕西南ドイツの農奴制は、〔ギトン註――従来の研究者は、形式的なものだと理解してきたが〕彼の実証研究により、封建制の危機に対処する領邦国家の重要な財政的手段(死亡税),政治的対策(結婚と移動の制限〔領民の流出を防止する――ギトン註〕)であり、〔ギトン註――18-19世紀の〕再版農奴制にも類比される新しい領邦的農奴制であることが解明された。』

前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,九州大学出版会, 1998,pp.10-11. 

 


 つまり、個々の荘園・所領(いわば中小企業)は、封建制全般の危機のために個別では立ち行かなくなったので、それらを包括する「領邦」が、家産的/小国家的支配を強めて財政を確保し、 “倒産” した中小領主貴族を廷臣として抱え込んで官僚化を進め、官僚機構によるさらに効果的な農民収奪の強化をはかったのです。これが「封建反動」というものの具体相であり、現代の私たちが目前に見ている「資本主義の全般的危機とその反動」にも類比されるものです。

 

 

『こうして封建制の危機に由来する〔ギトン註――農民への〕経済的重圧と農民の窮乏が、農民戦争の原因とされる。〔…〕

 

 反面、共同体の自治的発展は、さらに領邦レベルでの政治団体、ラントシャフト(領邦共同体)を生み出し、農民の政治意識を高揚させる。こうした状況に到来した宗教改革は、「神の法」という新たな正当性理念を農民に与え、旧来の正当性「古き法」を破壊して反乱の直接の契機となる。〔…〕「神の法」理念が最終的起爆剤であった。

 

 彼の原因論は、「封建制の危機」論の導入、それと・農奴制の強化や2類型の領邦化との関連など、新境地を開いた

前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,p.11. 

 

 

 さきほどふれたように、ブリックレは「平民の革命」論を展開して「農民,市民,鉱夫の共闘を強調し、〔…〕平民=臣民説を提起するが」、彼の言う「平民」の「中心は、共同体農民やツンフト市民(家父長)〔ギルド手工業の親方――ギトン註〕」です。つまり、参政権などの・公権力〔おかみ〕とのつながりは持たないが・(ムラや手工業ギルド,町内会のような)共同体の成員権は持っている人びとなのです。ブリックレの「平民の革命」論を批判したルッツは、その「平民 gemainer Mann ふつうの人」とはけっきょくのところ「共同体の人 Gemainde-Mann」ではないか、と言っているほどです。(pp.9,11.)

 

 

「ベルリンの壁」 © Getty images.

 

 

 このような反乱農民勢の構成要素分析に基づいて、ブリックレは、農民勢の政治綱領(箇条書)を2つのタイプに分類します。両タイプいずれも、封建制からの転換を求めるものですが、どのような新しい国制組織を求めるかに違いがあります。

 

 まず、「フランケン、シュヴァルツヴァルト、上シュヴァーベン」の小領邦分裂地帯に展開した国制構想は、「上シュヴァーベンのキリスト教同盟の同盟条令がその典型とされ、」これらの箇条書がモデルとしているのは「スイスの市民的・農民的な連邦型共和国であった。」

 

 いま一つは、ティロル,ザルツブルク,ヴュルテンベルクなどの大領邦で、初期近代国家といってよいこれら領邦国家に対して要求された「ラントシャフト型国制構想」です。その典型は、「ザルツブルク領民の24箇条」です。これは、ザルツブルクの市民,農民,鉱夫による議会型政府構想でした。

 

 しかし、これら2タイプの構想はいずれも、「すでに長い伝統をもつ・農民のラントシャフト運動に由来する。」(pp.11-12.)

 

 

ケンプテンなどの小領邦では、農民は長い反乱の歴史をへて、村落共同体の連合体を形成し、その代表がラントシャフト委員会を構成した。ラントシャフト委員会は、反乱をへて公認の政治的社団となり、領邦君主のパートナーとして支配契約の主体となる。農民戦争期の農民団は、これらのラントシャフト〔「ラントシャフト委員会」以下・村落共同体に至るまでの農民組織――ギトン註〕を母体として生まれ、さらに農民団の連合が同盟〔「キリスト教同盟」など――ギトン註〕であり、スイス型の同盟国家(共和国)が追求された。

 

 大領邦の農民ラントシャフトは、ティロル,ザルツブルクのごとく、共同体を選出母体とした身分制議会参加の長い伝統をもち、したがって彼らの運動は議会闘争の伝統を継承し、身分制議会・身分制政府の改革・革命(貴族,市民,農民、あるいは市民,農民,鉱夫の議会・政府)のプランとなって現れる。


 こうして、農民の政治綱領はいずれも共同体的・ラントシャフト的運動を継承し、その理念は公益(共同体の福祉)であり、国家の構成原理は共同体的選挙原理であった。』

前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,p.12. 


