小説・詩ランキング

映画『トマス・ミュンツァー』1956 より。

© DEFA-Stiftung Manfred Klawikowski.

 

 

 

 

 

 

 

 

【19】 トマス・ミュンツァー ―― 早熟な革命児か?

 


 前回に取りあげた部分で、エンゲルスの叙述は、「農民戦争」を跳び越えてかなり先まで行ってしまいました。ここで、1517年の「95箇条」以前に時間を巻き戻して、ルターと並ぶ宗教改革指導者:トマス・ミュンツァーについて語ることとなります。ルターとミュンツァーの立ち位置は、「農民戦争 1524-25」をめぐって尖鋭に別れることとなります。ルターは、農民軍を無慈悲に叩き潰すよう諸侯たちを焚きつける役割、ミュンツァーは逆に、農民軍の精神的指導者の役割です。しかし、1517~19年の段階では、ミュンツァーは、ルターの熱心な信奉者の一人であり、ルターの推薦で説教師の職に就いているほどでした。



トマス・ミュンツァーは、1498年頃にハルツ山地のシュトルベルクで生まれた。彼の父はシュトルベルク伯の専横の犠牲となって絞首台の露と消えたという。ミュンツァーは早くも 15歳の時にハレの学校で、マグデブルク大司教およびローマ教会全体に反対する秘密同盟を創った。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,p.39.

 


 「ハルツ山地」は、北ドイツにある低山帯で、最高峰は、「ブロッケンの妖怪」で有名なブロッケン山(1141m)。シュトルベルクは、標高300m前後の古くからある鉱山町で、シュトルベルク伯の住地でした。

 

 

『この地は西暦 1000年ころ鉱夫の居住地として成立した。近隣には 794年以来鉱山の存在した証拠がある。ここでは古くから鉄、銅、銀、鉛、金が掘り出されていた。〔…〕西暦 1300年より以前に都市法が施行されている。

 

 〔…〕都市としての沿革の最初から、シュトルベルクはシュトルベルク伯爵の住地であった。伯の本拠は、テューラ河谷に位置する当市の北方山上に聳えるシュトルベルク城にあった。

ドイツ語版wiki「シュトルベルク市(ハルツ)」.  

 

 

 ミュンツァーの生年が「頃」なのは、正確な生年月日も、両親がどんな人なのかも知られていないからです。なお、「1498年頃」は不正確で、大学入学の記録から逆算すると 1490年以前に生まれていたことは確実です。

 

 父の刑死というのも、伝説以上のものではありません。ただ、トマスの誕生後まもなく、一家は近隣のクヴェドリンブルクに移住しているので、1493年に発生した異端(宗教改革)運動の咎で追放されたのではないかと言われています。トマスが学生時(じつは学校卒業直後〔↓下で説明〕)に早くも教会への反抗運動を始めているのも、そうした生い立ちがかかわっているかもしれません。

 

 

トマス・ミュンツァー関係地図(北ドイツ)

 

 

 ミュンツァーの父が、ルターの父のような鉱山業者だったのか、鉱夫だったのか、その他の職業だったかは不明です。広い意味での市民層に属していたと憶測するほかはありません。トマスは、まずクヴェドリンブルクか他の町のラテン語学校に入り、1506年にライプチヒ大学に入学、そこで人文学・修士を取得し、1512年にはフランクフルトのブランデンブルク大学に移って神学学士を授与されています(マンフレート・ベンジング,田中真造・訳『トーマス・ミュンツァー』,未来社,1981年改訳版,pp.14-16.

 

 ※註「フランクフルト」: 「オーデル河畔のフランクフルト Frankfurt an der Oder」を指す。現在のドイツ・ポーランド国境に接する東独の都市。西部ドイツの有名な「フランクフルト」(マイン河畔のフランクフルト Frankfurt am Main)とは異なる。日本語版ウィキペディアの記述は誤り。

 


『ミュンツァーは、1513年ハレ(ザーレ河畔) の聖ゲルトラウト・聖マリア聖堂区学校の助教師として職業生活に入ったが、ただちに、大司教エルンストに反対する秘密結社のオルガナイザーになった。』

マンフレート・ベンジング,田中真造・訳『トーマス・ミュンツァー』,未来社,1981年改訳版,p.16.

 

 

 エンゲルスが「15歳の時にハレの学校で…」と言っているのは、あるいは↑このことかもしれません。この時ミュンツァーは、最年少に見積もっても 23歳。すでに人文学修士と神学士という2つの学位を持っていました。

 

 1514年には、ハルバーシュタット司教区で、はじめて聖職に就き、以後、ブラウンシュヴァイクの聖ミヒャエル教会の叙任司祭禄、1516年にはフローゼ修道院の院長代理に就任するかたわら、15年に近隣アッシャースレーベンで市民の同盟を組織しています。「最近の研究では、〔…〕この同盟は、1515年にアッシャースレーベンで、大学教育を受けた市民たちが起こした反乱と関係があるとされている。この反乱は、古い市参事会〔市政府〕を廃止するところまで行った。だが、1年後に旧勢力が力を盛り返した時に、〔…〕ミュンツァーもこの市を去らねばならなかった」(ベンジング『トーマス・ミュンツァー』改訳版,pp.21-22.)。当時、フローゼ修道院長は宗教改革論者で、アッシャースレーベン市当局と対立していたので、ミュンツァーの受け入れ先になったものと思われます。

 

 「ミュンツァーは、ハルバーシュタットとは密接な関係を保っていた。とくに、そこの進歩的な有産市民グループとの関係は親密であった。〔…〕ハルバーシュタットでは、ウィッテンベルクでの〔ルターの〕宗教改革運動を〔当地でも〕共感をもって進めようとする動きがあった」(p.22.

 

 

ハルツ山地 - ラーベンクリッペン(鴉岩)からブロッケン山を望む。 Wikimedia 

 

 

 ところで、ミュンツァーの修学に関して、神学に先立って人文学(ギリシャ・ローマの古典学芸)つまりルネサンス学芸を習得していることは重要です。ミュンツァーの説教には、自由、平等といった古典古代的ないしルネサンス的な理念が色濃く感じられます。聖職者の職務を果たすなかで、↓下記のように、カトリック教会の伝統的な教義・典礼を破壊する態度をあらわにしているのも、人文主義的な教養に依拠して近代的啓蒙思想に近づいていったと見ることができます。その点が、原始キリスト教ヘブライズムへの復古一本やりのルターとの大きな相違だと思います。



〔ギトン註――ミュンツァーは〕若くして博士号と〔…〕司祭の地位を与えられた。はやくもここで彼は教会の教義や典礼を大いに軽蔑して扱い、ミサをあげるときに化体の言葉をまったく省き、その上、〔…〕御聖体を清めないままで食べた。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.39.  

 


 「化体の言葉」とは、カトリックの司祭が、ミサの際に聖句を唱えて、パンと葡萄酒を「キリストの血と肉」に変える秘儀のことで、こうして「キリストの肉」となった聖餅(パン)、つまり「御聖体」を拝領する(食べる)ことで、信者はキリストと霊肉ともに一致し、信者同士も一致するとされます。ところがミュンツァーは、そんなバカげた話が信じられるか!‥というわけで、「化体の言葉」を唱えず、聖餅をただのウエハースとしてムシャムシャ食べたというのです。

 

 むろん、当時の人文主義者一般が、ミュンツァーのような過激な行動に走ったわけではありません。むしろ人文主義者の大部分は優柔不断な教養人で、当時の教会にも、皇帝・諸侯の権力に対しても、つねに妥協的・迎合的な人びとでした。ミュンツァーは彼らとは、早晩袂 たもと を分かつこととなるのです。

 

 

『市民階級の発展と結びついた新しい傾向は、〔…〕人文主義に表現された。中世的世界観の中心には神があったが、人文主義の中心目標は、知的な力や能力の開発に努力する教養人となることであった。

 

 もちろんドイツでは、人文主義の発生地イタリアとは異なって、人文主義の理念を担ったのは進んだ市民階級ではなく、雑多な教養層であった。彼らは民衆の社会的関心事には理解をもたず、ただ、学芸の領域にだけ関心を限定し、そして、世俗君主の利害と協調した。だから、ドイツ人文主義からは、ローマ・カトリック教会に対する〔…〕攻撃、まして封建制一般に対する〔…〕攻撃は期待できなかった。〔…〕ミュンツァーの社会的活動や、民衆の力への信頼は、人文主義の観想的態度や・社会問題への無関心と、真っ向から対立するものであった。』

ベンジング『トーマス・ミュンツァー』改訳版,p.20.   