 

 他方、宗教改革の面から見ても、ブリックレの解釈は「共同体的宗教改革」であり、農民の要求は、教義のレベルでも運動のレベルでも「共同体による教会の自主管理を求めるものであった。」その「聖書主義」原理、「神の法」の要求は、「〔ギトン註――神の法(福音書)に反する法律は無効であるとした〕『12箇条』第12条の主張に即して、神の法=自然法=実定法の主張であり、現世〔世俗〕の秩序もまた聖書に即して改革が要求され、兄弟愛と公益に基づくキリスト教的権力が求められる。こうして、〔…〕宗教改革と農民戦争は統一され、あるいは宗教改革は 1525年に頂点に達する。」しかし、農民戦争が敗退した 1525年以後は、都市の宗教改革も、教会内部の神学的改革のレベルに後退し、さらに、1555年「アウクスブルク和議」以後は、諸侯的宗教改革に変質する。「この意味で、1525年は頂点である。」

 

 「ブリックレはさらに、こうした農民的宗教改革観の神学的由来を、ツウィングリの政治神学に求める。」(pp.12-13.)

 

 

「ベルリンの壁」を破壊する人。1989年9月12日、ポツダム広場近く,西ベルリン。

© John Gaps III, Associated Press.

 

 

『ブリックレ説は 1970年代以後の新しい農民戦争像を提起する。〔…〕それは〔…〕エンゲルスの反封建論〔…〕の継承とも考えられる。〔…〕1970年代以降の農民戦争研究は、ブリックレ説への批判・対決として展開されたとも言えよう。〔…〕

 

 ブリックレの原因論が「封建制の危機」のタイトルをもつように、ここにはマルクス主義の封建危機論、あるいはアーベル以来の農業危機論の影響が大きい。14-15世紀のいわゆる封建制の危機については、さまざまの論争が展開した』

前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,p.14.  

 ※註「アーベル Wilhelm Abel 1904-1985」: ドイツ経済史・農業史の大家。経済史に初めて量的手法を導入し、とりわけ飢饉と農民窮乏化の解明に功績があった。日本語訳に、『ドイツ農業発達の三段階』『農業恐慌と景気循環』『食生活の社会経済史』

 

 

 しかし、その中でとくに重要な議論は、「封建制の危機」の一態様としての「農民層分解」と、それが農民勢の主導層、階層構成、および農民勢の内部矛盾に対してどんな影響を及ぼしたか、という問題をめぐって行なわれています。

 

 すでに何度か指摘したように、エンゲルスは、おそらく史料的制約から「農民層分解」には眼を向けておらず、「農民」をいわば一枚岩の階級と考えていました。

 

 「富農蜂起説」を提起したフランツは、「富農」を顕出するかぎりで農民層内部の階層分化に注意を向けており、農民内部に村落名望家層(完全農民)と貧農層(小屋住み,水呑み)の対立があったという地方史家ヴォフナーの指摘を踏まえていました。しかし、他方でフランツは、農民たちのあいだの共同体的一体関係を重視し、村落名望家層が決定権を握る農民共同体が、農民勢の主体となったとしています。

 

 つまり、農民層内部の階層分化(格差)の矛盾が、農民勢の結束に負の作用を及ぼさなかったか。農民勢の政治的傾向の急進化、穏健化、分裂等々には、内部階層矛盾が関わってはいないのか。――といったことが解明されていないのです。

 

 この欠陥は、コミューナリズム〔共同体自治〕で「農民戦争」全体を総括的に論理構成しようとするブリックレ学派においても、なお克服されていないと言えます。ブリックレ学派は、マルクス主義に代わる(現在の)社会変革プランとしてコミューナリズムを主張し、その歴史的先駆を探って「ドイツ農民戦争」からさらに 14-15世紀のラントシャフト運動にまで遡って伝統を発掘する構想であるようです。この点は私もまだ知りはじめたばかりですが、次回にはもう少し整理してご紹介できるかと思います。

 

 ともかく、そのために、ブリックレ以後の社会経済面の研究は、従来の「農民戦争史」研究の欠を補うべく、農民層の分解と階層構成に集中しているようです。が、なにぶん成果が出るには時間のかかる分野なのです。

 

 政治綱領と政治運動の面に関しては、1970年代以降、各地でさまざまな「箇条書」や綱領草案、それらのさまざまな刊本が発掘され、それらの系譜関係の究明に、とりわけ大きな進展がありました。「箇条書」の系譜関係の解明は、農民的宗教改革の広がりと運動の諸相を明らかにするものです。

 

 農民戦争と宗教改革との関連をめぐっては、ツウィングリ派、再洗礼派、ガイスマイヤーなど、これまであまり注目されなかった宗教改革諸派・の「農民戦争」との関わりに光が当てられています。

 

 さらに、フランツの「心性史」的考察、ブリックレの「社会史」の方法から派生して、農民戦争をバフチン的な「民衆文化」として理解しようとする考察も現れてきました。そこでは、「農民戦争における反教権主義運動が、民衆文化的行動として現れ、カーニバル的逆さまの世界が演出され、伝統的平等思想が噴出するさま」が描かれます。これによって、カトリック/プロテスタントの信仰とは異なる・民衆の迷信的信仰にも、今ようやく光が当たってきたのです。(前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,pp.17-20.)

 

 

 

 

 

 

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