 

 

会衆に囲まれるミュンツァー  映画『トマス・ミュンツァー』トレイラー

 

 

 

【20】 トマス・ミュンツァー ―― 

ルター派との出会いと別れ

 

 

 若くして博識を認められ、開明的な有産市民グループの支持を得て地域の改革の先頭に立ったミュンツァーでしたが、1519-21年に、彼の人生を大きく変える2つのできごとに遭遇します。1つは、ウィッテンベルクに赴いて、「95箇条」で「時の人」となったルターに会い、ルター派の一員として活動開始したこと。もう一つは、ルターの推薦で説教師として赴いたツヴィッカウで、いわゆる「再洗礼派(アナバプティスト)」千年王国説を信奉する結社〕 の職人・貧民層と出会い、彼らの感化によってルター派から離れ、より急進的な方向へ踏み出したことです。

 


〔ギトン註――ミュンツァーが〕おもに研究したのは中世の神秘主義者、とくにカラブリアのヨアヒムの千年王国説の著作であった。ヨアヒムが予言し描き出した千年王国、堕落した教会と、腐敗した俗界を罰する審判〔聖書の「最後の審判」――ギトン註〕は、ミュンツァーには、〔…〕間近かに迫ったものと思われた。

 

 彼は近辺で説教を行ない大喝采を博した。1520年に、彼は最初の〔ギトン註――ルター派〕福音説教者としてツヴィッカウに赴いた。彼はそこで、多くの地方に秘かに存続していた狂信的な千年王国思想の一派を見いだした。これらの教派は、〔…〕社会の最下層の・たえず高まりゆく反抗を秘めてきた〔…〕。それは再洗礼派で、先頭に立っていたのはニクラウス・シュトルヒであった。彼らは、最後の審判と千年王国は近きにありと説いた。彼らは「幻覚と恍惚と予言する能力」を持っていた。


 まもなく彼らは、ツヴィッカウの市参事会〔市政府――ギトン註〕と衝突した。ミュンツァーは彼らを弁護したが、〔…〕市参事会は彼らに対して強硬な措置をとった。彼らはこの町を立ち去らねばならなかった。ミュンツァーは彼らとともに立ち去った。1521年末のことであった。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.39-40.

 

 

 「カラブリアのヨアヒム(フィオーレのヨアキム Gioacchino da Fiore)」は、イタリア南端カラブリア州にフィオーレ修道院と独自の教団を創立した 12世紀の僧で、神秘主義的な歴史哲学と終末論(最後の審判,千年王国)を著しています。彼は十字軍を称揚したこともあって、生前その教義は、歴代の法王から正統認定を受けていました。が、死後に異端宣告され、以来、信奉者は秘密セクト化して各地に潜伏したようです。独語版ウィキ


 「ニクラウス・シュトルヒ〔1500以前 - 1536以後〕は、北東ドイツ・ツヴィッカウの織布工で、町のラテン語学校しか出ていませんでしたが、当地の急進・宗教改革派の頭目でした。彼の仲間たちの多くも、織布工や他の職種の貧しい職人でした。現在のドイツ・チェコ国境に近いこのあたりには、15世紀のフス派の抵抗の伝統が、終末論を奉じる神秘主義と融合して、下層民衆のあいだに根強く残っていたのではないでしょうか。

 


『彼〔ミュンツァー――ギトン註〕はルターの推薦によって、ツヴィッカウの説教職に就任する。ここで彼は、主として下層市民の間に支持者を得て反体制運動をすすめていた・ニクラウス・シュトルヒを指導者とする「ツヴィッカウの預言者たち」と親しく接触することになる。シュトルヒはおそらく〔ギトン註――チェコの〕ターボル・ワルドー派の流れを汲む異端思想の持主で、夢や幻の形で聖霊の啓示を受けて、終末の切迫を預言し、終末における背神者への復讐と、その後に設立される神の国〔千年王国――ギトン註〕を説いていたと推測される。このような聖霊主義的千年王国論は、ミュンツァーが理解したかぎりでの神秘主義と容易に結びつくことができたはずである。

 

 〔…〕ミュンツァーは、救済を人間個人の主体の問題であると同時に、社会体制の問題として、両者を不可分の形でとらえた。〔…〕主観的な神秘主義の伝統を継承しながら、しかも、救済を同時に社会体制の問題として提起した点に、シュトルヒはじめ「ツヴィッカウの預言者たち」のミュンツァーへの影響を読みとることができる。』

田中真造・著『トーマス・ミュンツァー』,ミネルヴァ書房, 1983,pp.18,99.  

 

 

映画『トマス・ミュンツァー』1956 より。

© DEFA-Stiftung Manfred Klawikowski.

 


 ミュンツァーツヴィッカウから追放されたあとプラハに行き、フス派運動の残党と結んで、ここに地盤を獲得しようと努めた。が、彼の公然たる宣教は、ボヘミアからも逃亡しなければならない結果をもたらしただけだった。

 

 1522年、彼はテューリンゲンのアルシュテットの説教師となった。彼はここで、礼拝の改革を始めた。ルターがまだそこまではしないうちに、彼はラテン語を全廃し、〔…〕聖書全体を〔ギトン註――ドイツ語で〕読誦させた。同時に、近隣に組織的な布教を始めた。四方八方から民衆が彼のもとに押し寄せ、まもなくアルシュテットは全テューリンゲンの大衆的反坊主運動の中心となった。

 

 ミュンツァーは、〔…〕ルターが以前に行なった暴力勧奨の説教を継承し、ザクセン〔テューリンゲンの北隣りの領邦だが、アルシュテットはザクセンの飛び地――ギトン註〕の諸侯と民衆に向かって、ローマの坊主どもに対する武力干渉を呼びかけた。――「我は平和をもたらさんがために来たりしにあらず、剣をもたらさんがために来たりしなりマタイ 10:34。ミュンツァーは少し変えている――ギトン註〕、とキリストは言いたもうたではないか。しからば、諸子〔ザクセンの諸侯――エンゲルス註〕はその剣をもって何をなすべきか? 福音の妨げとなる悪人ども〔法王庁に忠実な聖職者たち――ギトン註〕を片付け放逐すること、これ以外にない。〔…〕神の啓示に逆らう者は、〔…〕少しも容赦せずに取り除かねばならぬ。さもなければ、キリスト教会は、その本来の姿に立ち返ることができないであろう。〔…〕


 しかし、この・諸侯に対する勧誘は、なんの成果も生まなかった。その一方、民衆のほうでは、革命的激情が日増しに募 つの ることとなった。ミュンツァーの思想はますます尖鋭な形をとり、ますます大胆になって、いまや彼は市民的宗教改革〔ルター派の――ギトン註〕とはきっぱり袂 たもと をわかち、爾後、説教者であると同時に、直接に政治的アジテーターとしてふるまった。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.40-41.  


 

 エンゲルスの叙述↑からすると、ミュンツァーは、ルター派から離れていく過程で、神秘主義的で狂信的な終末思想に傾いていったかに見えるかもしれません。しかし、エンゲルスの執筆意図は、そうではありません。

 

 少し補っておきますと、戦後東独の歴史家ベンジングによれば、ミュンツァーが神秘思想から受けた大きな思想的インスピレーションは、人間の自己形成能力に対する信頼、つまり、「人間は自分を教育して向上させるとともに、他人を感化して社会を変革する能力を持っている」という確信だったのです。これは、ルターの思想とは真っ向から対立するものです。ルターは、「自分の力で善を認識し、実現しうる能力は人間には無い、と断定した」。人間になしうることは、ただひたすらに神を信じることであって、その信仰の深さだけが、人間の正しさ(義)を証明するのであると。ルターは、いかなる形であれ、人間が善行〔教会への寄付だろうと、社会貢献だろうと〕によって正しいと認められることを否定したのです。(ベンジング『トーマス・ミュンツァー』改訳版,pp.28-29.)

 

 考えてみれば、「自由」「平等」といった啓蒙的価値を肯定する大もとにある確信は、ミュンツァーのような・ひとりひとりの「人間の能力に対する信頼」であるはずです。この確信なくして民主主義はありえません。その点に注目すれば、ミュンツァーは、ただの宗教家ではない。むしろ近代思想の先駆者だ、と言えるかもしれません。

 

 ただし、その点だけを切り取って、ミュンツァーの近代性だけを見てしまうと、彼の全体像は見えなくなってしまうかもしれません。エンゲルスはむしろ、そちらの方向に傾きすぎているように思います。

 

 ミュンツァーの思想の近代性をもっぱら強調し、さらに、彼の「千年王国主義」を「プロレタリア革命思想の先駆」と把え、これらをミックスしたものがミュンツァーの「革命神学」にほかならない、――と規定するのが、この論文でのエンゲルスのテーゼなのです。

 

 このような歴史の見方は、「宗教外被論」といわれるものです。近代以前に、近代思想を表現するコトバがまだ無い時代には、宗教の言葉で、近代思想や近代的革命思想を語ったのだ。宗教の言葉は、単なる外側の被 おお いであって、見せかけにすぎない、というわけです。

 

 これに対して、現在では、旧東独のマルクス主義系研究者も含めて、「宗教外被論」はとっていません。ミュンツァーは、革命指導者の役割をしつつも、彼の思想と行動のすべては、芯からの宗教的確信に基いています。ミュンツァーの宗教は、けっして「外被」などではありません。

 

 しかし、そのへんの議論は、もう少し後でやりたいと思います。さしあたっては、まずエンゲルスの議論をそのまま追いかけてみることにしましょう。


 

アルシュテット,聖ヨハネ・バプティスト教会。Wikimedia

ミュンツァーが説教活動を行なった。現在の建物は 1765年再築。

 

 

《トマス・ミュンツァー 年譜》 1524年まで

  • 1490年以前 北ドイツ・ハルツ山地のシュトルベルクで生まれる。
  • 1500年ころ ミュンツァー一家、シュトルベルクからクヴェドリンブルク,アッシャースレーベン,またはハルバーシュタットに移住。
  • 1506年 ライプチヒ大学に入学。
  • 1512年 フランクフルト(オーデル河畔)のブランデンブルク大学に入学。
  • 1513年 ハレ(ザーレ河畔)の「聖ゲルトラウト・聖マリア聖堂区学校」に助教師として就職。ここで、大司教エルンストに反対する秘密組織を結成。
  • 1514年 ハルバーシュタット司教区で、はじめて聖職に就く。5月、ブラウンシュヴァイクで、叙任司祭禄。
  • 1515年ころ アッシャースレーベンで市民同盟を組織。反乱を起こして市参事会を一時掌握か? 敗北して逃亡。
  • 1516-17 アッシャースレーベンに近いフローゼ修道院の院長代理。
  • 1517年 ルター、ウィッテンベルクで「95箇条の論題」を提起。
  • 1518-19年初 ミュンツァー、ウィッテンベルクを訪問し、滞在。
  • 1519年 ミュンツァー、各地を転々とし、6月:「ライプチヒ討論」〔法王側がルターを呼び出して論戦〕に、ルター側で参加。19年後半~20年5月までは、ヴァイセンフェルス近郊の女子修道院にこもって神秘主義を研究。
  • 1520年 ルターの推薦でツヴィッカウに説教師として赴任(~21年4月)。ここでシュトルヒら織布工の神秘主義結社と親交を結ぶが、市参事会と衝突して、ともどもに追放。
  • 1521年 「ウォルムスの帝国議会」:ルター派を禁止(ウォルムス勅令)。ルター、自説撤回を拒否し、帝国追放刑となり、ザクセン選帝侯フリードリヒに匿われる。4-11月、ミュンツァー、ボヘミア各地(プラハ等)で説教活動、最終的にプラハから追放され、北ドイツに戻る。
  • 1522-23年 「騎士戦争」:指導者:フッテン、ジッキンゲン。
  • 1522年 ミュンツァーは、ウィッテンベルク,ワイマル等を転々。
  • 1523年 ミュンツァー、アルシュテットで司祭に就任し、結婚、はじめて活動拠点を確保。
  • 1524年3月 アルシュテットで「同盟」を設立し、拡大。7月、ザクセン公ヨハン〔選帝侯フリードリヒの弟〕らの前で「御前説教」;内容を印刷・出版。8月、出版禁止、「同盟」禁止、説教禁止を受け、ミュンツァー、アルシュテットから逃亡。
  • 1524-25年 「ドイツ農民戦争」。

 

 

ミュンツァーと脱走修道女オティリエ。アルシュテットで結婚。

2017年テレビドラマ “Zwischen Himmel und Hölle” より。

 

 

 

【21】 ミュンツァー「革命神学」の成立――

神父の皮をかぶった革命家?

 

 

 アルシュテットミュンツァーは 1年6か月(1523年3月~1524年8月)滞在し、その間に彼の「革命神学」は、おおかた形を整えます。まず、エンゲルスの叙述によって、その内容を見ていきましょう:



『彼〔ミュンツァー――ギトン註〕の神学・哲学理論は、〔…〕形はキリスト教でも実は一種の汎神論を説いていた。それは近代の思弁哲学に酷似しており、時には無神論にまで通ずるものだった。彼は聖書を、〔ギトン註――神の〕唯一の啓示とも、誤謬無き啓示とも見ていなかった。彼はこう考えた。真の啓示、生ける啓示とは、理性である。すなわち、あらゆる時代にあらゆる民族に存在してきた〔…〕啓示が、それである。〔…〕聖書に云う聖霊とは、我々の外に存在するものではなく、理性こそが聖霊なのだ。

 

 信仰とは、人間の内で、理性が活性化することにほかならない。したがって、異教徒にも〔ギトン註――正しい〕信仰がありうる。この信仰、すなわち活性化した理性によって、人間は聖化され救済される。したがって、天国は〔…〕この世に求むべきものであり、この天国、すなわち神の国を地上に打ち建てることこそが、信者の使命(Beruf)である。

 

 彼岸の天国が存在しないのと同様に、彼岸の地獄も永遠の劫罰も存在しない。キリストは我々と同じ人間であり、預言者であり教師である。キリストの聖餐〔聖体拝領。ミサの際に、司祭がパンをキリストの肉に変化させて信者に食べさせる儀式――ギトン註〕は、たんなる記念の食事にすぎない。〔…〕

 

 こうした説の多くをミュンツァーは、くだんのキリスト教的言い回しの影に隠れて説いた。〔…〕ミュンツァーの宗教哲学は無神論に近かったが、彼の政治綱領は共産主義に通じるものがあった。〔…〕この綱領(Programm)は、当時〔…〕平民のあいだにようやく芽生えたプロレタリア的分子の解放の条件を、天才的に予見したものであった。この綱領は、神の国、すなわち予言された千年王国を、今すぐに地上に建設することを要求していた。教会を本来の姿に戻すとともに、この一見すると原始キリスト教的な・しかし実は非常に新しい教会とは矛盾する・いっさいの制度を廃止することによって、神の国は建設されるというのだ。』

 

 このような「宗教的外被」のもとにミュンツァーが語っているのは、実は、共産主義の建設にほかならない。すなわち、『神の国という名のもとにミュンツァーが考えていたのは、もはや階級差別も、私有財産も、社会の成員から独立した外的(fremd)な国家権力も存在しない社会状態にほかならなかった。現存の権力は〔…〕すべて転覆されよ。いっさいの労働、いっさいの財産は共有となり、このうえなく完全な平等が実現されよ。

 

 これをなしとげるために、全ドイツ、いな、全キリスト教圏にわたって、一つの同盟を設立し、諸侯ら、領主らに加入を招請せよ。もしも加入せずんば、同盟は、手当たり次第に彼らを転覆しまたは殺害せよ。――とミュンツァーは説いた。

 

 そして、ただちにこの同盟の組織に着手した』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.41-42.  

 

 

 このようにエンゲルスが描くミュンツァー像は、あたかも “神父の皮をかぶった革命家” のようです。なるほど、歴史物語としては、それもサスペンスがあっておもしろいかもしれません。が、はたして、ミュンツァーその人の内面的真実に、エンゲルスはどれだけ迫っているのだろうか? ‥そういう疑問を持たざるをえません。

 

 たしかに、上↑でエンゲルスが書いているミュンツァーの教義や「綱領」じたいは、おおむね事実です。が、そうした考えが出てくるミュンツァーの内面的核心は、現代の研究者によれば、現実政治的な革命家のものではなく、むしろきわめて宗教的な精神なのです。その核心的部分を看取してはじめて、ミュンツァーという人間のダイナミズムを知ることができます。また彼がなぜ、おおぜいの民衆に感銘を与えることができたのか、彼らの “正義” となりえたのか、彼の精神の核心部分を把えて初めて理解できるのです。


 そこで、最近の研究書から、より重層的・立体的なミュンツァー像を読み取り、エンゲルスのミュンツァー像に対置してみたいところです。次回は、そこから始めましょう。


 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!